あたご劇場“昭和レトロスペクティヴ”シリーズ第15弾「日活ロマン・ポルノ傑作選」

①『生贄夫人』('74) 監督 小沼 勝
②『戦国ロック 疾風の女たち』('72) 監督 長谷部安春
③『八月はエロスの匂い』('72) 監督 藤田敏八
 あたご劇場で、かねてより気になっていた『生贄夫人』と『八月はエロスの匂い』を上映していたので、観ようと思いつつ、なかなか行けずにいたが、からくも最終日に駆け込むことができた。

 『生贄夫人』では、六年前に花芯の刺青 熟れた壷で久しぶりに観た谷ナオミに、今度は久方ぶりにスクリーンで再会し、改めて魅せられつつも、一人芝居『土佐源氏』で名高い坂本長利の味のある存在感が思わぬ収穫だった。元夫婦でありながら、秋子(谷ナオミ)と国貞(坂本長利)が相互にきちんとした敬語を使い合う距離感のほどに趣があった。恐らくこの距離感は、彼らが夫婦だったときにはなかったものであると同時に、この微妙な距離こそが、二人の間のSM性愛に豊かな実りをもたらし得たのだろうという気がした。

 それにしても、この時分の谷ナオミの肌の美しさと熟れた肉体の眩しさには、息を呑むほどに圧倒的な、神々しさとも言えるほどのものがある。団鬼六の『美少年』に収録されている『妖花 あるポルノ女優伝』には昭和四十年ごろに十八歳の谷ナオミと出会ったとの記述があり、それなら、この当時はまだ三十歳前ということになるのだけれども、この爛熟ぶりはとても二十歳代とは思えないと感じつつも、肌の張りには生気が漲っていて実に瑞々しい。とりわけ、苦悶であれ、羞恥であれ、愉悦であれ、女体の捩らせ方が絶妙で艶技力が頭抜けていた。『花芯の刺青 熟れた壷』を観たときに際立っていたのは尻肉や腹部だったが、『生贄夫人』では脚の捩りや震えが絶妙だった。なかでも、じっと便意を堪える姿や人目のなさに遂に自ら洗面器に跨った用足しの間際を狙って見咎められたときの戦慄き、白無垢の花嫁姿で緊縛されて吊られたまま滑車で無理矢理脚を吊り引かれながら、開いた股間の剃毛に石鹸が要らないと揶揄されていたときの震えなどにおいて、最も目を惹いたのは彼女の脚の風情だったように思う。


 『戦国ロック 疾風の女たち』では、あの都会的なイメージの強い田中真理に、野趣に富んだ時代劇ポルノがあったことに意表を突かれた。侍の武器を強奪して、あちこちで農民による武装蜂起を仕掛けようとしているらしい無頼の野盗集団には、革命を標榜しつつも閉塞していた当時の極左勢力を、どこか重ねているところがあるような気がした。実際に武器強奪に成功してみると、念願だったはずの農民決起に向かう手だてを講じるどころか、早々と裏取引で売り渡して一儲けするせこい打算に走るばかりで、夢もロマンも口先だけなのが男たちであることを露呈させる場面には、とりわけ痛烈な皮肉が込められていたように思う。天魔太郎(梶 健司)の率いる野盗集団には、明確に男性的ヒエラルキーが構築されているが、疾風の女たちの徒党には、連帯に基づく自由な緩やかさが宿っていて、婉(田中真理)が発揮しているのは、首領としての権力ではなく、あくまでリーダーシップに留まっている。太郎にしても、かつて発揮していたのはリーダーシップであったはずなのだが、率いる徒党の内部統制に向けた権力化のなかで、所期の夢もロマンも失っていったのだろう。そういうことを窺わせるような対置が、天魔谷の一党と疾風の女たちの間には意図されていたように思う。

 夜の草むらで太郎と婉が交合う場面には、絵柄として強い美意識を感じさせるところがあって、尚かつそれが、SMものではないのにどこか『生贄夫人』に通じるようなセンスだと思ったら、撮影スタッフが同じで、森勝となっていた。また、『八月はエロスの匂い』と『戦国ロック 疾風の女たち』の脚本には、大和屋竺が共同脚本で参加しているのを見つけ、かつて上映検討をかねて観た覚えのある監督・脚本作品の『荒野のダッチワイフ』よりも数段いいじゃないかとちょっと見直した。


 『八月はエロスの匂い』には、主役のデパートガール圭子(川村真樹)のキャラクターを通じて、どこか投げ遣り気分のあてどなさのようなものが感じられるのだが、それが時代感覚として宿っているように感じられるところが魅力の作品だと思った。今から振り返れば、'70年代初めは何もかもが貧相で、アパートや遊園地のみならず、デパートの貴金属売場にしてからチープな風情が何だか懐かしい。倦怠と退屈という時代の気分を画面から受け取りつつ、そう言えば“刹那主義”という言葉の流行った時代だったことを思い出した。しかし、この作品は、そういう時代性のようなものにひたすら寄り添っているのではなく、むしろ疎外感や居場所のなさといったものが、殊更に苛んでくるわけではない真綿締めのような形で自分の何かを蝕んできていることに対して、何らかの行動を起こさずにはいられない苛立ちが募りつつある時代の気分をも捉えていたように思う。芝木に当てつけるような形でシラミ(むささび童子)を誘い、砂浜でのセックスに興じていた圭子のなかにあったのは、そういう苛立ちであるような気がした。




*『生贄夫人』
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2001icinemaindex.html#anchor000558
by ヤマ

'06. 5.22. あ た ご 劇 場



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