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『さよなら みどりちゃん』 | |||||
監督 古厩智之 | |||||
新たに発足させるという自主上映グループの上映候補作としてリクエストしたら、思い掛けなく第一回の上映作品に採用してくれた。推薦理由を求められ、「『まぶだち』で眼をみはった古厩智之監督の作品だ。『ロボコン』で成功も収め、今回初めて中高生ではなく成人を描いた作品を撮ったというのが一番の注目どころ。これまでの作品で、思春期の中高生の心の襞と綾を、言葉を拒んだ肌触りとして実に的確に捉え、巧みに描出していた古厩監督が、成人男女のそれをどのように綴るのか、とても楽しみだ。」とメールで送ったら、上映当日発行のニュースに掲載されていた。十三年前に『灼熱のドッジボール』を観、以来『この窓は君のもの』『まぶだち』と観るたびに、その年々の私撰ベスト5にランクインして順位を上げ、遂に最上位に至った後、『ロボコン』では「爽やかないい映画であることは論を待たない…けれども、僕は少々がっかりしていた。」と日誌に綴っていただけに、この作品を観ることができたのは幸運だった。また、二ヶ月ほど前に'93年作品の『走るぜ』を観る機会を既に得ていたことも幸いだった。 本作では、僕が『ロボコン』の日誌に「若さを礼賛するばかりでなく、寄る辺なき不安とともにある成長を汲み取っているところに好感が持てる。そして、若者が成長できるのは、そういう内なる不安を秘めながら、どこか無防備に状況に身を預け、投げ出し没頭できる潔さが掛け替えのないものとして備わっているからだということも、作り手はよく知っている。そういう若さを仲間という形で交感し合えるところにこそ秘訣があるのだ」と綴った部分をそのまま軸にした形で成人した若者の恋模様を描いており、『ロボコン』で「これまでの古厩作品に満ち満ちていた濃密な行間の充実によって息づいていた人物造形が、この作品では随分と希薄になっているような気がした」ことの失地回復を見事に果たしていたと思う。非常にデリカシーに富んだ人物描写を堪能できた。そして、少々若くたって、成人してからの恋では、たとえ「内なる不安を秘めながら、どこか無防備に状況に身を預け、投げ出し」てはいても、それが素朴な没頭には繋がらずに“爽やかさ”を失ってしまうものであるということを行間豊かな描出で捉えていたような気がする。無防備とは言えど、どうしても、傷つくことを恐れ回避するための衒いや構えを心のなかに置くこと抜きには向かえなくなるし、素直に若さを交感し合えなくなるのが、十代を越してしまうことで、もたらされるものでもあると改めて思った。 おそらく多くの人には、ユタカ(西島秀俊)はたろう(松尾敏伸)が言うようにムカつく男に映るのだろうが、僕の目には、嫌われることで傷つきたくないゆうこ(星野真里)ともう去られることで痛手を被りたくないユタカは、ともに今風に恋もセックスも軽やかにこなせるフリをしているところでの似たもの同士のように見えた。マジになったりムキになったりできないのは、自分が傷つくことへの怖れから来ているのであって、ユタカにしても、女に対して軽くてだらしなくてデリカシーのない男というものを嵩に掛けるように露悪的にゆうこにぶつけていたのは、むしろ、ゆうこ以上に相手の気持ちが読みきれないもどかしさに耐えかねていたからではないかという気がする。なんのかんの言っても元カノとは誘われてもセックスをせずに戻り、久しぶりに帰ってきたみどりちゃんとも夜を過ごさずにアパートの階段に腰掛けてゆうこの帰りを待っていたように見えたユタカは、映画のなかだけでも三度もしつこく事ある毎に「たろうとはもうやったのか?」と気に掛け、訊かずにいられないのだし、真希(岩佐真悠子)の強引さに押し切られた後、初めてならもう少しいいとこでしてやれば良かったなどと思うのだから、本当は“軽くてだらしなくてデリカシーのない男”ではないような気がする。 そういう点では、原作漫画にはなかった「14番目の月」(荒井由実作詞)をフルコーラスで重ねてきていたのが秀逸で、“IWANUGA HANA”にしても“YANAGI NI KAZE”にしても、ゆうことユタカの物語のキーワードとしてズバリ嵌まっている。加えて“気持ちが読み切れないもどかしさ”“かわす”といった言葉とともに何よりも、失い欠けていくことへの怖れと不安が、それに似合わぬ軽やかさで歌われているのだから、オリジナル主題歌と勘違いされても不思議がないくらいであった。 とりわけ痛烈だったのは、気軽なジョークがとぎれたわけではないが重く長い“沈黙”をユタカの背中で映し出していた場面だった。「私はユタカが好きだから、ユタカもちゃんと私のこと、好きになってよ。」と切り出され、ユタカが、迷いとともに強い敗北感に見舞われているような気がした。ゆうこの気持ちの重さと軽さを読みきれないなかで自分で掴む前に突きつけられ、そこまで追い込んだ自責とここに至るまで掴めなかった忸怩に苛まれつつ、真正面からぶつけられると負いきれない気にもなってしまう情けなさにうなだれていたのではないかという気がする。十八年前に観た『黒い瞳』('87)でロマーノに扮したマストロヤンニの後ろ姿がアップでしばらく映された映像の溜めを想起させるものがあった。 だが、結局無言で立ち上がり着替えて「じゃあまた来るよ」と言って出ていくユタカとの訣別をゆうこが決意するのは、切り出しの決意をした以上、当然のことだろうと思う。そして、自分を変えて生きる決意の証が、下手な歌を晒すのを恐れずに歌うことだったのだろう。酔客の接待に歌うことよりもチークダンスで踊ることを選ぶほどにカラオケを嫌がっていた先の場面が効いていて「私は変わるんだ!」との強い思いが窺われる印象深いエンディングだったが、ここでの星野真里の確かに猛烈に下手な歌いっぷりには、さして見映えのしない乳房を見せること以上のインパクトがあって、少なからぬ感銘を受けた。そして、ゆうこに背中を向けて長らくうなだれていたユタカも、おそらくは、自分の気持ちがマジになった女に対して“軽くてだらしなくてデリカシーのない男”というものを露悪的にぶつけることで相手の気持ちを測ろうとすることは、もうなくなるのだろうと思う。しかし、二人の成長には『ロボコン』のときのような爽やかさはなく、『まぶだち』には及ばないながらも苦みが利いていて、若いとはいえ、いかにも成人してからの恋模様だったように感じる。 それにしても、ゆうこの切り出しの決意には、ユタカから「オナニーしているところを見せろよ」と言われて抵抗感を覚えながらも従ったことが、どの程度、直接的に影響していたのだろう。場面的には連続した繋がりだったので、こんなことまでしてしまう自分という面が決意の引き金として最も強く作用しているように見えたのだが、冗談口とは言え、「今度はソープで働いてみないか」などと言ってくるユタカの嵩に掛かりようのほうが、根底部分での強い引き金になっていたのかもしれない。ゆうこ自身とユタカのどちらの側の要素が強いと感じるのか、女性たちの見解を伺ってみたいものだと思った。 [参照メモ] 「14番目の月」(荒井由実作詞) あなたの気持ちが読みきれないもどかしさ だから ときめくの 愛の告白を したら最後 そのとたん 終わりが 見える um・・・IWANUGA HANA その先は言わないで つぎの夜から 欠ける満月より 14番目の月が いちばん好き 気軽なジョークが とぎれないようにしてね 沈黙がこわい 月影の道で 急に車止めないで ドキドキするわ um・・・YANAGI NI KAZE なにげなく かわすけど つぎの夜から 欠ける満月より 14番目の月が いちばん好き つぎの夜から 欠ける満月より 14番目の月が いちばん好き 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2005sacinemaindex.html#anchor001321 | |||||
by ヤマ '06. 1.28. 自由民権記念館ホール | |||||
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