『黒い瞳』(Oci Ciornie)
監督 ニキータ・ミハルコフ


 説明的な場面が全くなく、展開の饒舌さを最大限排除していて、近頃にはなく想像力を刺激される作品である。映画作品として普通は映像化してしまうであろう、物語の進行のうえで重要だったり、ドラマ性の強い場面を順次映像化するのではなく、ほんの限られた幾つかの場面を除いては、そこに至る場面、あるいはそれ以降の場面を、ある時はユーモラスに、ある時は抒情豊かに、またある時は透明で乾いた空虚さをもって実に丹念に描いている。その映像の見事さが、映画のなかで直接的には描いていない部分への想像力を喚起させ、同時に、その例外となった幾つかの限られた場面、即ち、アンナが「私、初めて幸せだから・・・」と泣く場面やロマーノが「すべてを捨て、片を付けて戻って来る。」と言う場面、そして、エリザに「ない。絶対に。」と言ってしまう場面などを鮮明にクローズ・アップさせるのである。

 何故ロマーノは、苦労してロシアまでアンナを追って行き、片を付けて戻ると言っておきながら、エリザの「一度でいいから、本当のことを言って。ロシアに女の人がいるの?」という問いに、「ない。絶対に。」と答え、ローマに留まったのか。彼が女房に頭が挙がらないからだとか、いい加減な男だからというのでは決してない。ロマーノは、どういう人物なのであろう。ラスト・シーンで彼は言う、「今は、二十世紀なのだ。人に気を使ったり、人に期待したりする時代じゃないんだ。」

 庭園でのパーティーで鳥のような歩き方をしていたロマーノの姿は印象的である。いつも剽軽に振舞い、冗談を言って、目の前の相手にサービスをし、それを受け入れて貰うのが何よりも嬉しく、ピアノの演奏会のようにそういう役回りのない時には、虚ろな倦怠感に襲われる。かつて抱いた建築家としての夢も、大銀行家の娘との結婚後、遺産相続で家督を継いだ妻とその母親からの疎外と安逸さだけの生活のなかで失われ、最早そういった剽軽さで自分を表現することが唯一のアイデンティティーになり、人から軽く見られることにも、もう慣れ切ってしまっている。何の義務も責任も目的も与えられない人生は過酷である。だからこそ、彼の言葉を真に受け、彼のサービスを本心から喜んでくれるアンナに掛替えのなさを感じたのであろう。彼のアンナへの気持は、妻に問い詰められたその時にも、些かの揺るぎもなかったはずである。

 しかし、すべてを捨てると言って戻ったローマには、彼が捨てると言ったはずのものが既になかったのである。そして、実に久方振りに、妻が自分に縋るような目で、しかも財産を失って肩の荷が降り、やっと求めていたものに目を向けることができたという様子も見せたうえで(これは本当は少し不自然なのだが、周到な演出である)、問うてきたのである。ロマーノならずとも、ここで自分の意思を通して「いる。」とは答えようもない。まして彼は、目の前にいる人にサービスすることが身上の男であり、そういうシヴィアな場面には耐えられないで、逃げ出すか、ジョークに替えないではいられないようなタイプなのである。単なる優しさとか、気の弱さとか、いい加減さというものではない。やはり「ない。」と答えてしまう。しかも「絶対に。」と付け加えて。

 しかし、アンナとのことは、今迄のような逃げたり、誤魔化したり、いい加減にしたりすることとは、決定的に違っていたはずなのだ。エリザにそう答えてしまって、彼女の笑顔があった後、ロマーノに扮しているマストロヤンニの後ろ姿がアップでしばらく映される。言ってしまった後で、意に反して発した自分の言葉の意味することを思い直している。この映像の溜めがいい。その時、ロマーノは何を思っていたのであろうか。アンナとのことでさえ、今迄と同じ様に言ってしまう自分への嫌悪と失望、そういう自分に彼女はふさわしくないという自責、総てを捨てると言ってきた、その総ての中身が違って本当の総てを捨てることになっちまったという自嘲、何て間が悪いんだとの恨み、財産を失うエリザとアンナを失う自分とがもう一度やり直してみるのが似合いだろうという諦め、そして、昔に戻れるかもしれないとの細やかな希望・・・。溜めの後、振り返ったマストロヤンニのそれら万感の思いを押し込めた、何とも言えない笑顔がどうしようもなく哀しい。確かに、人生には、如何ともしがたい間の悪さによって失わざるを得ないものや取返しのつかない瞬間といったものがある。その運命的 な力に対して抗い切れる程に、人間は強くはない。しかし、この作品には、そういった人間の弱さを指摘するのではなく、人生の哀しさのなかにある人間の営みのけなげさを見守る優しい眼指しがある。

 ラスト・シーンでロマーノが言う。「私の人生には何もなかった。覚えているのは、母親の子守歌と初夜の時のエリザの顔、そして、ロシアの深い霧だけだ。」見終えると、見事にその子守歌と深い霧に包まれたロシアの広大な大地とが、感慨とともに自分の心象風景のなかにも宿っていることに気づく。ミハルコフ監督の人生への眼指しの優しさによるものであろう。いい作品と出会った後の余韻というのは、こういうものなのである。
by ヤマ

'88. 3. 2. 渋谷東急2
'88. 4.14. 高知にっかつ



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