『まぶだち』
監督 古厩智之


 新規な奇抜さや流行のスタイリッシュな映像などに見向きもせず、寡作ながらも、実に想像力を掻き立ててくれる古厩作品に、今回は都会からもさして遅れをとらずして観る機会を得た。『灼熱のドッジボール』にもこの窓は君のものにも感銘を受けたが、新作も期待以上だ。

 ファーストシーンの廃車バスのある空き地で、遊び半分の万引きに成功したテツヤ(高橋涼輔)が嫌な気分が残るとこぼし、セカンドシーンの教室では、「正直」と書いた貼り紙が大写しになる。主人公サダトモ(沖津 和)は、クズの嘘つきと言われる中学生だ。では、正直とは、いったい何だろう。誰に対してのもので、どういうことについて問題になるものなのだろう。事実に対する認識の当否が問われるものは、「正解・間違い」だから、嘘には欺く意図がなければならない。一方、事実についての真偽が「嘘」の名のもとに問われることも多々ある。欺く意図のない事実誤認であれば、嘘ではなく間違いであるはずなのだが、意図の有無よりも真偽のほどにおいて嘘か否かが断じられることのほうが圧倒的に多い気がする。なぜなのか。真偽の判定も困難ではあるものの、意図の存否の判定よりは、遥かに断じやすいからだろう。

 この作品には、さまざまな嘘と欺瞞が実に繊細な彩りによって描き出されている。教師の言葉、生徒の言葉、親の言葉、子供の言葉、友人同士の言葉。欺く意図の存否は、当人でさえも自覚できないものがあり、欺く意図があっても、それが善意か悪意か或はその区別もつかないか、全く以て悩ましいのは、何も少年期に限った話ではない。だから、何が嘘であるのかということには、あまり意味がない。重要なのは、何を嘘と感じるかということだ。そのうえで、許容できたり、場合によっては感謝したりもする形で受け入れられる自他の嘘もあれば、どうにも我慢がならない嘘もある。


 この作品において最も強烈な嘘は、小林先生(清水幹生)から、周二(中島裕太)は足を滑らせたのではなく、自分で飛び降りたんじゃないのかと尋ねられたサダトモが、足を滑らせたんですと答える嘘だ。一見、千載一遇とも思える、小林先生にダメージを与えるチャンスをサダトモが、なにゆえ行使しなかったのかと思い返してみると、いつも誰かに頼られていないと不安だったとテツヤにこぼしたサダトモが小林先生に感じ取っていたものが、実は自分にも通じるところのある不安だと感じていたのではないかと思った。小林先生が常に生徒に緊張をもたらし、厳しく支配しようとするのは、自分の教師としての力と存在の証を確かめるためだということをサダトモは察知している。だが、小林先生が生徒に向かって吐く言葉は、きわめて非人間的ながら、論理的に隙はなく、使い方次第では極めて含蓄をも有している。

 だから、サダトモの感じている反発は、映画の冒頭で万引きの後にテツヤがこぼしたような気持ちの悪さであって、明確にその非を論理的に質せるものではなかったはずだ。サダトモの反抗が彼の器からは不釣合いな煮えきらなさを常にまとっていたのは、納得と反発を同時にもたらされるがゆえのものだったような気がする。ある意味では、加トサ(西澤宗一郎) のような従順さ以上に小林先生に翻弄されている部分があったのではないか。見方によれば、厳しい愛の鞭だともとれなくはない偽装を、巧妙に小林先生は施してもいた。しかし、前述の意図の存否で言えば、小林先生にどれだけの自覚があったのか、一概には言えない人物造形をこの映画はしている。そこが、この作品の見事なところだ。

 テツヤから仕切りたがり屋だと責められてはいても、サダトモが先生に似ているかもしれないと自分自身で懸念していたように感じられるのとは異なり、彼が小林先生とは似て非なるものであることは、周二への向かい方に明瞭に現れている。万引きの自白にまつわる予測や顛末において、サダトモは自分の期待に応えられない周二をそのまま受け入れ、決してなじらない。小林先生のやり方は、カル(片野誠也)やミノル(菊池隆行)に対しては、何らかの力を引き出し得たのかもしれないが、応えられない周二に対しては、ひたすら追いつめていくだけだ。作文でも、ランニングでも、絵でも、バケツ持ちでさえも、小林先生の言う“自らつけるケジメ”というものを果せなかった周二が、ノミを手に打ち込んだのも、川に飛び降りて生命を断ったのも、おそらく彼なりのケジメだったとサダトモは考えたに違いない。鈍くて臆病で気の優しい周二が、小林先生の仕打ちによって、結果的にたった一人の落ちこぼれに追い込まれ、そんな形でケジメをつけてしまったのが何とも悔しくて仕方がなかったのだと思う。しかも、それさえも小林先生に見透かされたんじゃ、周二の立つ瀬がない。実際に小林先生が周二の死を自殺と知ったら、果たしてどう受け止めたのかということは、一概には断じられない様子が窺えるほどに、小林先生はある種の覚悟をもってサダトモに尋ねていた。けれど、少なくともサダトモは、彼に自殺と知られて「馬鹿なケジメのつけ方をしたもんだ」となじられることを一番恐れたのだという気がする。そして、「アンタの影響力がそんなに大きかったなんてことにしてたまるか」という思いがあったのではなかろうか。だが、小林先生の心境もサダトモの心境も、この映画では台詞で語られることはない。観る側の想像力に委ねられている。


 また、周二が飛び降りた橋のたもとに、ヒマワリの小花が供えられているのをサダトモが目に留める場面と遺体捜索が打ち切られたであろう後にテツヤがサダトモを誘って捜索を続けようとしたことに対して「欺瞞野郎」と罵声を浴びせ喧嘩になったとき、周二の父親が川べりの草叢から、ぬっと姿を現した場面も、妙に心に引っ掛かり、残っていた。何が宿っていたのだろうかと考えてみた。

 ヒマワリの花というのは、前に教室で加トサが亡き周二の机に供えた花だ。そのときにサダトモは、猛然と殴り掛かっていったのだった。ここでも加トサがどういう心持ちで花を供えたかは語られないが、彼が点数稼ぎ(これについては加トサ自身の台詞で明示がされている)に小林先生に届けた周二の名札がきっかけとなっての万引きの露見となっていたから、サダトモは、優等生面の欺瞞に怒りを覚えて殴り掛かったのだろう。だが、人知れず供えられている花(それは加トサが供えた証拠はないものの、慰霊の献花には最も似つかわしくない花が偶然にして一致するとも考えにくい)を観たり、心残りが断ち切りがたく、可能性は極めて低いと知りつつも、息子の遺体の捜索を続けていたようにも見える周二の父親の姿と出会ったりして、何もかもを欺瞞とばかり受け取ることについて、サダトモ自身に思うところがあるように見えた。

 この二つの場面が印象深かったのは、他者への懐疑についての自戒のみならず、結局のところ、そういう受け取り方をするというのは、自身の欺瞞性の反射であることにサダトモが気づかされたことを示しているようにも見えたからだろう。そこには、教室で小林先生が自己嫌悪というものについて語っていた台詞が効いてもいる。たいした作品だ。




参照テクスト:往復書簡及び掲示板過去ログ編集採録

推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2001macinemaindex.html#anchor000691
推薦テクスト:「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」より
http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/02_04/Bad_Company.html
by ヤマ

'02. 5.17. 県民文化ホール・グリーン



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