『この窓は君のもの』
監督 古厩 智之


 セックスを裸になって肌を合わすという形で交わすようになると、最早なかなか取り戻すことができなくなるセックスのヴァリエーションをむさぼる特権があの頃にはあって、その濃密さや緊張感が清々しくも快く、今の歳になれば、無性に羨ましく見えてくる。

 枕投げや突き飛ばし合いやら走ること、水の掛け合いなどをある種のセックスとして交歓することは、どんなに変化を加えようとも裸で睦み合うという意味ではパターン化したセックスしかしなくなった者には、なかなか味わえなくなるものだ。その甘く切ない官能をほとんど体験するゆとりもなく、若い時代を生き急ぐことが何とももったいないことに思えるほど、みずみずしくスリリングに捉えられていて見事だ。揺れ。迷い。誘い。躊躇い。それらを押し込め、覗かせしながら戯れる様子に息遣いが宿り、その奥には今の時間と相手を丁重すぎるくらいに大切にしたいと感じている清廉さが潜んでいて、眩しく爽やかだ。

 チラシには、『カルネ』カノンを撮ったギャスパー・ノエ監督の映画自体の清々しさにもかかわらず、これを見ている僕らは、ストリップを見るときのような気持ちになってしまう。僕は彼の開拓した映画のエモーショナルな表現の可能性に目から鱗が落ちる思いがした。との賛辞が寄せられていたが、大いに共感を覚えた。八年前に神戸国際インディペンデント映画祭という短編映画祭で『灼熱のドッジボール』を観たときも、日本の作品のなかでは、一頭地を抜いていたように感じたものだったが、ドッジボールが枕に代わっているなぁと微笑ましく観つつ、その作品にも登場していたような気のする、足を開き加減にして胸を張って立つ姿勢の気持ちよさが、映画作品そのものの曇りのなさとして印象に残る。

 転校していく陽子(清水優雅子)との別れを花火とともに惜しんだ仲間たちとの間の他人のアイスキャンデーを噛り盗ったり、足を踏み合ったり、ちょっかいをだしたりしている姿に、十五年も前に綴った自作の詩を思い出したりもした。


  赤信号の交差点
  三人の中学生が自転車を並べている
  精一杯、高くしたサドル
  伸び切った足の苦しそうな爪先
  どこか滑稽ではある
  が、無邪気な背伸びが懐かしい
  まだ覚えてはいるが、いつしか失った
  ふと、一人がぐらつく
  跨ったまま、倒れる車体を立て直す
  隣の少年が慌ててその自転車を踏みつける
  倒れてしまう
  ひどいことをする
  そう思った時、三人の少年の親密さに溢れる笑顔に気付いた
  彼は傷ついていない
  そうだ、自分にも覚えがある
  何時の頃からか、友達同士でそれができなくなった
  そんな行為でも絆が壊れそうなくらい互いが傷つきやすくなった
  同時に壊れないことで絆を確かめる機会を失った
  年を重ねるにつれ、逞しさを失い、傷つきやすくなる
  子供の逞しさは貴い
  しかし、早く大人になり傷つきやすくなった子供
  子供らしい放埒なエネルギーの招く、大人ならしない行為を
  悪戯と笑い合える友達にはなれなくなる
  子供を早く大人にしてしまう、大人の罪だ
  喪失感すらなくしてしまった、大人の罪だ       (1986.1.11.)



 それにしても、製作費が少なかったのだろう。音楽というか音のチープさやハイライトシーンの花火の映像の合成ぶりが何とも侘しかった。94年のこの作品以降、古厩監督はどんな映画を撮っているのだろう。観てみたいものだ。
by ヤマ

'01. 6.30. 自由民権記念館ホール



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