『カーズ』(Cars)
監督 ジョン・ラセター


 アニメーション映画は、苦手でも嫌いでもなく、ピクサー社の前作Mr.インクレディブルなど日誌も綴っているくらいだが、生き物ではない物体に目口を付けて人間ドラマを展開するアニメ・スタイルが僕の好みじゃなくて、あまり食指が動いていなかった。でも、なかなか渋いドラマらしいとの噂も聞こえてきて観に行くことにした。本当は字幕版を観たかったのだが、高知には吹替版しか回ってきてない。いささか不満だったが、吹替には吹替の良さもあるしと思い直して出向いたところ、台詞が日本語なのはハナから覚悟の上だから文句はないけれども、画面のなかの文字までもが部分的に日本語になったりしていたのがどうにもいただけなかった。ここまでいくと、サービスじゃなくて原画の破壊になるような気がする。古くからのアメリカ映画のよき味わいが嬉しい作品だっただけに、余計にアメリカン・テイストが大事なわけで、看板文字が日本語表記になったりしては全くの興醒めだ。音声ではなく、どうせ文字で見せるのだから、ここは字幕表示にすべきだと強く思った。

 動画作品としては、ライトニング・マックィーン(土田大)とサリー(戸田恵子)のデート・ドライヴの画面の立体感に恐れ入り、クライマックスのレース場面の鮮やかさに参った。車のくせに、レースは知ってても、ドライブのほうを知らない幼さが一皮剥けていく走りの体験の味わいがなかなか素敵で、それに相応しい伸びやかな楽しさと心地よさが動画のリズムのなかにうまく宿っていて感心させられた。レースにしても、頭抜けた才能と若さの勢いだけで押していた未熟さがテクニックとハートを学んで、逞しさを備えるようになるわけだが、その一回り大きくなった走りを見せる力強さが動画そのもののなかに感じられたように思う。言うなれば、“年上の女の手ほどき”と“偉大なる先輩の教え”“仲間を得ること”による若者の成長という、映画の常道とも言うべきドラマが、動画リズムとしてこのように表現されると、思い掛けなく新鮮で感動的に映ってくるところが大したものだ。そして、期せずして、偉大なる先輩たる伝説のレース王ドック・ハドソン(浦山迅)の失意と閉じ籠もりに風を通し、愉快で心優しいメーター(山口智充)のみならず、田舎町ラジエーター・スプリングスで出会った仲間たちの夢を叶えてしまうというオマケの付いたハッピーエンディングぶりが、いかにもアメリカ映画的なよき伝統としての約束事を思い出させてくれるところがいい。

 加えて、確かな才能と可能性ゆえについ思い上がってしまう無邪気で小生意気な若造には、しかるべき年長者というか“大人”との出会いと学びというものが絶対に必要であることを思わせるドラマの背後に窺えた、今や廃れ失われているものへの哀惜感が、ちょうど日本で流行の昭和レトロ映画とも通じるように感じられたところが興味深かった。きっとアメリカでも、今や失っている古き良きものが随分と多いことが、人の心の問題として関心を集めるようになっているのだろう。こういう作品やウォルター少年と夏の休日などを観るとつくづくそう思う。善くも悪くも自己肯定的で強がりに満ちているように見えるかの国に、批判的なだけではない懐疑心や自省心が文化的に育ち始めているのだとしたら、とても好ましいことだと思う。

 振り返りということで思えば、レースファンの前に伝説のキングたるドックが姿を現したのは五十年ぶりだとか言っていたから、この作品は、'50sへの哀惜でもあるわけで、それならばまさに'58年を舞台にしたALWAYS 三丁目の夕日と同じ時代に対して目を向けていたことになる。'60年代のひとつ手前の一時期というのは、昭和に限らず二十世紀戦後世界の出発点とも言うべき特別な時代だったのかもしれない。
by ヤマ

'06. 8. 5. TOHOシネマズ1



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