『クラッシュ』(Crash)
『美しき運命の傷痕』(L'enfer)
監督 ハンク・ウィリアムス
監督 スコット・デリクソン


 偶然と運命、神といったキーワードによって人間が描かれ人生が綴られながら、その後味が相反するけれども、共に秀作であることが疑いもないという作品を続けて観た。先に観た『クラッシュ』は、全体的には何ともやるせない気分に見舞われたけれども、人生も人も捨てたもんじゃないなという救われ感が残り、後から観た『美しき運命の傷痕』では、人生というもののコワさが沁みてきた。後者は僕の愛好するキェシロフスキの遺稿三部作を映画化したもので、トム・ティクヴァが監督したヘブンに続く第二部「地獄篇」らしい。謎が明らかになるほどに、さらに深い謎を残して終わるのが、人というものであり人生であることを肯定感も否定感も呼び起こさない独特の見守り感で綴っているところが、いかにもキェシロフスキ・テイストな作品だった。

 『クラッシュ』で、病院で働くペルシャ人で市民権を持つ娘ドリ(バハー・スーベク)が意固地な父親ファハド(ショーン・トーブ)に連れられ、父の営む雑貨店の防犯用に銃を買った時に、数多ある弾薬の種類のなかから当てずっぽうに選んだ箱が空砲弾のもので、なおかつ銃器屋からそのことをきちんと知らされることにはならない顛末に至ったのが、偶然なのか運命なのか、はたまた神の意思なのか、なんであれ、信仰心が厚くて娘思いのヒスパニック系の錠前屋ダニエル(マイケル・ペーニャ)に“透明マント”の奇跡をもたらした場面にとても打たれた。雑貨商ファハドの怒りが、店を襲った犯人よりもダニエルに向かうのは、とてもありがちな理不尽というもので、その愚かさには観てて苛立ちながらも彼の怒りそのものには遣り場なしには収まらない激しさがあるのも道理で、きっと哀れなダニエルが撃たれてしまう不幸に見舞われるのだろうと思っていたから、それ以上に過酷な仕打ちを彼が故なく被る展開に動揺したことが作用しているかもしれない。この奇跡に比べると、老父の介護に疲労困憊している白人警官で人種差別意識の強いライアン(マット・ディロン)と裕福な黒人TVディレクターを夫に持つクリスティーン(サンディ・ニュートン)との間に訪れたものは、訴求力に弱みが否めないが、人種のるつぼ都市ロスに生きるさまざまな人々を包んでいる複雑に錯綜した差別意識にアクチュアルに焦点を当てている以上、アメリカでの人種差別の最大問題である黒人差別にまつわる救いのエピソード抜きには終えるわけにいかなかったのだろう。ライアンの強い職業意識と職業的誇りというものが窺えるところに力があっただけに、そういう人物においてなお別腹的に巣くう差別意識の根深さのようなものが印象づけられ、意識的には自覚を得ているはずのハンセン巡査(ライアン・フィリップ)のほうが結果的には、神経衰弱気味の白人女性ジーン(サンドラ・ブロック)と同じような“怖れ”から取り返しのつかない誤射をしてしまうエピソードと相俟って、人と人生の割り切れなさが身に沁みた。
 だが、最も印象深かったのは、ジーンやファハドに特に顕著に感じられた、自身を蝕むばかりなのに罵声の連呼が癖付いてしまっている人の哀れと悲しみで、そういうのが当たり前になっている“罵声社会のリアリティ”を目にしながら、こういう側面でも、本当に日本は忠実にアメリカナイズしてきていると改めて感じた。ジーンにしてもファハドにしても、すごむ黒人の若者たちにしても、根深いところにあるのはおそらく“怒り”で、それを生み出しているのがボウリング・フォー・コロンバインでも指摘されていたように思う“ストレス社会の恐怖と不安の刷り込み”なのだろう。そういったことがじんわりと効いてくる作品だった。だからこそ、救いの部分に殊更に打たれたような気がする。

 その点、『美しき運命の傷痕』には、どこにも救いがないように感じられた。謎が明らかになるほどに深まる謎のなかでも最大のものはやはり、セバスチャン(ギョーム・カネ)の語る二十二年前に自殺した父(ミキ・マノイロヴ)との顛末を最後に次女セリーヌ(カリン・ヴィアール)から伝えられた後も、母親(キャロル・ブーケ)が「何も後悔するものはない。」と語ったことの意味だった。
 幼いセリーヌの手を引いて階段を駆け上って職場の夫を訪ね、彼の教え子の裸の少年と部屋にいることを目撃したのは偶然だったのか、あるいは突き止めだったのか。娘にとっては運命的な偶然だったことが、彼女にとってはもしかすると、そうではなかったのかもしれない。されば、セバスチャンは、何ゆえ長じたセリーヌに手の込んだ接近をしてまで、自殺した彼女の父に咎はなく、教え子たる自分を庇ってくれたのだと語ったのだろう。長らく語れずにいた真実を遺児の一人にどうにかして伝え告解を得たかったのか、あるいは、同性愛者として真摯に愛し合った師を死に追いやった彼の妻に、セリーヌを通じて「真実は彼女の思い込みとは異なると告げさせて衝撃を与える」ことによって、師の復讐と供養を果たすことで、試行錯誤の結果やはり同性愛者として生きるしかないことを知った自分の楔としたかったのか。いずれであったにしても、人生の危うさと怖さにたじろぐほかないのだが、最もコワいのは、セバスチャンの思い通り、彼女が事実とは異なる思い込みによって夫を死に追い遣ってしまったと気づいてなお「何も後悔するものはない。」と語っている場合の怖さだ。
 先頃観たばかりの空中庭園でも考えさせられたことだが、人生にとって意味を有しているのは、実際の事実ではなく、記憶や思い込みのなかにある個々人にとっての真実のほうだったりするのが、人間だという気がする。かといって、事実の如何にいささかも動じない強さを得ている人間というのは滅多にいなくて、狂気にでも至らなければ、事実との乖離を突きつけられることに苦痛を覚えるのが普通だと思う。僕が怖いと思ったのは、彼女の場合、酷薄のあまりそうなっているのでも狂気に至ってというのでもなく、平然と語っているように見えたからだった。教え子の少年に性的誘惑をした教師として自ら夫を告発し、出所後の彼から受けた暴行で、言葉と身体の自由を損なうに至っていると思しき彼女にとっては、もはや確かに事実の如何など、どうでもいいことなのかもしれない。人生は、観る角度を少し違えれば、色鮮やかに形も様相も変わって映る万華鏡のようでもある。
 一方、三人の娘たちに目を向けると、長女ソフィ(エマニュエル・ベアール)も三女アンヌ(マリー・ジラン)も、どこか母親に自分自身を観るところがあって恐れ、避けていたような気がしなくもないほどに、次女セリーヌとは違って、直感力に長けるとともに普通なら踏み込まない場所に突き止めないしは確かめに向かわずにいられない激しさを持っていた。ちょうど、母親がセリーヌの手を引いて学校に乗り込んでいったように、ソフィは夫ピエール(ジャック・ガンブラン)の愛人との逢瀬の場に忍び込み、夫が事を終えて帰った後の愛人の寝姿を目撃するのみか、彼女に近づき匂いまでも嗅ぐわけだし、アンヌにしても、不倫相手の大学教授フレデリック(ジャック・ペラン)の腰が引けてくると自宅を訪ね、学友でもある彼の娘に年嵩の既婚者との不倫に悩んでいると相談を持ちかけたりする。この強烈さには、それ以前にフレデリックの家の前で待ち伏せをしていたのとは比較にならない凄みがある。セリーヌは、そういう姉と妹が恐らくは無意識のうちに避けている母親の面倒を一手に引き受けつつ、一見したところ、未だ発現していない激しさのエネルギーが凝縮されながら鬱積しつつある風情を漂わせていたのだが、考えてみれば、母の行った夫の告発に対し父の死後22年も経て、それがとんでもない過ちだったのではないかという告発に近いものを、発語と身体の障害を負った年老いた母親に突きつけるのだから、これも相当な激しさではある。
 ただ母娘たち女性に向けられた作り手の眼差しにおいては、それぞれの激しさに対して咎めの視線が全くなく、個々人の責には帰しがたい運命的な受苦を汲み取っている印象が強く、そこのところが冒頭に記した“独特の見守り感”を醸し出していたように思う。

 そして、彼女たちの怖ろしいまでの激しさの発現であれ、その夫ないし父や大学教授に訪れた死に至る顛末であれ、偶然か運命か定かではないけれども、人の生には、自身ではどうにもならない思い掛けない陥穽が潜んでいることを感じさせるところが、静かに沁みてくるこの作品のコワさなのだろう。



*『美しき運命の傷痕』
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0604_4.html#kizu
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2006ucinemaindex.html#anchor001427

*『クラッシュ』
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060303
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2006kucinemaindex.html#anchor001413
by ヤマ

'06. 4.28. TOHOシネマズ1
'06. 5. 2. テアトル梅田



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