『空中庭園』
監督 豊田利晃


 空中庭園に爛漫と咲き乱れていた花々と対照的な、一輪挿しに生けられた白い花がダイニング・キッチンの丸テーブルの中央にぽつんと置かれているラストショットをどう受け止めるかが、観る人によって大きく異なりそうな刺激的な作品だった。

 過剰なまでの虚飾に彩られた空中庭園から、簡素で清らかな白い花が普通に食卓を飾るようになったと観るか、それとも一輪ぽっちの孤独に加えて葬送花の白色を想起するか、どちらもあり得るように思えるのは、息子のコウ(広田雅裕)が母親絵里子(小泉今日子)に非難めいて使った“思い込み”というキーワードをどう解すべきか限定しない作り手の絶妙の立ち位置が、画面に見事に宿っていたからだと思う。このキーワードと呼応する形で重要な意味を持っていたのが、波形の磨りガラス状の幻視感を与える画像処理で挟むことで“絵里子の妄想”であることを明示する形で、彼女に白昼の喫茶店での殺人を敢行させた場面だったような気がする。パートに出ている先の同僚で、かつて自分を“なよ子”という蔑称で呼び、いじめていた同窓生の娘が、母親から受け継いだ昔話と気質そのままに自分を馬鹿にした態度で向かってくることに笑顔を向けながら応対するなかでの妄想だったのだが、この場面での小泉今日子の表情の変化にはゾクリとさせるものがあり、圧倒的だった。

 以後の場面では、いちいち幻視感を与える画像処理で挟んだりはしなかったから、「空中庭園で血のような赤い雨に打たれながら、絵里子が泣き叫んでいた終盤の場面」のように、絵里子の“想いなりイメージの表出”であって現実ではないことが明らかに判る場面は、ほとんどなかったわけで、どの場面を絵里子の想像と現実だと受け止め分けるかが、観る者によってかなり異なってくるような気がする。そして、それが当然とも言えるほどに、絵里子の家庭は現実部分で、彼女の作り上げた空中庭園と同様に、とても綺麗だけれども極めて人工的な“家族間で隠し事をしない”家族の風変わりな会話が印象づけられ、通常なら口にしないことでもこの家族ならといった形での了解を促し、現実と想像の区分がしにくい作りになっていたように思う。加えて、序盤の殺人敢行妄想の場面以降、絵里子が忍耐と丹精を込め懸命に造形してきたはずの家族に、自分が満足の実感を得られないでいることへの苛立ちと空しさが、もしかしたら彼女を狂気に向かわせつつあるのかもしれない様子を小泉今日子が充実した演技によって窺わせていたから、なおのことだ。

 そして、これだけの危うさを負ってまで彼女に空中庭園的な家庭造形に向かわせていたエネルギーの源泉が、母さと子(大楠道代)との母娘関係への不満と怒りにあるらしいことが窺われるにつけ、その業の深さには恐れ入るとともに、そこに汲み取られているリアリティのほどに、思わずたじろぐような気分に見舞われた。それと同時に、そのリアリティの確かさが保証するような形で“氷解と再生の奇跡”が鮮やかに綴られていたのが印象深い。「人は誰でも皆、血まみれで泣き叫びながら生まれてくる」という台詞を受けた赤い雨に打たれる絵里子の場面は、間違いなく誕生すなわち母娘関係の再生のイメージなのだが、彼女にそれをもたらしたのが、死期遠からず入院している母からの実に変哲もない誕生日コールであることに、途方もなくリアリティを宿らせ得ている映画としての力には、大いに感銘を受けた。

 人の心のなかの風景を変える引き金などというものは、本当に予想が付かないものだ。それは、心の変化を促す準備のほとんどの部分が当人の心中で密かに蓄積されていることに対して、いつどういう形で何が発現を促すかという、まるで花粉症の発症のようなものだからなのだろう。絵里子が“母から愛されたことがないという記憶”の端緒とも言うべき出来事の証拠写真として残っている「遊園地のベンチに腰掛けてアイスクリームを食べたときの記憶」が、母からの電話の言葉で、忽然と変化してくるのは、そういうことではなかろうか。市民ケーンでは“rose bud”の刻まれたソリの示した五歳の時がその後を分けたまま、死の床に就いたが、絵里子は“rose bud”に帰ることができたわけだ。

 実際の事実の如何ではなく、思い出しによる記憶の修正のほうに遙かに意味があって、事実としては、むしろ、母さと子が言うように、「暑くて本当は自分も食べたくて仕方がなかったのに、貧しかったから1個しか買えなくて、絵里子に与えて分けてもらおうとしたのに、独り占めしようとするから、ひっぱたいてやった。」のかもしれず、彼女の記憶というのは、あっけらかんとそんなふうに語る母の話によって造形された記憶だったのかもしれない。そして、そう語る母の話もまた彼女の“思い込み”による記憶でしかない。しかし、各人において意味を持っているのは、記憶に宿っている真実であって事実のほうではない。だから、絵里子が思い出しの実感とともに母娘関係の再生を手に入れることにリアリティが感じられて、決して御都合主義のようには見えてこないところが立派な作品だった。

 しかも、それに加えて、彼女の誕生日を巡る家族の心遣いさえも備わったハッピーエンディングを用意して、なおかつそこに御都合主義を感じさせないような夫貴史(板尾創路)と娘マナ(鈴木 杏)の会話を設えていたから、素直にそのように受け取れもするものの、どこか全てのそれらのことが、実は狂気に向かいつつもあった絵里子の希求した“究極の思い込み”として、絵里子が現実からの離脱を果たした場合もあり得ることへの気付きを促す毒を忍ばせたラストショットだったようにも思える。これがなければ、おそらく僕は素直にハッピーエンディングのみを受け取ったはずなのだが、妙に気になるラストショットだった。




参照テクスト:『空中庭園』をめぐる往復書簡編集採録

推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0604_3.html
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2005kucinemaindex.html#anchor001352
by ヤマ

'06. 4.19. 県立美術館ホール



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