『ヘヴン』(Heaven)
監督 トム・ティクヴァ


 現代を舞台にした犯罪もののラヴ・ストーリーで、ファンタジックな色づけなしに清潔感の宿るドラマを描くことに成功しているのは、並み並みならぬことだ。全編途切れることなく心地好い緊張感を保ったトム・ティクヴァの演出も見事なものだが、キェシロフスキらしからぬ娯楽性に富んだ展開といかにもキェシロフスキらしい格調高い人物造形とを兼ね併せた遺稿があったことに驚くとともに、改めてその死が惜しまれてならない。

 異性関係、親子関係、友人関係、兄弟関係といった人間関係における距離感の在り様が実に美しく深みがあって、対話の言葉が心に泌みる。自分が劇映画に求めているものは、こういうものなんだなということを改めて気づかせてくれるような満足感が、エンドクレジットを眺めているうちに静かに徐々に膨らんできた。

 ラストシーンを観ながら、オープニングでコンピューター画面でのヘリコプターのシュミレーション操縦をしつつ交わしていた会話は、こういうことだったのかと納得したが、そのうち、この遺稿は、実はこの天上に舞い昇るラストシーンから生まれた物語ではないかという気がしてきた。人が天上に昇っていくイメージというものを観念的に示した作品やファンタジックに描いた映画は、八日目などを想起するまでもなく数多くあるが、そのイメージをリアルの場面として現出した映画は、僕の記憶のなかでは初めてだという気がする。

 このラストシーンがアイデアとしてまず生まれて、それがリアルのシチュエイションから見ても、二度と地上に降り来ることのないものとして、また同時に人が天上に昇っていくイメージに備わっているものを損なうことのないものとして、リアリティを持ち得る物語を紡ぐとしたらといったところから生まれた物語ではないかということだ。それがためにフィリッパ(ケイト・ブランシェット)とフィリッポ(ジョヴァンニ・リビージ)には、地上に戻るわけにはいかない事情がなければならないとともに、魂の崇高さが宿っていなければならない。そして、この物語は、まさしくその困難きわまりないとも思える条件をクリアして造形されている。

 だから、僕は、二人はヘリで英国に逃亡したりはしないと思う。オープニングで示された会話を実践するかのように、どこまでも昇り続けるはずだ。意図とは異なる展開で生じたことだったとはいえ、二人の幼子を含む罪なき人々を死なせたことに対するフィリッパの罪悪感は、フィリッポとの愛で贖罪できるものではないはずだし、また己が存在に甲斐を得られないまま無機的に生きていたフィリッポが、覚悟とともにフィリッパに差し向けた愛も、贖罪を孤独なるままに負わせやしないという堅い意志に支えられたものだったように感じる。

 そして、最終的にそのことを二人が選択し、確認し合ったのは、あの丘陵の大きな木の根元で初めて結ばれ、一夜を過ごした後のことだったのではないかと思う。フィリッポの父親(レモ・ジローネ)に、息子は貴女を愛しているようだが、貴女はどうなのか、と訊ねられて即答できなかったフィリッパの胸のうちには、自分よりも若い純真な青年をこれ以上巻き添えにしてはいけないし、したくはないという思いがあったはずで、逃避行中は、純な熱情を捧げてくる青年に救われ勇気づけられながらも、いつ別離を告げるべきか思い悩んでいたような気がする。その一方で、次第に離れがたい気持ちが強くもなってくるなかで、年上の女として自分が答えを出さなければいけないとの思いが葛藤として生じていたように見受けられた。実際、世の中の良識や生きることそのものさえも信じられなくなったと語るフィリッパの深い絶望と孤独に一筋の光を差し込んでくれていたのは、フィリッポに他ならない。だからこそまた、余計に彼の未来を奪いたくはなかったはずだ。

 そんなフィリッパの心境にひとつ楔を入れたのが、青年の名前がフィリッポという自分の分身のごとき名前であるうえに、幾許かの時を隔てた同じ月の同じ日の生まれだと知ったことだったような気がする。そのとき確かに運命的なものを感じ取ったはずなのだ。だからこそ、年長者の分別をも越えて最終的な選択を二人のものとすることに同意したのであって、一夜のことが全てではなかったと思われるよう描いている。この運命的なものの捉え方が、実にキェシロフスキらしいところだ。そしてまた、フィリッポのほうは、審問官がフィリッパに名前と生年月日を尋ねたときに通訳をしていたのだから、出会いのときから知っていたわけだ。彼がフィリッパにのめりこんでいったことには、そういう運命的なものを自覚させる偶然が働いているのであって、彼女の起こした爆破事件の動機への心情的理解や知的で美しい年上の女性への恋情だけではなかったということだ。

 そういう二人の関係において、次第に緊密度が増してくるなかでの内面的なニュアンスの微妙さをケイト・ブランシェットは、実に見事に演じていた。剃髪をも厭わぬ果敢な役作りには恐れ入ったが、変装的な意味合い以上に、坊主頭によって二人の示していたストイックなイメージは、この作品において大きな意味を持っており、感心するほかない。そのうえで以て丘の一夜は訪れなければならないものであり、となればこそ、衣服を脱ぐ姿が仄暗い夕焼けの光のなかのシルエットで描き出されるに留まるわけだ。

 世間的には、テロリストの女とその色香に迷った幼い若者憲兵隊員の痴情の逃避行とされるであろう道行きをかくも清冽な物語に仕上げるとは、流石と言うほかない。折々に印象深く挿入された、トリノの街を垂直に見下ろす映像が、観ているうちは意識させるともなく、実は天上界を示していたのかもしれないと、作品を反芻しているうちに思い及んだ。だから、『ヘヴン』というタイトルなのだろう。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0304-6heaven.html

推薦テクスト:「シネマの孤独」より
https://cinemanokodoku.com/director/kieslowski/heaven/

推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2003hecinemaindex.html#anchor000920
by ヤマ

'03. 9.23. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>