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『欲望』 | |||||
監督 篠原哲雄 | |||||
先ごろ三島由紀夫の未発表原稿が見つかったとかいう新聞記事を目にしたように思うのだが、このところちょっと僕は三島づいている。昨年末に映画で『春の雪』を観た後、4月に地元劇団による公演で『サド侯爵夫人』を観、5月には『葵上』を観ることになっている。今回観た『欲望』は、小池真理子原作であって三島原作ではないのだが、むしろ12月に観た『春の雪』よりも遥かに三島的興趣が宿っていて、ろくに三島文学を読んでない僕にも判るほどの原作者も含めた作り手の三島趣味の濃厚さが強く印象に残った。 中学時分から三島を愛読し、類子が自分に好意を寄せていることを知ればこそ、自分も憎からず思っている相手のそれを試すかのように、阿佐緒の話をしては挑発せずにいられない正巳の屈折にしても、「何より自由を求める阿佐緒(高岡早紀)を耽美と倒錯の檻に閉じ込めようとした」と正巳(村上 淳)が語る袴田亮介(津川雅彦)の美学にしても、いかにも三島的な観念性と尊大さが宿っていて鼻持ちならないけれど、その自意識過剰の気取った尖がり具合にどうにも否定できない香気が漂っていて妙に女性に受けたりするところが気に掛かる“三島テイスト”というものが、確かに感じられたように思う。 だから、この作品は、男性よりも女性の支持を強く受けそうな気がするのだが、三島的香気を漂わせながらも、三島的でない生々しさをリアリティとして感じさせてくれる印象深い場面があって、そこに小池真理子の面目を感じるとともに大いに惹かれた。それは、久しぶりに正巳に再会してかつて寄せた想いを新たにした類子(板谷由夏)が、高校生の時の交通事故で勃起しない身体になっている彼に、欲情と愛しさの昂ぶりに衝かれて「私で試してみて」と誘ったセックスで、自分の身体が男性器の挿入を求めてやまない状態の極みになりながらも応えてもらえない切なさの激しさに泣き出す場面だ。焦れて苦しくて泣き出してしまう自分に狼狽して混乱しつつ、正巳への申し訳なさを加えて泣き詫びていたのだが、板谷由夏の迫真の演技が切迫感に満ちた生々しさを醸し出していて、とても感銘を受けた。 おそらく能瀬(大森南朋)とのセックスでは、多少の焦らしを技巧的に施されることはあっても、さすがに泣き出してしまうまで焦らされたことはなかっただろうから、昂ぶりの極みにおいて交接できない苦しさをこのとき類子は初めて身を以って知ったわけで、まさしく正巳のつらさを体感していたことになる。この一夜の後にそのことに気づいたであろう類子は、それゆえに、セックスによって歓びとともに心身が結ばれること以上に、彼に近づき一体化したような錯覚を抱いたのではないかという気がする。だからこそ、きっぱりと能瀬との関係を清算する気になったのではないだろうか。性の場面のもたらすインパクトは、行為の成否によらず大きな影響を及ぼすものだ。ところが、正巳のほうに及ぼした影響は、類子と違ってポジティヴ面だけには働かなかったようだ。「できなくなってからの僕の性器は手だ。手で感じるようになったんだ。」などと言っていた正巳だったが、類子との一夜によって、これまでどうにかこうにか逸らしあやしてきたことの無理を暴かれ、直面させられたわけで、深い絶望の淵に立たされたのだろう。沖縄に二人で旅したときに、今度は正巳のほうから積極的に挑んでいったのは、彼なりの面目でもあったような気がする。 前回と違って、二人とも屹立という奇跡の起こる可能性など微塵も抱かずに臨めるから、挿入が果たせないことでの落胆は最初から除外されている。セックスは本質的には脳でするもののようだから、その落胆さえなければ、挿入なしでエクスタシーに至ることも充分可能なわけで、前回は中断してしまったそちらのほうの可能性を改めて試み、今度は果たし得て深いエクスタシーを共有したのだろう。類子が美しい涙を流していた。深い絶望の淵にて佇む正巳を、もう思い残すことはないという心境に導くのに充分なものだったような気がする。沖に泳ぎ出た正巳が、晴れやかな笑顔で手を振ってから海中に潜って行ったのは、そういうことだったのだろう。 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060112 | |||||
by ヤマ '06. 4.29. 自由民権記念館民権ホール | |||||
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