『エレニの旅』(TRILOGIA I: TO LIVADI POU DAKRYZEI)
監督 テオ・アンゲロプロス


 映画における“脱ドラマ”の近年におけるピークは、'90年代以降のドキュメンタリー映画や個人映画の活況とそれらが劇映画に及ぼす作用が顕著に窺われた時期だったように僕はかねて思っていて、その直接的な契機は、アッバス・キアロスタミらのイラン映画が脚光を浴び始めた頃にあるような気がしているのだが、今世紀に入ってからは再び物語性への回帰ないしは復権が顕著に認められるようになってきたとの印象を抱いている。

 脱ドラマというとき、“物語性”という観点とドラマティックという言葉で馴染みの深い“劇的”という観点の二つが、僕のなかの大きな関心事なのだけれども、脱ドラマの劇映画という点では、筋を語るよりもイメージの喚起力を重視し、劇的に盛り上げるよりも画面の静謐を重んじたことで、前記二点における古くからの大御所作家とも言うべき存在となっているのがテオ・アンゲロプロスだと僕は思っている。だから、彼の今世紀最初の作品『エレニの旅』が、かつてないほどに物語性を重視した構造を備えていたことに少々興奮を禁じ得ない思いだった。やはり時代は再び物語性へと向かっているとの感を新たにしたわけだ。

 それにしても、ひとたび画面を観れば彼の作品だと既知の者なら誰しも思うはずの強固な作家性を保ちつつ、旧作において物語性の目立った霧の中の風景』('88)こうのとり、たちずさんで』('91)には少々乏しく感じられた覚えのあるスケール感が、本作では見事に宿っていることに感銘を受けた。それには“何頭もの羊を吊り下げた巨木”のような圧倒的なイメージや定番とも言える大胆な時間構成による編集も有効に作用していると思うが、やはり、水没する村をCGを使わずに実際に作ってしまったという驚くような製作スケールを遺憾なく活かした画面作りが最も効を奏していたような気がする。大きな船、筏、列車、楽士の一団といったアンゲロプロス映画には付き物のように感じられるものが、いずれも非常に有効に画面に姿を見せていて、型通りといった印象を与えないのは流石だ。

 観終えたときにはエレニ(アレクサンドラ・アイディニ)の最後の出獄は大戦の終わった1945年だと思っていたが、チラシに拠れば1949年となっていた。双子の息子たちの歳からすれば、やはり1949年のほうが妥当な気がする。それで考えれば、三歳のとき川辺でスピロス(ヴァシリス・コロヴォス)に拾われ養女になったとのエレニが「私はいつだって難民だった」と語る1949年までの三十余年間の人生には、オスマントルコからの独立によって生を得ながらも、養父たる欧州列強の力を頼らずには生き延びられない状況にあり、その手を離れてからは、希望を胸に秘めつつも彷徨うばかりで、腰を据えた落ち着きも安らぎも得ることなきまま、時代に翻弄された近代ギリシャという国が投影されているのは間違いあるまい。そして、エレニの双子の息子ヤニスとヨルゴスが政府軍と反政府軍に分かれて戦う姿が内戦そのものを示していて、二人の死は、この内戦がギリシャに残した傷の深さを語っているのだろう。

 だが、観ている間中、最も気掛かりなまま結局のところ解明どころか却って謎めかされて終わった僕の最大関心事は、そういうことよりも、エレニの双子の息子の父親は果たして誰だったのかという疑問だった。観終えてから読んだチラシでは、明確に“(スピロス)一家の息子アレクシスの子供”とされているのだが、本編では確かアレクシスは、その名前が一度も呼ばれることがないままで、僕はスピロスの息子としか認識できない状態で観ていたし、チラシに書かれているようには双子の父であることが明示されていなかったはずだ。そういうなかで、映画のラストでヨルゴスの亡骸に取り縋って泣くエレニの台詞にて“あなた・彼・おまえ”と訳出が区別されつつ同一のものとして呼びかけられていた人称代名詞は、いったい誰を指していたのだろう。“おまえ”は息子ヨルゴスに他ならないと思うのだが、“あなた”と“彼”は意味深長だ。これについてはエレニを後妻に娶ろうとしたスピロスの元から手に手を取って駆け落ちしたアレクシス(ニコス・プルサディニス)が“あなた”で、“彼”というのは十代半ばで産んだ息子ヨルゴスの実父としてのスピロスだったのではないかと僕は疑っているのだが、普通に考えれば、“彼”はヨルゴスの双子の兄ヤニスなのだろう。そう解するほうが内戦で何もかも失ったギリシャとも重なって、収まりもいい。だが僕は、逃げたエレニを追い回すスピロスの執着ぶりに尋常ならざるものを感じていたし、アンゲロプロス好みの神話的世界のなかで父子で女を取り合うからには、“彼”はスピロスだと考えるほうが妥当な気もしているものだから、今のところ、最後のエレニの台詞をそう解することにした。

 この台詞が名前で呼びかけられていれば、迷う余地もないのだが、敢えてそうしてないところに観る側の受け止め甲斐が湧いてくる仕掛けになっている。だから僕は、エレニにギリシャ近代史を重ねる象徴性以上に、神話的悲劇の構造を重ねる物語性を敢えて重視し、孤児に始まり、再び天涯孤独の身になったエレニが、己に罹る人生の不条理の源泉を嘆く言葉として受け止めたわけだが、聞くところによれば、三部作として、この後も物語が続くらしい。そのなかで解明されることがあるのだろうか。大いに気になるところなのだが、アンゲロプロス作品だから、そういうことはあまり期待できそうにない。ましてや、第一部が1945年で終えたのであれば、アレクシスがまだ生きている可能性が残り、その再登場が望めるのだけれども、1949年までの物語だと“手紙を胸に残して死んだアメリカ兵士”というのがアレクシスに他ならなくなって、回想に期待するしかなくなる。ますます望み薄だという気がする。しかし、他方では、この作品において、実に効果的で非常に重要な役割を果たしていたのが、アコーディオンの名手であるアレクシスの作曲したという音楽だったので、第二部以降にも彼を登場させないわけにもいかないはずだとの思いを断ち切れないでいる。


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0506_3.html#ereni
推薦テクスト:「K UMON OS 」より
http://blog.goo.ne.jp/vzv02120yamane/e/671363bd8319437842e2729cf1f80ccf
推薦テクスト:「Puff's Cinema Cafe」より
http://www.ff.e-mansion.com/~puff/2005b.htm#Trilogia: To Livadhi Pou Dhakrisi
by ヤマ

'05. 9.16. 高知シネプラザ2



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>