『ミリオンダラー・ベイビー』をめぐって
咆哮」:シューテツさん
TAOさん
TAKUMIさん
飽きっぽい女のブログトライアスロン実験」:タンミノワさん
映画通信」:ケイケイさん
ヤマ(管理人)


  No.5666から(2005/06/12 23:40)

(シューテツさん)
 ヤマさん、こちらでもこんばんは。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、シューテツさん。

(シューテツさん)
 今回の『ミリオンダラー・ベイビー』『クローサー』共に唸りながら拝読させていただきました。f^_^;;

ヤマ(管理人)
 早速にありがとうございます。前者では『海を飛ぶ夢』と違って、なんで同意できないのだろうという引っ掛かりが反芻を促してくれましたし、後者では何とも不愉快で呆れつつ、あまりのことにナンデこんな映画を撮ったんやろって振り返っていたら、いろいろ触発されてきました(笑)。

(TAOさん)
 ヤマさん、こんにちは。お呼びいただき、参上しました(笑)。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます、なにせイーストウッドですから(笑)。ミスティック・リバー』談義でもご披露いただいた“イーストウッドの病める魂”論からの御見解を伺ってみたかったんです。

(TAOさん)
 『ミリオンダラー・ベイビー』、見てますとも。イーストウッドはこんどは脇に回るのかと思いきや、やっぱり主役で、『ペイルライダー』みたいだなあ、と思いました。『ペイルライダー』も小さな女の子を救い、去っていくアウトローでしたからねえ。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか。僕は『ペイルライダー』も観逃しているはずです、確か(とほ)。

(TAOさん)
 アウトローなんだから、社会の掟を破るのは当然です。

ヤマ(管理人)
 フランキーは「愛情に満ちた“勇敢な踏み出し”」に手を染める前からアウトローだったんですか?(笑)
 ま、TAOさんにとっては、イーストウッドが演じる以上、アウトローキャラだっていうことなんでしょうね(笑)。

(TAOさん)
 だから、私はそういう意味ではちっとも感動しませんでした(笑)。

ヤマ(管理人)
 なるほど、筋が通ってる(笑)。

(TAOさん)
 別の意味ではいろいろ感心しましたが。

ヤマ(管理人)
 それって、「病める魂」の昇華の見事さってことですか(笑)。

(TAOさん)
 例によってイーストウッド変態説の観点から見ると、ヤマさんもご指摘のとおり、フランキーが、実の娘との関係が破綻しているがゆえに、マギーの願いを聞かざるを得ない状況に追い込まれている点、それから、マギーの脚の切断と呼吸困難、身動きできない状況、いかにもイーストウッド作品です(笑)。

ヤマ(管理人)
 “桎梏”のオンパレードってわけですか(笑)。まぁ、人の生に付きものの部分ではありますからね、“ままならなさ”って。でも、これほどに強迫されているのは、もはや嗜好の領域にあるというわけですね。


-------『海を飛ぶ夢』に通じるもの-------

(TAOさん)
 脱線しますが、じつをいうと『海を飛ぶ夢』も、尊厳死を描いた作品というよりは、イーストウッド的な趣味を満足させた作品と見ました。

ヤマ(管理人)
 脱線なもんですか、ここ間借り人の部屋においては(笑)。僕の今回の日誌は、専ら両者を対比する形で綴ってますもの。
 で、TAOさんによれば、僕とは異なった観点ながらも、両作品は作り手の趣味嗜好性の率直な表出という点で、比肩に足るだけの共通性があるということなんですね(笑)。「尊厳死」ではなく、「桎梏趣味」ってとこで。

(TAOさん)
 いえ、この監督は、イーストウッドとは少しちがって、がんじがらめの状況よりもそこからの解放、とくに“垂直落下への偏愛”が特徴だと思いましたが。

ヤマ(管理人)
 当地では『オープン・ユア・アイズ』が未公開なので、未見ですが、バニラ・スカイには間違いなく強烈な垂直落下がありましたし、不本意っつうか、ままならなさに満ちてましたね、確かに(笑)。また、不自由の極みとも言える海を飛ぶ夢でも、夢想での飛翔におけるカメラの動きには、重力への抗いを意識させるようなうねり感があって、そこが魅力でした。それに、そもそもラモンの四肢麻痺の発端もダイブでしたし(笑)。
 でも、アザーズに“垂直落下”ってありましたっけ?
 それよりも僕は、彼の作品に共通して特徴的なのは、「もうひとつの生の現実としての夢(想)へのこだわり」って気がしてます、平凡ですが(笑)。

(TAOさん)
 それと、地獄の沙汰も女しだいというか、ベッドにがんじがらめでもモテさえすればなんとかなるというのが、面白いなと。

ヤマ(管理人)
 救いの最たるものって、やっぱそれなのかも(笑)。モテるっていうのは「求められる」ってことですから、人のアイデンティティにとって最も重要なものですよね。

(TAOさん)
 今ふと思いましたが、イーストウッドにしてもアメナーバルにしても、不自由さやそこからの解放への固執は、女性に対する恐怖と執着の変形かもしれません。

ヤマ(管理人)
 お、これは面白い見解ですね。僕は、『ミスティック・リバー』談義でも「常々僕は、女性にはまるで敵わないって思っていますが、コワイって実感はないんですよね」と発言している未熟者というか世間知らずなんですが(笑)、この御見解には頷けるとこありますねー。


-------イーストウッド作品としての特徴とは-------

(TAOさん)
 イーストウッドにかぎっていえば、近親相姦願望も相変わらずでした。今回は、マギーとフランキーは他人だし、プラトニックだし、周到にカムフラージュされてますけど、「私の可愛い子、私の血」でカミングアウトしてるのはまずい(笑)。

ヤマ(管理人)
 これまでのフィルモグラフィーのなかから嗅ぎつけているマニアックな観点からは“カミングアウト”に他ならないんでしょうが(笑)、この台詞にそういう受け止め方ができる人は、そう多くはないでしょうね。イーストウッド作品を偏愛されている方でないと難しいように思います(笑)。

(TAOさん)
 とはいえ、今回は、イーストウッドの“趣味”とはべつに、モーガン・フリーマン演じる元ボクサーと、最後に帰ってくるあのへたっぴぃなボクサーが、健全な部分をしっかり支えていてほっとしました。

ヤマ(管理人)
 あ、これは実は、僕はそうでもなかったんですよね。ちょうどTAOさんが『ミスティック・リバー』談義で「ケビン・ベーコンと妻が元の鞘に戻るエピソードが付け足しのように見えてしまうことも、残念なところ」とおっしゃって、僕が同意しつつも、「アナベスのことほどには引っ掛かりませんでした」と答えているのと同じような程度の“付け足し感”が僕にはありました。
 悲惨だけでは終わらせたくない想いというか、観客への興行的配慮のもたらすクセのようなものか? とさえ(苦笑)。まあ、『ミスティック・リバー』では、ローズさんから「この作品では、誰もが“本当は言いたいけど、決して言えない”事を持っていて、そんななかで皆が、ホントは“言わなくてもいい”ことを喋べり、“言えたほうがいい”ことを言わないことで悲劇を招いているっていう」視点を紹介していただき、言葉にしない電話を重ね続ける夫婦に訪れた“救済”という重要な意味を見いだし、付け足し感は雲散霧消したのですが、今回の作品では、まだそのような見事な仕掛けを読みとれずにいますね、僕は。

(TAOさん)
 ファイトシーンもタイトで巧いですね。

ヤマ(管理人)
 やたらと盛り上げたりはしないし、ね。

(TAOさん)
 この映画的な巧さと“趣味”のアンバランスが、私にはいちばん興味深いし、素直に感動はできないけど、つい見続けてしまう理由ですねえ。

ヤマ(管理人)
 僕も素直には感動できずに尾を引いたクチですが、単に余韻として味わうことに留まらない観後感を残す映画としての力のほどは、流石だと思いますねぇ。

(TAKUMIさん)
 横から失礼します。はじめまして、TAOさま。TAKUMIです。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、TAKUMIさん。

(TAKUMIさん)
 この「つい見続けてしまう理由」、そうそう、そうなんですよ。イーストウッド作品は、必ずチェックして巧い作品だという事は凄く分かるのですが、いつも心のどこかでひっかかってしまう。
 彼の「趣味」が私の「趣味」とは違うんですね。

ヤマ(管理人)
 TAKUMIさんもそうなんですか(笑)。

(TAKUMIさん)
 今回の作品も周りが絶賛するなか、「巧いけれどもバランスが悪い作品」と片付けておりましたが、TAOさんのこちらの発言を読み、自分が引っかかっている部分が分かった気がしました。

ヤマ(管理人)
 掲示板の管理人としては、とても嬉しい展開だなぁ。

(TAKUMIさん)
 『ミリオンダラー・ベイビー』も途中までは「今回は最後まで行けるかも〜〜!」と思いましたが、後半イーストウッド色が濃くなって、彼のヒロイズムに自分がついていけなくなったところで心が離れてしまいました(笑)。

(TAOさん)
 そうそう、右に同じです(笑)。TAKUMIさん、はじめまして!
 彼ってば、超ナルシストですよねえ。

ヤマ(管理人)
 すっかり意見が合っておいでのようで、よかったですねー。
 TAKUMIさんには、ヒロイズムとまで映っちゃいましたか(笑)。そりゃ、しらけてきちゃいますよね(愁傷)。

(TAOさん)
 『マディソン群の橋』だけは“趣味”の部分がまるでないし、ただの資金稼ぎのために撮ったのかとも思いましたが、あれは本気ですね。この役はオレしかいないと思ってる。なにしろメインテーマまで自分で作曲してますから(笑)。

ヤマ(管理人)
 最近、けっこうあるんじゃないですか、自分の作曲?

(TAOさん)
 私も『荒野の用心棒』とか『ダーティハリー1・2』あたりまでは、本気できゃーかっこいい!と思っていたのですが、『タイトロープ』あたりから本格的に「?」と思い始めました。以来、別の意味で病みつきです(笑)。

ヤマ(管理人)
 これ、『ミスティック・リバー』談義のときも出た作品名ですよね。ホント、観逃しているのが残念です(とほ)。TAOさんが別の意味で病みつきというのはもう、既にしっかり掴んでますよ、僕も(笑)。だからこそ、観たの〜?って振ったんですし(笑)。

(TAKUMIさん)
 「巧い作品」と「感動できる作品」というのはまた別物というのも、映画の面白さですよね。

ヤマ(管理人)
 ホントにそうですね。僕も何人か、思い当たるなぁ(笑)。

(シューテツさん)
 ちょっと仕事が暇になったので私も横入りさせて下さい(笑)。

ヤマ(管理人)
 どうぞ、どうぞ、いらっしゃいませ(大歓迎)。

(シューテツさん)
 TAOさんのクリント・イーストウッド(変態)論は相変らず興味深いですね。

ヤマ(管理人)
 ほんと、ほんと。カイコー&イーモウのFさん、イーストウッドのTAOさん、というのは、新作が出るたびに、どう御覧になったかが、僕にはとっても興味のある組合せなんです(笑)。

(シューテツさん)
 しかし、イーストウッド作品に変態性を感じるのは、極限られた女性だけかも…。

ヤマ(管理人)
 このへんは、どうなんでしょうねぇ。間借り人の部屋にお訪ね下さる方は、何故か圧倒的に女性のほうが多いんですが、どうなんでしょう、極限られているんでしょうか(呼びかけ)。

(シューテツさん)
 『クローサー』の露悪的な変態性ではなくて、あくまでも格調高く秘めやかな変態性ですもんね(笑)。

ヤマ(管理人)
 「格調高く秘めやかな変態性」ですか。なんか凄いフレーズですね、これ(笑)。でも、いいなぁ。

(シューテツさん)
 男の側から見るとアレくらいは極普通の変態性のようにも感じられて、変態が魅力的だとは申しませんが、逆説的に、全く変態でない者が魅力的だとも全然思えない訳で、難しいところです。

ヤマ(管理人)
 際立つ個性というのは、どこか通常さとは異なる部分を備えてはいますよね。

(タンミノワさん)
 こんにちわ。社会復帰中のタンミノワです。と〜ってもご無沙汰しておりました。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、タンミノワさん。“オペラ座の灰燼”からのご帰還、ありがとうございます(笑)。

(タンミノワさん)
 つい先日見た『ミリオンダラーベイビー』、こちらでも話題ですね〜。

ヤマ(管理人)
 作品の持てる力の程が偲ばれますよねー。

(タンミノワさん)
 しかし、私は監督論とか、監督の作品傾向分析とかする知性も知識もないので、素直に「おお〜美しい」と心打たれて帰ってきましたけど、ここではすっかりイーストウッドがヘンタイになってて(笑)。

ヤマ(管理人)
 フランキーが四半世紀近く(23年間でしたっけね)にわたって実娘に伝え得なかった思いをスクラップが代わって伝えてあげた“娘への想いの深さ”が描かれた作品ですから、まずは、美しい作品ではあるわけですよね。その基本線自体への異論は、そう多くはないだろうと思うのですが、もう少し細かく探っていくといろいろ出てくる奥行きが流石とも言うべき作品だと思います。ヘンタイというのも、故なきものではなく、なるほどの説得力が備わっているから、興味深いわけですよ。

(タンミノワさん)
 私は全然イーストウッドの作品を追っかけてきてない人間なんで、彼の性癖とか嗜好を知らないのですが、そういう人間が見ても、主人公とヒロインの擬似恋愛的な匂いは充分感じられるのですが、…

ヤマ(管理人)
 そこに擬似父娘の関係が重ねられるわけですから、近親姦の匂いってな話になるわけですよね(笑)。


-------フランキーと実娘の断絶について-------

(タンミノワさん)
 ヤマさんがレビューの中でご指摘の「父と娘は何故断絶したか」の理由に関しては、自分でも考えたくない事を言われちゃって動揺しました(笑)。

ヤマ(管理人)
 これはこれは、ご愁傷様でした(笑)。

(タンミノワさん)
 ヤマさんご指摘の理由というのも、心の中にふっと浮かんではきたんですが、私自身が女性なので、あまりそういうことを受け入れたくないというか、生理的にも考えをハネつけてしまうので、この物語に対してはそういう風には考えようとしなかったんですが、まあそういうことなんでしょうね・・。

ヤマ(管理人)
 「将来的な予測可能性のもとに現時点での“娘の必死の思い”を否定」っていうのは、娘に対してのみのことではなく親子間では生じがちなものですが、息子以上に娘に対して過剰に出てきがちではありますよね。
 でも、そうですか、生理的に避けたくなるほどの痕跡を残すものなんですねー。だったら、フランキーの娘の頑なさっていうのも、僕が思ってた以上に“リアルな”ことなんですね。

(タンミノワさん)
 この映画は詳しい事情の描きこみが一切されてなくって、想像に任されてる部分 多いんで好きなんですけど、…

ヤマ(管理人)
 そうです、そうです。だから、あれこれ談義が持ち上がるわけで、描出自体は豊富ではなくても、触発力が豊かな作品と言えるんでしょうね。

(タンミノワさん)
 断絶の理由がヤマさんご指摘のような事情だったと考えても、物語の美しさが損なわれることはありませんでした。

ヤマ(管理人)
 いやいや、むしろ痛切さが引き立てられるように僕には思えますよ。僕にとっては、だからこその「許容」だったわけでして(笑)。


-------尊厳死の選択について-------

(タンミノワさん)
 あとヤマさんひっかかっておられた、尊厳死の選択が「充分生きることへ執着したその結果だったか否か」だったかですが、私自身は割とあっさりそのへんを受け入れて納得して見れたタイプでした。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか。

(タンミノワさん)
 というのも、スワンクは、元々絶望しながら生きているような人生の中で、「もう充分生きた」という地点に到達しているように見えたんですよね。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。僕が『海を飛ぶ夢』の日誌で「己が生の一定の到達点として果たした」と綴ったのと同様のものをマギーは感じていたのでしょうかね。でも、やはり僕には絶望のほうの色が濃く感じられました。その深さゆえに、軽々に早計だと“非難”するつもりなど毛頭ありませんが、「自身の境遇を甘受しつつ四半世紀余を生き」、尚というラモンの境地にまでは至ってない時点で、他者が幇助をするということについて、是とはしがたい思いが残ったわけです。
 でも、同時にフランキーの事情を慮れば、非ともしがたくて許容しちゃう煮えきらなさなんですが(苦笑)。

(タンミノワさん)
 「絶頂の中からいきなり全身麻痺、足切断→絶望→とっとと殺して→了解」という早計な感じを受けたというより、彼女の人生はあそこで完結するように出来ていたように見えたんです。

ヤマ(管理人)
 うん、それも一つの死生観だろうと思いますね。僕は、あまり往生際がよくないんですよ(笑)。

(タンミノワさん)
 これは何故ってうまく説明出来ないんですけどね。

ヤマ(管理人)
 チョコレートを美味いと感じるのが何故なのか、うまく説明できないのと似たような話ですよね。

(タンミノワさん)
 最後はもちろん自死を選んだかもしれないけれど、誰が彼女の選んだ人生を非難することが出来るだろうか〜〜〜っなんて思ってました。

ヤマ(管理人)
 同感です。非難する資格なんか、誰にもありませんよね。

(タンミノワさん)
 でも実は「尊厳死」の部分は余り私にとって重要ではなく、余韻として残ったのはセンチメンタルな美しさといいましょうか。

ヤマ(管理人)
 これが一番お得な観方ですよ、やっぱ。

(タンミノワさん)
 監督論的に見れない私の意見でした(笑)。

ヤマ(管理人)
 監督論的に観るのも単に一つの切り口というか、嗜好の領域に過ぎませんから(笑)、「見れない」ことに何の不都合もないし、同格以外の何ものでもありませんよ。

(タンミノワさん)
 でももし、これがイーストウッドの作品でなく、他の人がやっていたら、どういう風に見られるんでしょうね・・?

ヤマ(管理人)
 いや、他の人がやっても、なかなかその味が出ないからこそ、イーストウッド色というものを愛好者が嗅ぎつけるんだと思いますよ(笑)。


-------さまざまな親子関係及び擬似親子関係について-------

(ケイケイさん)
 ヤマさん、皆さんこんばんは。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、ケイケイさん。

(ケイケイさん)
 『ミリオンダラー・ベイビー』、私はあんまり尊厳死については、深く関わっていた感じがしませんでした。

ヤマ(管理人)
 映画日記を拝読しても、専ら焦点は幾つかの親子関係に向けられてましたね。「父の代わりに家族を愛し、良い生活をさせたい、それが彼女の願い」との受け止め方は、マギーがあの母親に家を買ってやることへの法外さに対する回答として見事というか、僕には思いの及ばなかったもので、そのように受け止めておいでのことに打たれました。あの法外さが現実感を損なっていると感じる方もおいでるでしょうが、ケイケイさんのように受け止めると滋味豊かになりますね。

(ケイケイさん)
 『海を飛ぶ夢』とは似ているようでも、感動の質が違いました。

ヤマ(管理人)
 そのようですね。でも、そうはおっしゃりながらも引いておいでの箇所が、これまた「『海を飛ぶ夢』のラモンは、決して父の前では死にたいと言いませんでした」との親子の情に懸かるところで、いかにもケイケイさんらしいですね。

(ケイケイさん)
 『ミリオンダラー・ベイビー』のほうで、フランキーの娘宛の手紙が、又戻ってきた直後、マギーにタイトル戦を持ってきたでしょう? あれはフランキーが自分の気持ちではなく、やっと自分に会いたくない実娘の気持ちを受け入れようとしたんだと思いました。そしてマギーへも、自分の気持ちではなく、チャンピオンになりたい彼女の気持ちを受け入れたんだと思いました。あの時点で、マギーはフランキーの「娘」になったのかなぁと、今思っています。

ヤマ(管理人)
 あの時点か、なるほどねー。

(ケイケイさん)
 だからフランキーの選択は、尊厳死を問うというより、親としてのひとつの形を描いたという風に取りました。

ヤマ(管理人)
 それは、僕もそのように受け止めていて「彼がマギーの必死の思いの程を強く受け止めてしまえば、将来的な予測可能性のもとに現時点での“娘の必死の思い”を否定することはできなかったのだろう。」と日誌に綴ったのでした。

(ケイケイさん)
 また、デンジャーの存在が、すごく後味をよくしていたのが印象的です。

ヤマ(管理人)
 これについては、TAOさんのレスにも書いたように、僕には“付け足し感”が残ったんですけどね(たは)。でも、素直に後味よく御覧になれるほうが絶対にお得ですよ。

(TAOさん)
 ヤマさんは、へなちょこデンジャー君のエピソードを“付け足し”と感じられたんですよね。

ヤマ(管理人)
 ええ、さほど引っ掛かるわけでもなくて、日誌では言及しない程度ですけどね。

(TAOさん)
 まあ、つけたしといえばつけたしなんですけど(笑)、私にはモーガン・フリーマン(役名はエディ)&デンジャー VS フランキー&マギーの対比が、本作ではとても効いてる気がしました。

ヤマ(管理人)
 なるほど、もう一つの疑似親子というか師弟関係なんですね。


-------エディの存在が浮き彫りにしたもの-------

(TAOさん)
 とくにナレーションも担当しているエディは、フランキーというヒーローがこの世に存在したことの証人であり、その意味では、『シェーン』の焼き直しである『ペイルライダー』の女の子ともまったく同じ役割なんですけど、ただの証人ではなく、もっと重要な役割を担わされてるように思います。

ヤマ(管理人)
 ですよね〜。彼がフランキーに代わって、フランキーの娘に伝えた話だと解している僕には、ある意味、証人以上の存在でもありました。

(TAOさん)
 フランキーがマギーのタイトル戦にエディを誘うと、エディはジムを留守にはできないから、と断りますよね。彼はフランキーとちがって、ハレの舞台への未練はないし、ジムのオヤジとして生きていくことに充足しています。

ヤマ(管理人)
 マギーの快進撃によって、結果的にハレの場に姿を見せましたが、僕は、フランキーにハレ舞台志向があるようには思いませんでしたよ。むしろ、エディをハレ舞台の場に出してやりたくて誘ったように思います。でも、そう思うということは、志向はなくてもハレ「意識」はあるということですよね。たぶんTAOさんのおっしゃりたいこともそこのところだろうとは思うのですが。

(TAOさん)
 いえいえ、フランキーはハレ好きですとも(笑)。彼に関しては、私はハレ好きだと見てます。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか、意識じゃなく、きっぱりと「好き」なんですね(笑)。

(TAOさん)
 職業こそは脇役ですけど、彼はチャンプになれる素質のある者しか育てることに喜びを感じないタイプではないかしら。

ヤマ(管理人)
 ほほぅ。

(TAOさん)
 やみくもにタイトル戦に出すという無謀なことはしないけれど、ハレの舞台で闘い続けられる弟子を育てたいという明確な志向があると思うのですが。

ヤマ(管理人)
 それはそうですね。そのうえで、「ハレの舞台」のほうにウェイトを感じるか「闘い続けられる」のほうにウェイトを感じるかで、受け止め方が少々異なってくるってことなんでしょうね。

(TAOさん)
 マギーの前に育てていたボクサーを、これからというときに引き抜かれたときも、再起不能なほどにがっかりしてました。

ヤマ(管理人)
 これは、本人のために最もよかれと思って真摯に自分が判断していることに対して、仮にそれが独りよがりの思い込みであったにしても、痛烈な(彼にとっては裏切りとも思えるような)しっぺ返しを食らったことで凹んでいたのだろうと僕は思います。そして、その凹み方が半端じゃなかったように見えたのは、かつて実娘との間でやったことを繰り返してしまったように感じていたからではないでしょうか。

(TAOさん)
 ああ、それはそうですね。たしかに、娘ばかりかこんどは選手の信頼までを失ってしまった痛手は大きかったでしょう。

ヤマ(管理人)
 僕は、そんなふうに受け止めたもので、ハレ舞台とかチャンプ素質とかには、あまりウェイトを置いてなかったように感じています。

(TAOさん)
 でも、あの引き抜きがなかったら、そもそもマギーを育てようなんて思わなかったし、女なんてボクシングじゃ二流じゃないかという意識も持ってましたよね。

ヤマ(管理人)
 これは確かに感じられましたねー(笑)。本物のボクシングを女なんかにやれるわけない!って。
 でも、マギーの取り組み方を眺めているうちに、自分のなかにある「頑迷な思い込み癖」というものに気づかされた部分があったように思います。そして、それが、かつて“現時点での娘の必死の思い”を彼が否定せずにはいられなかった“将来的な予測可能性”が、独善的ないしは一方的であった可能性というものへの悔悟を促し、同じ轍を二度も踏めない否応なさへと彼を追いやっていたようにも思えます。

(TAOさん)
 いっぽうエディには、ボクシングをただの道具として使おうとする連中をノックアウトする気概もある。

ヤマ(管理人)
 そのノックアウトで、デンジャーは凹んじゃうんですけどね(笑)。

(TAOさん)
 デンジャー君は、マギーと違っておよそ才能もなさそうだし、これしか生きていく道がないというほどのハングリーさもないけど、それでもやっぱりボクシングを続けることに決めたらしい。

ヤマ(管理人)
 純粋に「好き」が動機になっている人物の提示だったわけですよね。うん、彼が帰ってくることには、そういう意味があったんだな、確かに。今、気づきましたけど。

(TAOさん)
 つまり、フランキーとマギーはハレの部分を担当し(光が強く当たる分、影も濃いのです)、エディ&デンジャー組は地道なケの部分を担当してる。

ヤマ(管理人)
 志向か結果かはともかく、この対照は、言われてみれば、成程って思いました。今気づいたボクシングにこだわる動機の対照性も含め、確かに好対照ともなる「もう一つの師弟関係」だったわけですね〜。

(TAOさん)
 そして、ヒーロー2人が伝説を残して消えた後も、エディやデンジャーのようにボクシングを愛する者がいるかぎり、ジムは永遠に続いていくというラストで、ナルシストのイーストウッドにしては、ケの部分を担う二人をずいぶんポジティブに愛をもって描いていると思いました。

ヤマ(管理人)
 なるほど、単なる付け足しじゃないよ、とね。うん、『ミスティック・リバー』談義で導かれたものほどの見事さによる雲散霧消には至りませんが、単なる付け足しではなさそうですね。

(TAOさん)
 これは、興行的配慮というよりは、イーストウッドが歳をとり、死生観の変化が作品に現れたのではないかと思うんです。

ヤマ(管理人)
 ふむふむ。

(TAOさん)
 変態趣味はいっこうに治らなくても(笑)、生きとし生ける者への愛情がましてきたのではないかと。

ヤマ(管理人)
 歳とるのも、いいもんですね(笑)。

(ケイケイさん)
 『ミリオンダラー・ベイビー』は、TAOさんがハレとケと書かれているのに、なるほどと共感しながら拝読しました。

ヤマ(管理人)
 これ、興味深い御指摘ですよね。

(ケイケイさん)
 私もヤマさんと同じく若干の付け足し派でして(笑)。それも含めて見事な脚本だとは思っています。

ヤマ(管理人)
 そうですね、そこんとこ、僕もケイケイさんと同じく、です(笑)。


-------ボクシングにのめり込んでいたフランキー-------

(ケイケイさん)
 タンミノワさんのレスを読んでいて感じたのですが、足の切断がやっぱり重要なポイントですよね。充分生きたというより、ボクサー生命が完全に絶たれたことの絶望は、トレーナーであるフランキーならわかってくれるとの思いがあったと感じました。

ヤマ(管理人)
 だから、フランクが「あえなく覚悟を決めてしまう」んですよね。

(ケイケイさん)
 それくらい、スワンクの演じるマギーには、まぶしいくらいのボクシングへの情熱を感じさせてくれました。だから私は師弟愛、擬似父娘は感じても、男女のニュアンスはあまり感じなかったのかも知れません。

ヤマ(管理人)
 最も強いのは、やはり疑似父娘だったと僕も思いますが、その前段では、そういうとこもあったように思います。

(TAOさん)
 そういえば、フランキーの実娘との関係断絶の原因を、私は、ばくぜんとですが、仕事がらみ、もしくは女がらみだろうと見ていました。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか。そのへんは、少し僕とは異なってたんですね。

(TAOさん)
 妻が入院しても仕事を休まず育ててるボクサーにつきっきりで、とうとう死に目に会えなかったとか。よそに女をつくって、妻は自殺もしくは憔悴のまま亡くなったとか、だから、娘は父を許さないんじゃないかと。

ヤマ(管理人)
 ふむふむ、これもありがちなパターンではありますよね。

(TAOさん)
 後者の実例はジェーン・フォンダですね。

ヤマ(管理人)
 そうか、父娘不仲の一番の原因はそれだったんですか。

(TAOさん)
 ヘンリー・フォンダの晩年にようやく和解しましたが、長い間、絶交状態だったと聞きました。

ヤマ(管理人)
 確か『黄昏』の頃でしたっけね、和解って。

(TAOさん)
 とにかくまあとりかえしのつかない何かをして、娘の愛と信頼を失ってしまった父親は、それでますますボクシングにのめりこんだんでしょうね。

ヤマ(管理人)
 うん、そうそう。具体的には何であれ、取り返しがつかない形になってたんでしょうね。だから、いっそうのめり込んだんだろうというのも同感ですね。

(TAOさん)
 フランキーもマギーも、お互いに、家族はあっても、愛は得られず、リングの上でしか自分を承認してもらえる場はない、と思ってる人たちなんじゃないでしょうか。

ヤマ(管理人)
 そうですね。僕も同感です。

(TAOさん)
 負けたら意味がないし、戦えないなんて生きてる意味がない。だから、フランキーにはエディの今の充足感がわからないし、だからこそ、マギーの気持ちが痛いほどにわかったのでは。

ヤマ(管理人)
 なるほどねー。単に疑似娘の願いの“程の切実さ”の受け取りのみならず、“内容の切実さ”も受け取れるわけだから、なおのこと彼を否応なさへと追いやっていたんですねー。
by ヤマ(編集採録)



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