『ビューティフル・マインド』(A Beautiful Mind)
『アザーズ』(The Others)
監督 ロン・ハワード
監督 アレハンドロ・アメナーバル


 製作費のかかる商業映画は、それを回収するために、観客に飽きられることのない新たな刺激と意匠を更新していかなければならない宿命にあるが、刺激過剰のなんでもありの時代を迎えて、『ビューティフル・マインド』のような感動実話ものでさえ、このような意匠が求められ、なおかつそれがアカデミー賞の作品賞として広く支持されるということが、時代と共にある映画の現況として興味深かった。

 数学に卓抜した明晰なる頭脳においても、風変わりなパーソナリティにおいても、常人とはかけ離れた特異性を露わにしていたジョン・ナッシュ(ラッセル・クロウ)が心を病んでいったのが、さも軍の機密任務に当たっている過程であるかのように運びながら、あの時代に網膜認証やランダムに数値を変える発光ダイオードの皮下移植の技術などがあったとも思えないし、そもそも極秘任務とされていること自体が何やら怪しげで腑に落ちないでいたら、なんだか呆気にとられるようなフェイクが映画の意匠として施されていた。

 幻覚を幻覚として認知できないからこそ、ジョンは病んでいたわけだが、それを観客にも疑似体験させようとしたのであれば、最初の1回だけは本当にあったと思われる暗号解読の場に、ジョンの気づかぬ形で、ガラス越しに上からその場の様子を眺めているパーチャー(エド・ハリス)の姿があったのは、いささかやり過ぎではないのかという気がする。また、ジョンが幻視の自覚を得る鍵となった成長しない少女の姿についても、ジョンの息子である赤ん坊の様子からして、言うほどに明らかな時間の経過がないように感じられたが、どうだったのだろう。

 フェイクは、映画の誕生時から常に映画とともにあるもので、フェイクのあることが不満ではなく、むしろ気持ちのいいフェイク・騙し・嘘こそが、映画の醍醐味だとさえ思っている。だから、例えば、初めてのデートのとき星空を眺めながらアリシア(ジェニファー・コネリー) と交わした会話や知事と並んで写真を撮ったときに彼女から貰ったハンカチが、50年の時を経ても色褪せることなく、ノーベル賞受賞の晴れやかな場で胸ポケットに収まっていたり、再度の入院を迫られ、絶望に打ちひしがれたときにベッドに座って指で押し広げながら眺めるものであったりすることは、映画的嘘であったにしても大いに歓迎するところだ。だが、この作品の展開のほうの持つフェイクには、僕はあまり感心できなかった。チラシの見出しとしては最も大きな文字で印刷されていた「意外な展開に息をのむ…」というところが、ナッシュ夫妻の物語の一番の値打ちとされるべきところだとは思えない。でも、チラシの表に惹句として印刷されていた「それは-真実をみつめる勇気 信じ続けるひたむきな心」という部分を本線にした地味な映画には、今やもうできない時代なのかもしれない。

 サスペンス風の展開を取ったためだけではなくて、実話物語という制約があったからかもしれないが、登場人物たちの人物造形は意外なほどに薄っぺらい。その分いきおい、俳優の演技力と存在感に頼らざるを得なくなるわけだが、その点は、助演者も含めてとても充実していた。

 見識を窺わせたのが、幻覚を観ることが病ではなく、幻覚と現実の見境がなくなることを病としていて、幻覚を観ること自体を全面的に否定的には捉えていないことだ。ショック療法と薬物によって幻覚自体を封じ込めても、当人に現実を生きている実感と手応えがもたらされなければ、治癒を意味しないことが明瞭に描き出されている。そして、奇跡に近い可能性ではあっても、それを果たし得るのは、電気や化学物質ではなく、人と人との関係性であることが確信をもって描き出されている。それだけに意表を突いた展開の意外性よりも、もっと彫り込みの深い人物造形による王道の人間ドラマとして観せてもらいたかったという気がする。

 実話ドラマのなかで、事実の謎をサスペンスフルに描くのではなく、映画の展開手法として観客を引き付けるためにサスペンスの手法を採用することが従来の映画の約束事からの新奇な逸脱とするならば、ホラーサスペンスにおいて、怪しく不気味な出来事に脅かされ、追い込まれていく主人公が、実は生きている人間ではなかったという『アザーズ』もまた、同様の新奇な逸脱を意匠として作られた映画だ。

 明かされてみれば、グレース(ニコール・キッドマン)のいささかファナティックな言動や二人の子供たちの青白く生気を欠いた顔に得心もいくし、姉のアンが弟に仄めかし、脅えていた記憶と母親グレースに対して抱いていた心の葛藤も納得がいく。ニコールの充実した演技と家政婦の老婦人の存在感で、かなり観応えのある仕上がりにはなっているのだが、ここでもまた、僕はどうもこの新奇な意匠に気持ちよく馴染めなかった。自分の感覚が加齢とともに硬直してきているのだろう。そういう意匠を楽しむことよりも、孤立した島で戦争による侵略に脅えながら、頼りとする夫に志願による出征をされ、居残るか他の人々と同様に島を捨て逃げ出すか、幼い子供を抱え、あても頼りもないなかで、精神的に追い詰められていったグレースが、錯乱し、遂には凶行に至る過程のほうを観せてもらいたかったという気がする。

 しかし、そこに焦点を当てるのであれば、作り手は敢えて映画を撮る意欲を持たなかったであろうから、前提となるモチベーションに異議の申し立てをするのは筋違いだ。だが、従来の映画の約束事からの新奇な逸脱という意匠の部分を除いて、ホラーサスペンスとしての演出ということだけを観れば、もちろん達者ではあるにしても、もてはやされるような卓抜ぶりが窺えるようには思えなかった。やはり大向こうをうならせたのは、演出力以上に新奇な意匠のほうだったのではないかという気がする。



参照テクスト:日誌をめぐる[めだかさんとの対話]往復書簡編集採録


*『アザーズ』
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0204-3others.html#others
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex
/2002acinemaindex.html#anchor000788
by ヤマ

'02. 4.26. 東   宝   3
'02. 4.28. 松竹ピカデリー2



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