『ミリオンダラー・ベイビー』(Million Dollar Baby)
監督 クリント・イーストウッド


 女性ボクサーというまだまだ馴染みの薄い分野に材を得たボクシングの映画かと思っていたら、とんでもなかった。全く予期していなかったので、いささか意表を突かれるとともに、少々後を引いた。イーストウッドは、今回も自身が作ったと思しきシンプルで清澄感の沁み通る曲を巧みに使いつつ、陰影と含蓄に富んだ豊かな画面づくりで堂々たる映画を撮っていて、大いに感心させられたが、物語的には、フランキー・ダン(クリント・イーストウッド)の最後の選択を、僕は許容しつつも支持できなかった。愛するゲール語で血肉を分けた分身を意味すると語っていたように思う“モ・クシュラ”という言葉を贈った愛弟子マギー・フィッツジェラルド(ヒラリー・スワンク)の願いに応じて、その尊厳死に直接手を貸すことは、ちょうどひと月ばかり前に日誌を綴ったばかりの海を飛ぶ夢のロサと同様の、愛情に満ちた“勇敢な踏み出し”と言えるはずのものなのに、ロサの場合にはその想いの深さに打たれ、フランキーの場合は、許容しつつも同意できない感じが僕に残ったのは何故なのか、少し考えてみないではいられなかった。単に余韻として味わうことに留まらない形で尾を引く観後感を残す映画としての力のほどは、前作ミスティック・リバー同様、流石というべきところだ。

 あれこれ考えてみると、僕がロサとフランキーの同様の行為に対して異なる感情を抱いたように思っていたことが、実はロサとフランキーの行為ではなくて自死を願ったラモンとマギーの選択に対してのものであることに気づいた。ロサとフランキーについては、愛する者の切なる願いに覚悟と勇気をもって踏み出したことでは、やはり同等と言うべきものだと思う。

 僕は『海を飛ぶ夢』の日誌に愛情深い家族や友人に囲まれ恵まれた介護生活を送り、音楽に造形深く詩文に才も発揮している彼が何故に尊厳死を望むのか、その心境がどうにも不可解だったと綴ったが、そういう意味では、マギーの死への願いは、ラモンの場合と異なり、僕でも理解しやすい状況にあった。試合中の事故によるものだったことから、医療費の負担が連盟だという経済的な事情以外の全てのことが、マギーの場合、ラモンより遙かに酷な状況にあり、目に見える形でも失った片脚のみならず、大きな喪失感と挫折感による絶望のなかでの選択だったように思う。かたやラモンの場合は、四肢麻痺の障碍を負って四半世紀にわたる生を全うしてきたうえでの結論だった。ある意味、彼の状況のなかで果たし、得られるものをほぼ実現させた後に、最後まで諦められず手中にしようとしたものとしての尊厳死であったわけで、少なくとも突如見舞われた大きな喪失感と挫折感による絶望ゆえのものではなかったように思う。僕にとって「その心境がどうにも不可解だった」分、その結論の背景には、深い思索と自問の果てという計り知れない“独自性の重み”が横たわっていたような気がする。

 それからすれば、マギーの絶望と孤独には深刻なものがあっても、その選択した結論にはラモンほどの重みが備わっていないような気がしてならない。少なくとも理解しやすい心境でしかない分、命の重みと拮抗するまでには至っていないのではないかとの思いが拭いきれず、死ぬにはまだ早く、今暫く生に挑戦する価値も余地もあった気がして、同意できない感じが僕に残ったのだと思う。ラモン同様に詩を愛し、イェイツの詩集を手元から離さない思索家でもあるフランキーも、それゆえマギーに、ストローに息を吹き込むことで操作できる車椅子で大学に通ってみることを投げ掛けたりはするのだが、マギーの必死の思いが“誇り”を持ち出したとき、あえなく覚悟を決めてしまう。

 だが、トレーナーとしての自分について、彼が何十年も自責と後悔に囚われ続けているエディ・“スクラップ・アイアン”デュプリス(モーガン・フリーマン)の片目失明の顛末にしても、既にエディ自身はフランキーほどに全面的な悔いを残しているわけではなくなっていたように、マギーの必死の思いもフランキーが受け取ったほどに将来にわたって不変のものとは限らない。ラモンの場合は、四半世紀にわたって現に不変だったという事実の重みが「なぜ僕は他の人のように自分の生を肯定できないのだ!」と夜中に慟哭する姿としても備わっていたが、マギーの場合は、早計となるかもしれない余地がまだまだ否定しきれない状況だったのだから、“取り返しのつかない死”というものを幇助すべきではなかったように思う。

 そこが僕に「許容しつつも同意できない感じ」が残った一番の理由だったのではないかと思い至ったのだが、これについては、逆に「同意できないながらも許容できた」とも言えるわけで、その理由の一番は、やはりマギーとフランキーの間に生じていた疑似父娘としての愛情関係の重みにあったように思う。エディの失明以上に長らくフランキーが自責と後悔に囚われていたと思しき“実娘との壊れた関係”が、マギーとの間に生じた関係に、フランキーにとっての人生のやり直し作業的な側面をもたらしていたように思われるから、彼がマギーの必死の思いの程を強く受け止めてしまえば、将来的な予測可能性のもとに現時点での“娘の必死の思い”を否定することはできなかったのだろう。具体的には何ら語られていなかったが、フランキーの“実娘との壊れた関係”というのは、おそらくは父娘間で最もありがちな、そのパターンで深い傷を負っていたのではないかと思われる。だから、彼には同じ轍を二度も踏めないわけで、否応もなくなる状況だったような気がする。

 僕には同意できなかった彼の選択の背後にある哀しさには、そういう意味でも、とても深いものがあって、その覚悟の重さというものが僕に許容を迫ったのだろう。愛情に満ちた“勇敢な踏み出し”という点では同じでも、ロサ以上に“独自性の重み”が横たわっていたように思う。この点でラモンに匹敵していたのは、同じ四肢麻痺になったマギーではなく、フランキーだったわけだ。




参照テクスト掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録

推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050530
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dfn2005/Review/2005/2005_06_13.html
推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://ivory.ap.teacup.com/8207/189.html
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0506_1.html
推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/Million_Dollar_Baby.htm
推薦テクスト:「Muddy Walkers」より
http://www.muddy-walkers.com/MOVIE/millondollar_baby.html
by ヤマ

'05. 5.29. 松竹ピカデリー2



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