『海を飛ぶ夢』(MAR ADENTRO)
監督 アレハンドロ・アメナーバル


 旧知の役者が一人もいなかったスペイン映画だが、登場人物すべての人々の豊かな表情に魅せられ、とても複雑でデリケートなテーマを扱って、非常に誠実で品格のある作品だと感じた。

 二十歳過ぎの若さで首の骨を折って寝たきりになり、首から下が全て麻痺して動かせなくなったラモン・サンペドロ(ハビエル・バルデム)が、四半世紀のときを経たうえで尊厳死としての自死を権利として訴え、その幇助を罪に問わないよう法廷に願い出ようとする。マスメディアが取り上げたことによって、彼と同じく四肢麻痺で、不断の介護を余儀なくされつつも車椅子生活ながら精力的に活動しているらしき神父の来訪を受けるのだが、同じ境遇にある者としてラモンの改心に向けた説得を試みるなかに、救いの心よりは、世間への自己顕示と障害を乗り越えられない事例への見下しや決め付けの視線が潜んでいることを痛烈に窺わせた場面が印象深かった。

 ラモンと神父の論争によって、この作品の主題が、寝たきり障害者の尊厳死という一般論にあるのではなく、ラモンの自死という厳にパーソナルな問題であることが明示されるとともに、宗教的な価値観を排除して人の自死そのものを考えようとする作り手の態度が明らかにされていたように思う。さらにラモンと対立する障害者の神父について容赦なくその欺瞞性を浮き彫りにして描くことで、作り手は、この作品が障害を負った人々を一括りにして理解と支援を訴えるような啓発映画と訣別していることを鮮やかに印象づけていたような気がする。

 この神父の来訪に対し、ラモンの介護を四半世紀に渡って続けてきた義姉マヌエラ(マベル・リベラ)が、二人の言い合っていることは自分にはよく理解できないけど、私にも判ることが一つだけあると言って「あなたは“やかましい”。」と静かに告げるのが痛烈だ。そして、そのセリフを借りるならば、この映画は見事なまでに“やかましくない”誠実な作品だったように思う。

 神父と同じく報道によってラモンを知り訪ねて来ることになるもう一人の人物がロサ(ロラ・ドゥエニャス)で、実に対照的な存在だった。身体障害のある神父とは異なり、知識も言葉も乏しく、彼の不自由さや苦悩への知見も神父に及びようのないはずの女性なのだが、ラモンという男の知性や人間としての器の深さ、生の苦しみを感知し、不器用ながら懸命に関わろうとし始める。そして、ラモンが最も心惹かれているのが弁護士フリア(ベレン・ルエダ)であることを察しつつ、彼を愛し支援した女性たちの誰もができなかった“彼の願いに自ら直接手を貸す勇敢な踏み出し”に至るほどに、深く彼を愛するようになる。ラモンと関わることで初めてロサが自身の存在に手応えと喜びを感じられるようになっている様子が、さしてエピソードを細かく加えてはいないのに、よく伝わってきた。


 彼女に限らず、ラモンのために尽力する人々の全てに、善意や良心といった言葉でラベリングできるような漠然とした動機で済ませているところが一切ないのが見事だ。弁護士のフリアが無償で彼の法廷闘争を支援するばかりか個人的にも深入りしていくのには相応の切実なる動機があるわけで、申し分のない夫といえども決して余人とは分かち合いがたい苦しさと悔しさの淵に沈んだ胸中のなかで、ラモンに同じ地平を見出し、彼に感化されるとともに相互に惹かれ合っていくわけだ。法廷戦略として世論支持を誘導すべくTV取材を仕掛けた時点では、衆目の関心を集めるなかでラモンの心変わりを導く展開になることへの彼女の期待をも窺わせるようなデリカシーに富んだ人物像をベレン・ルエダが見事に演じていて、ついつい観惚れてしまった。しかし、最も陰影に富んだ深い表情を印象づけていたのはマヌエラだったように思う。長年にわたり、最も献身的にラモンを支えてきた自負と愛情が、フリアやロサへの嫉妬や屈託となって滲み出る様子に、哀切が籠もっていた。そのなかで、ラモンの一番の理解者は彼女をおいて他にないということやラモンの彼女への信頼のほどが染み透るように伝わってきた。想えば、フリアやロサを惹きつけるだけの人間的深みをラモンが四半世紀の間に培い得たのは、彼女の存在あってこそのことだろう。そして、甥である青年ハビ(タマル・ノバス)の無頓着さや献身的とまでは決して言えない姿、ラモンの兄ホセ(セルソ・ブガーリョ)の愛情に満ちた反発や憤慨にも、人物造形の巧みさと的確さが窺えたように思う。

 甥が祖父ホアキン(ホアン・ダルマウ)を役立たず呼ばわりしたときにラモンがその言葉を咎め、たしなめたように、人の命や存在の価値というものが“役に立つ”か否かで決まるものではないことを他ならぬ彼は承知し、実感していることが窺えただけに、愛情深い家族や友人に囲まれ恵まれた介護生活を送り、音楽に造形深く詩文に才も発揮している彼が何故に尊厳死を望むのか、その心境がどうにも不可解だった。僕には、半世紀近くになる自身の生のなかで、未だかつて一度も自殺を想起したことがなく、生を真面目に考えたことはしばしばあっても、死について真剣に思いを巡らせたことがろくにないのだから、仕方がないのかもしれない。

 だが、ラモンがフリアと出会い、彼女の吸っていたタバコを吸わせてもらい、唇を重ねてもらうなかで、人間らしい欲望や喜び、意欲に目覚めるたびに、自力では何一つできない悔しさというものに、苦しみを新たにせざるを得ない屈辱に苛まれている様子や「なぜ僕は他の人のように自分の生を肯定できないのだ!」と夜中に慟哭し、興奮する姿に心打たれながら、パーソナルな問題としては、彼の周りにいた女性たちと同じく、了解し承知するほかないと感じた。そうして思い出したのが、三年前に増村保造映画祭で観た『赤い天使での“新婚二か月で徴兵され、妻が恋しい身の上で戦地に赴き、命の代償に両腕を失った折原一等兵(川津佑介)のエピソード”だった。女の体を知り、妻恋う気持ちが募る若い身体で両腕を失い、自慰もままならぬ苦しさを前線の従軍看護婦 西さくら(若尾文子)に訴え、想いを遂げさせてもらった直後に身を投じて自殺したのだった。ラモンの麻痺がどのような様相のものだったのか詳細は不明なのだが、折原一等兵とは違い、少なくとも投身を果たせるだけの脚の自由は失っていた。

 ラモンが自身の境遇を甘受しつつ四半世紀余を生き、相当以上の精神の独立と徹底した肉体の従属というものを己が生の一定の到達点として果たした五十歳前になって、もはや為し得べきほどのことは全て成し遂げ、後は心許なさを引きずるだけの生でしかないとの心境に至ったとしても無理ないのかもしれない。介護に尽くしてくれる兄夫婦にも老いが忍び寄りつつあることで心痛や不安が増していることも映画のなかで率直に語られていた。病の急速な進行により認知症となったフリアをジェネ(クララ・セグラ)が訪ねるラストシーンによって、二人の人生の終末段階が対置されていたようであった。そのいずれにも優劣はないのだけれども、僕の目には、むしろラモンのほうが、より生を全うした印象を残しているように感じられた。



参照テクスト:掲示板ほか過去ログ編集採録


推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://ivory.ap.teacup.com/8207/188.html
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050512
推薦テクスト:「おちゃのましねま」より
http://plaza.rakuten.co.jp/mirai/diary/200602170000/
by ヤマ

'05. 4.21. TOHOシネマズ3



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