『モンスター』(Monster)
監督 パティ・ジェンキンス


 荒んだ生活をしている者がきちんとしたいと本気で思い始めるときに、自身の意識を投射させるに足る鏡なり甲斐を見出せる相手としての他者の存在を必要としない人は恐らく皆無であろう。それは、荒みにまでは及ばずとも多少の自堕落さで日々を過ごしたことのある者には、僕のみならず誰しも思い当たることだという気がする。自分一人だけの意志と願望によって自己完結した生活改善の実現というものは、なかなか果たせるものではないように思う。アイリーン(シャーリーズ・セロン)の悲劇は、三十代半ばでセルビー(クリスティーナ・リッチ)と出会うまで、恐らく一度もそういう他者との出会いを果たせずにきたことと多少の自堕落さでは済まないほどに荒んだ生活を重ねてきていたことにあるように感じた。
 僕は、この映画が事実にいかほど忠実に綴られた作品なのかということに対して興味はあるけれど、強い関心はあまりない。それよりも表現者としての作り手のなかに呼び起こされた“物語”を受け取るなかで生じる“映画との対話”のほうに気持ちが向く。そういう意味では誰も知らないのモチーフとなった十五年前の事件についても、パッションで描かれたイエスの最後の十二時間と同じ程度には、事実との相関についての興味があったけれどもこだわりが全くなかったのと同様に、1991年に逮捕され、2002年に今の僕と同い年で処刑されたらしい実在のアイリーン・ウォーノスそのものと、映画に描かれたリーがどの程度正確に重なるのかということには強い関心がない。
 だが、この作品のアイリーン像として、八歳で父親の親友なる男に犯され、十三歳から娼婦のような生活を続けてきたとの当人の弁が仮に全てまでは事実でなかったにしても、彼女が出会うべき他者との出会いを果たせずにきたことと、そういう他者との出会いに恵まれることが極めて困難な境遇にずっとあったことには、充分納得の得られる人物造形がされていたように感じる。そして、極めて厳しい状況にて生きる者がなまじ生半可な出会いを果たすことで、逆により状況を悪化させることも、いかにもありそうな哀しい現実であることが身に沁みてきた。

 少なくともアイリーンは、セルビーを抱え込まなければ、モンスターと称されるほどの連続殺人犯にまではならなかったような気がするのだ。セルビーとの出会いがなくても、娼婦生活を続けているなかでは、最初の殺人を犯すことになるような事態には出くわし、実行してしまうかもしれない。しかし、後ろ盾やシステムによる助力と搾取を拒むフリーの立ちん坊でしのぎを重ねてきていただけに、彼女の語る「娼婦稼業は自堕落なだけではやれない。強い精神力が要るんだ。」との言葉には、それなりの力が備わっていたように思うし、そういう意識を持つ人物が、それなりに懼れを抱き、時には殺しを見送ったりしながら自分なりに合理化できる範囲での殺人に努めていたのだから、セルビーの存在がなければ、単なる馴れや惰性で歯止めが効かなくなる形で、或いは快楽殺人に目覚めるような形で、犯行を重ねることにはならなかったように思う。やはり「きちんとした生活がしたい」即ち娼婦はイヤだという思いが、セルビーとの出会いで触発されてしまったことで高い強度を得ていたからこそなのであろうし、セルビーを扶養する負担が重くのし掛かっていたからだという気がする。そうでなければ、娼婦の手口で誘ってやらずぶったくりの殺人を重ねる凶行には及ばなかったろうし、長年続けてきた娼婦生活が心底イヤになっても、連続殺人は重ねずに、セルビーと出会う前に考えていた自殺を手に入れた銃で果たしていたような気がするのだ。
 映画でのアイリーンは、そのような女性として描かれていたように僕は感じる。だからこそ彼女の凶行が最初のやむなき殺人から、殺すことに自分なりの合理化の果たせる相手に限った殺人を経て、自分でも正当化の余地のない殺人にまで、お定まりのように深化していったことが、彼女を大いに苛んだのだろう。神に恥じることなど何もないと強弁できていた犯行が、最後には善良そうな老人の殺害に至ったことにおいて、彼女が神に赦しを請うのはそういうことを示していたのだという気がする。

 アイリーンをそのように観ると、ますます気になってくるのがセルビーの存在だ。彼女は、良くも悪くも“現実に目を向けないことで保っているイノセンスの功罪”というものを体現していた女性で、アイリーンに対する偏見や侮蔑もない代わりに、彼女の負担や苦境に対する想像力も欠如していて、自分のことしか見えない女性だったように思う。自ら誘った相手から想いを寄せられることで獲得した自身の被扶養権というものについて、状況や事情にかかわらず絶対的な揺るぎなさを手放しで自認できる女性というのは、彼女に限らず珍しくはないような気がするが、そのイノセンスぶりが苦境にある相手をより追い込むというのは、この世に数多く存在する“惚れた女の無邪気さのために犯罪に深入りしていく男を描いた物語”を想起するまでもなく、ありがちな話だ。
 そういう意味では、アイリーンには男気がある。それは、自身を痛めつけてくる現実というものの桎梏と圧力から逃れようなく生きているとの思いから解放されることのない男にとって、いかなる内的メカニズムによるものであろうとも、現に現実と遊離した感覚を体現できている女に対して感じる眩しさや愛おしさが抜き去りがたいものとして生じるくることで、そのイノセンスを庇護したい思いが湧いてくるという形での男気であり、ある意味、幾分マッチョで古くさいものでもある。そして、愛情関係になければ、むしろ憤慨の対象となるはずのことが逆に庇護の対象になってしまうところに男女の機微が窺えるのだが、レズビアンとしての二人の関係のなかでは、まさしくそういうものとして描かれていて、アイリーンの台詞としても明言されていたように思う。しようのない奴だが、可愛い奴だから何としても守ってやりたくなるわけだ。

 そういうふうに、性愛的ニュアンスよりもジェンダー的ニュアンスのほうを強調する形でレズビアンを描いていたところが僕の目を惹いたわけだが、その点では、腹をたぷつかせ、荒れた汚い肌も化粧で隠しようがなくなっているアイリーンを13kgも体重を増量して熱演していたシャーリーズ・セロンも見事だったが、それ以上にセルビーを演じたクリスティーナ・リッチの存在感に魅せられた。大きな瞳を有効に使い、あどけなさと無自覚なる強靭さを潜ませたファム・ファタルぶりを存在感として遺憾なく発揮していたように思う。バッファロー66の頃の野暮ったさが微塵も窺えない。体型的にも幾分スマートになっていたように感じるが、相変わらずの巨乳ぶりは裸体にならずとも健在で、良くも悪くも女性性の権化として君臨しているような人物像を強く印象づけていたように思う。
 シャーリーズ・セロンが血塗られた乳房をたるんだ腹とともに晒したときに『レインディア・ゲーム』で見覚えのある乳房とは見違える豊かさを認めても、クリスティーナ・リッチに及ぶものでは到底ないと思うと同時に、モデル出身の彼女がダイエットに努めることで『レインディア・ゲーム』のときのような状態をきたしていることが偲ばれたのだが、それはともかく、僕がシャーリーズ・セロンの驚異的な変容に感心しつつアイリーンを演じている彼女の演技の充実ぶりを感じながらも、少々違和感が拭いきれなかったのは正直なところだ。その一番の理由は、容姿を如何に変容させても声質までは変わってなくて、これまでの彼女が演じた役にはなかったはずの汚い言葉をいくら連発させても、僕の耳に覚えのある声の響きが、美貌輝くノーブルな彼女をたちどころに想起させてしまうようなところがあったからだという気がする。

 それにしても、仕方のなさを容れて、セルビーの裏切りとも言える電話および法廷証言に憤りや失望を露わにしなかったアイリーンの胸の内を去来していたものは何だったのだろう。電話の応答のなかでセルビーが大金を受け取ったことを誤魔化すのをアイリーンが受容する場面が効いていた。人間の正体というか実存を身に沁みて見せつけられるような境遇を生き延びてきたことで得ている動じなさなり耐性が、人間なるものへの期待感の薄さという形で潜んでいたように思えてならない。その境地からすれば、束の間とはいえ、セルビーと共に過ごした日々は、彼女に悪行への深入りを促し、セルビーの裏切りという結末を迎えても尚、彼女にとっては掛け替えのない出会いだったとの想いが残っていたのだろう。なんとも痛切な境地と言うほかないものだ。


推薦テクスト:「多足の思考回路」より
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/diary-monster.html
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20041004
推薦テクスト:「Puff's Cinema Cafe」より
http://www.ff.e-mansion.com/~puff/2004c.htm#MONSTER
by ヤマ

'04.11.16. TOHOシネマズ5



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>