『スターリングラード』(Enemy At The Gates)
監督 ジャン=ジャック・アノー


 思えば、僕が映画好きになったのは、ご他聞にもれず父親の影響だ。既に他界している親父が好んでいた西部劇や戦争映画に付き合うなかで僕の映画に対する関心が自然と芽生えたように思っている。その頃に観た西部劇や戦争映画は、長じて後けっこう観もした成人映画と同様に、どれもが似たような題名で、もはや作品の区別はほとんど判然としないのだが、やはり僕の映画の楽しみの原点を形成してくれていたことをこの作品を観て再認識した。

 主人公が優れた技量を秘め開花しつつある若者で、敵側には技量的にも実績的にも彼を上回る年長者がいて、敵対しながらも双方が双方を認めつつ、余人には測り知れない二人の世界の、置かれた状況を超越した濃密なコミュニケーションを必ずといっていいほど間接的に交換しながら、対決していく。そして、決まったように、その傑出した技量と生命を二人にお構いなしに利用し、利益をあげようとする連中がいて、彼らの安全なところからの身勝手な思惑に巻き込まれる形の状況のなかで、神聖ささえ窺わせる凌ぎを削った幾度かの対決がおこなわれる。そして最終的には、完全には実力ではなく、結果としての世代交代を果たす。闘いに身を投じる若者には、それにふさわしい気丈さを備えた美女との恋が添えられ、重要な役回りを果たす少年が登場し、身体を張って対決する二人のかっこよさを際立たせる役回りの低俗で卑しい町のボスや上官のような権力者が配置される。

 大きな違いは、幼い頃に観た多くのこの手の西部劇や戦争映画にはない大作然とした作風と昔の映画にはない描写のリアリズムだろう。様式とリアリズムは相反するものであり、大作の背負うリスクといったことも考え合わせれば、この作品がそういう昔懐かしい対決ものの娯楽映画の味わいを損なうことなく、見事に結実したのはたいしたことではなかろうか。

 昔の作品だったら、あんな生々しい戦闘シーンは不可能だし、ヴァシリ(ジュード・ロウ) とターニャ(レイチェル・ワイズ) のセックスを描いたりはしない。しかし、逆に今の作品だからこそ、それらを昔の作品と同じように処理して語ることは、ドラマとしての説得力を欠いていく。様式とリアリズムのバランスの微妙でむずかしい部分だ。

 映画館で聞いた話だが、口コミで意外と往年の映画ファンが訪れているらしい。僕自身も七十代の映画ファンからの見逃す手はない快作だという声を聞いた。それには、二人のセックスシーンの生々しさに対する驚きの声が添えられていて、「ほんまにやりゆうかと思うた」とまで聞いていた。そのわりにはおとなしかったという気がしないでもないが、漏れそうになる声を押し殺している様子に感じ入ったのだと思う。彼らの胸のうちにある、古典的な映画の楽しみを再現させてくれるからこその快作であり、なおかつ、そういう味わいをもたらしてくれる古典的な作品では考えられないような場面があることへの新鮮な驚きだったのだろう。こういうささやかなエピソードが生まれること一つとっても、この作品が価値ある作品だということの証拠ではなかろうか。

 それには、ジャン=ジャック・アノーの監督としての力量もさることながら、対決する二人を演じたジュード・ロウとエド・ハリスの功績が大きい。若きヴァシリとその父親の歳に当たるケーニッヒ、この二人のキャラクターが説得力を持たなかったら、総てが壊れただろう。それにしても、こういうテイストを充分に満たしてくれる娯楽作品が、作られなくなって久しいのではないだろうか。とても残念な気がする。




推薦テクスト :「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei/suta-ring2.html
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_05_21.html
推薦テクスト :「Ressurreccion del Angel」より
http://homepage3.nifty.com/pyonpyon/2001-4-5.htm
推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/rs200104.htm#スターリングラード
推薦テクスト:「とめの気ままなお部屋」より
http://www.cat.zaq.jp/tomekichi/impression/kansous1.html#jump20
by ヤマ

'01. 5.12. 東 宝 2



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