『スイート・シックスティーン』をめぐる往復書簡編集採録 | |
「チネチッタ高知」:お茶屋さん ヤマ(管理人) |
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2003年11月6日 21:06:40 (お茶屋さん) 『スイート・シックスティーン』のシネマノートのなかで、「どういう演出をすれば・・・」と書かれてたので。 ヤマ(管理人) これは、これは。どうもありがとう。早速に拙日誌への返信をもらって喜んでます。 (お茶屋さん) パンフレットで主演のマーティン・コムストンが言っていたことからすると、どうもマイク・リー方式みたいです。 ヤマ(管理人) ってことは、劇中人物になりきるためのディスカッションとかもするのかな? おおよそのシノプシスもらって、人物造形自体はディスカッションのなかで行って、そこで生まれた人物イメージに沿って台詞も作り、具体的な行動や展開も作っていくというスタイルだったよね、確か。 (お茶屋さん) へぇ〜、そうなの。>マイク・リー ケン・ローチは、ディスカッションはしてないみたいな印象ですが。脚本は、すでにしっかりしたのがあるようです。 ヤマ(管理人) そう言えば、予告編でカンヌの脚本賞だとかって流れていたような(笑)。 (お茶屋さん) この脚本家は、グラスゴーでドラッグとか犯罪関係を、ニカラグアでは人権問題を扱っていた元弁護士で、弁護士では現状を変えられないことに憤りを感じで脚本を書き始めたそうで。 ヤマ(管理人) うわぁ〜、すんごく志が高いんだねぇ(感心)。 (お茶屋さん) で、プロデューサーというプロデューサー、監督という監督に手紙を書いたけどなしのつぶて。でも、ある日、ケン・ローチから電話がかかってきて…ということで、『カルラの歌』『マイ・ネーム・イズ・ジョー』『ブレッド&ローズ』『スイート・シックスティーン』『セプテンバー11』と続けて組んでいるそうな。 ヤマ(管理人) 『カルラの歌』と『セプテンバー11』以外は観ているけど、どれもしっかりした作品だよね。観逃しているやつも是非とも観たいものだな〜。 (お茶屋さん) で、マーティン君は、その日毎に自分の台詞だけの台本をもらっていたようです。「度胸試し」や「家が丸焼け」は、その場で初めてわかったとのこと。 ヤマ(管理人) アマチュアを使う場合は、そのほうが鮮度とインパクトがあって、却って演じやすいのかもしれないね。 (お茶屋さん) 次はどうなるのか楽しみでワクワクだったって。ということは順撮りですか…。 ヤマ(管理人) ですね、きっと。 (お茶屋さん) プロの俳優も同じ演出方法と書かれていました。ずーっと前からこの方法だったみたいですね。 ヤマ(管理人) 感情のリアリティにこだわってるからね、彼は。 でも、僕の観たなかでは『大地と自由』と『ブレッド&ローズ』は、それとは違うやり方しているような気がするんだけどな、なぜか(笑)。特に後者は、ね。 (お茶屋さん) う〜ん、監督本人のインタビューによりますと、プロアマ問わず役者の演出は同じだそうで。キャスティングに当たっては、オーディションを入念にやるみたいですよ。長期間にたくさんの人を即興芝居などを通してオーディションするそうです。骨は折れるけど、撮影中のリスクを避けるために重要だって。そりゃそうだ。 このようなインタビューを読むと、いつも同じやり方のように思われました。 ヤマ(管理人) ふ〜ん、そうなのか。ドラマ的な盛り上げ方っていうのが、『大地と自由』や『ブレッド&ローズ』は、他の作品とひと味違って演出的に際立っているような感じがしたんだよね、僕。 (お茶屋さん) おもしろかったのは、脚本家(ポール・ラヴァティ)とは別々のインタビューであろうに、二人とも同じことを話している部分があるんですよ〜。 ケン・ローチのほうは、深刻な題材を扱いならが娯楽性を兼ね備えているが、バランスを保つため心がけていることは?と訊ねられて、「バランスというより事実だね。君たちがリアムのような少年と1日共に過ごしたら、きっと半分は笑っていると思うよ。(略)だからどんなに彼らの困難な状況を訴えたくても、それらの事実をストーリーから抜き取ることは出来ない。もし抜き取ってしまったらそれは誤りになるからね。」と答えています。 ポール・ラヴァティのほうは、ある種の悲劇とも言えるのこの物語で希望を見出せるとしたら何か?と訊ねられて、リアムとシャンテルの関係との答えに続いて「(略)でも正直言って、リアムのような少年たちの物語を描くなら、悲劇は避けられない。ハッピーエンドに終わらせることなんて不可能なんだ。嘘になってしまうからね。(略)」と言っています。 この一致ぶり! 感動した〜(笑)。事実を描く。すごいー。 ヤマ(管理人) 単なる願望や御都合主義的な展開を排除しつつ、希望を掬い取ったり、劇的な展開を構築するのは、やはりとても難しいことだよね。でも、だからこそ、説得力が備わるんだろうな。 (お茶屋さん) ちなみに、マーティン君、撮影当時は演技のえの字も知らない素人だったので、もう自分の素をそのまま出すしかないと思ってやったけど、出来あがったのを見たら、全然自分とは違う人物になっていたので驚いたそうな。おもしろいですね。 ヤマ(管理人) おおー! 演出者の面目というか、さすがですねー、ケン・ローチ。やはり引き出すのが上手いってことなんだろうね。 ところで、「図太いリアム・線の細いピンボール」とお書きの“まぶだち”二人の心境、特にピンボールについて、どんなふうに観てた? (お茶屋さん) ピンボールが「火をつけたのは俺だ」と言ったときの心境は、絶望だと思いましたね〜。それしかないです。あとは言葉になるものは無いなあ。 ヤマ(管理人) そう、まさしく絶望だよ。 んで、その絶望がどういう心境を彼にもたらしてあの台詞になったかってことだけど、ひとつには、やけっぱち的な露悪的心境。次には、ダメージを受けた自分がリアムに更なるダメージを与えるべく発したとの報復的心境。この場合、「殺しやすいように言ってやる」という台詞にはネガティヴな挑発的意味合いが強くなるね。三つ目は、カッと来て火を付けてしまったけど、悔やみ情けない思いに至っていて、自分にホトホト愛想が尽きているという自罰的な絶望による懺悔と懲罰的な心境。 (お茶屋さん) 無理して言葉にするとしたら、「殺しやすいように言ってやる」という台詞があったけど、リアムのためを思って言っているんじゃなくて、殺されるのを待っていた感じかなあ。 ヤマ(管理人) というところからは、僕が想定していたもののなかでは、三つ目の心境が一番近いところにあるものみたいだね。 (お茶屋さん) それは火をつけるときからで、自分は死(殺される)に値することをしているという自覚があったのだと思います。それだけ、彼はリアムにとって家が大切か知っていたということだし…。 ヤマ(管理人) ここんとこは、ちょっと違うね。僕は、自分を置いていったリアムに腹を立てて、カッとなってやってしまったんだろうと思っていたから、火をつけるときから自覚があるとは考えてなかったけどね。 (お茶屋さん) 要するに火をつけたのは、ピンボールの自殺ですね。リアムが自分から離れていくという絶望の果ての自死だと思います(涙)。 ヤマ(管理人) これは同感だね。親友が離れていくとの絶望がとんでもない過ちを自分に引き起こさせたことで、そんな自分に更に絶望を重ねるようなキビシイ体験をしたんだろうね。親友に向かって、あんな自棄的な言葉を発し、自らの頬に刃物をあてさせるような事態に至るほどに、リアムを失うと足場がまるでなくなるような孤独な境遇にあったってことなんだろうね。 (お茶屋さん) あんまり泣かせてくれるなよ、ヤマちゃん。 わたしゃ、ラストシーンのリアムを思い出すたび涙しておるのに、このうえピンボールまで涙の対象になったじゃん。 ヤマ(管理人) あらあら、そいつはイケマセンでしたな(笑)。でも、ああいう作品に接したら、流れ出す涙で素直に心を洗ってみるというのが、本来的に真っ当な作法だろうと思うんだけど、な。 (お茶屋さん) ばいびー(ぐっすん)。 ヤマ(管理人) きっと僕よりも数多く心を洗ってキレイにしているような気がするな、お茶屋さんは(憧)。 |
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by ヤマ(編集採録) |
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