『シティ・オブ・ゴッド』(Cidade De Deus)
監督 フェルナンド・メイレレス


 神に近づくことが只もう人間界から離れることを意味してると解するしかないような、ブラジルのリオデジャネイロ近郊のスラム“神の街”に生きた子供たちを描き、強烈なインパクトと際立つ技巧とで一度観たら記憶から拭い去りがたい印象を植え付ける作品だった。実話に基づいているということだから、遣る方なさにはひとしおのものがある。凶器のレベルを超えた武器が、何故にあれほど簡単に子供たちの手に届き、どっぷりと悪に手を染めることでしか成り上がっていけない貧困と無法が、何故に時代を追って酷さを増していくのだろうか。この悲惨を格別の悲惨とも扱わないで、半ば日常感覚として明るく乾いた筆致で突き付けてくるところにカルチャーショックが生じる。

 60年代末、語り手たるブスカペ(アレシャンドレ・ロドリゲス)の兄マヘクが悪名高き三人組の一員だった頃は、銃は密かに隠し持ち、威すまでで使わないに越したことがない特別なものだった。犯罪も盗みが主で、マヘクは手にした金を弟に託し、一家の生活の足しにするよう言伝るし、リーダーのカベレイラにしても、覇権争いを企てるようなところはない。だが、十年経って、彼ら三人組に追いつき追い越そうとしたリトル・ダイスがリトル・ゼ(レアンドロ・フィルミノ・ダ・オラ)と改名し、十代にして暗黒街のボスとして君臨するようになる頃には、犯罪は組織的になり、盗みよりも麻薬の販売が主になるし、従属の証に子供が子供に子供を射殺することを求めて実行させるような荒廃が蔓延している。イギリス映画の『Sweet Sixteen』にも十五歳の少年が裏社会への登竜門として殺しの肝試しを求められる場面があるが、その度胸のほどを見定めた土壇場のところで制止されていた。しかし、子供らしい過剰さが荒廃となって直走りに進んだ世界では、実行する前の制止という歯止めが効いたりはしない。飢えと貧困の度合いが桁違いで、人間の命の軽さが段違いなのだろうということがあるにしても、一線を越えてしまったときは、むしろ子供のほうに恐ろしい面があるのは、ある種の普遍性を伴った人間の実体でもあるような気がする。

 それにしても、子供たちをこのような地点にまで追いやっているものは、何なのだろう。孤独なリトル・ゼが唯一心を許し、からくも彼の防波堤となっていたベネ(フィリピ・ハーゲンセン)が誤って殺されたことで、歯止めの掛からない荒廃した抗争に激化した状況は、間違いなくリトル・ゼがもたらしたものではあるけれど、ある意味で、必要悪として彼がのさばることを許容した住民だったり、彼を利用して金儲けをしていた警察官だったりもする。しかし、それには極悪非道の一線を軽々と突き抜けた彼のパーソナリティが大きくものを言っているわけで、同時にそこには相互に補強し合う強固な負の関係性が認められもする。確かに一般的にもそれはそういうものなのだ。

 だが、それでも僕は、この作品が幼少時からのリトル・ダイスの悪魔性について、それをやや強調し過ぎていたように感じた。そうは言いながら僕も、人間が幼時から悪の権化たり得ることが決して絵空事ではないと思っているし、効率的な金品強奪作戦として、貧しくはない連中がすっ裸の無防備な状態で金を持っているはずの盛り時に連れ込み宿を襲撃するという計画を立てるのは、確かに十歳に満たない年端もいかぬ少年の考えることではないとも思う。天性の悪党呼ばわりされるのも道理だ。しかし、あのときリトル・ダイスが銃を所持してなくて、そして、無邪気とも言える無頓着さで、明らかに興味本位の面白がるような笑みを浮かべての大量殺人をあの歳で経験することがなかったなら、ベネを失うことであれほどに心乱れる孤独な魂が“リオ最強のワル”へと直走り得ただろうかと疑ってみたくなる。悪童であること以上に、年端もいかない時期に銃を手にし得る状況のほうが、より罪深いように思えるのは、僕の認識の甘さだろうか。仮にそうだとしても、それでも僕は、あのリトル・ダイスの幼時の大量殺人について、それを衝撃的に描くのみならず、あれが彼の人生において最も不幸な出来事だったことを明示する視線がこの作品に備わっていてほしかったと思う。

 結局のところ、セヌーラ(マテウス・ナッチェルガリ)との覇権抗争のなかで無法青年リトル・ゼの命を奪ったのは、大人になってから復讐のために悪への一線を越えたマネではなく、縄張り争いをする彼らが手軽に銃器を与えた少年集団だったし、リトル・ゼたちが武装することで利得を得ながらも手も焼いていたのは、腐敗した警察官たちであった。武器を供給し、子供に手を汚させ、利用していたつもりの者がとんでもないしっぺ返しを食らう図には、相も変わらぬアメリカの有様を想起させるところがあるのだが、強者の自己過信には、懲りない愚かさが普遍的に宿るものなんだろうとも思う。いや、強者の過信と言うよりも、相通じるところの“ならず者イデオロギー”と命名するのが相応しいようなものがもたらしたことだろうという気がする。観ている最中も、観終えてからも、どこか澱の残るような気分の悪さがあったのは、その破滅的な暴力を否定も肯定もする余地のない前提として奮闘して生きていた子供たちの姿に“ならず者イデオロギー”が思想として胚胎せざるを得ない状況が観て取れて、その苛酷さが身に泌みたからかもしれない。悲惨げに描かれずに、当たり前のことのように描かれている分、遣る方なさが募ったのだろう。


推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://homepage3.nifty.com/filmplanet/recordC02.htm#cidadededeus
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0310-4obaa.html#cityofgod
推薦テクスト:「This Side of Paradise」より
http://junk247.fc2web.com/cinemas/review/reviews.html#cidadededeus
推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://home.netvigator.com/~kaorii/eu/cityofgo.htm
推薦テクスト:「THE ミシェル WEB」より
http://www5b.biglobe.ne.jp/~T-M-W/moviecityofgod.htm
推薦テクスト:「銀の人魚の海へ」より
http://www2.ocn.ne.jp/~mermaid/sleepless.html#シティオブゴッド
推薦テクスト:「多足の思考回路」より
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/diary-cidadededeus.html
by ヤマ

'03.10.21. 美術館ホール



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