『さらば、わが愛~覇王別姫』(Farewell To My Concubine)
監督 陳凱歌


 今、文芸や絵画の世界でも物語性の復権ということが、時代のテーマになっているという気がしているが、『覇王別姫』は、映画における物語性の復権を見事に提示した作品だと言えるのではなかろうか。しかし、勿論のことながら、ここに提示されている物語性は、かつてのような筋の展開によって語るドラマツルギーなどによるものではなく、カメラが捉え、映像によって語る人物の関係性そのものが持つ物語性を自らのドラマツルギーとしている。

 そのことは、顕著には、段小樓を挟んで繰り広げられる程蝶衣と菊仙の三角関係のスリリングなバランスのなかに窺えるが、そのうえに、もう一つ新たな三角形として段小樓を巡る程蝶衣と小四の関係を重ね、物語性に深みと厚みをもたせてなお、焦点の散漫さに陥ったりしないところは、流石だという気がする。例えば、この作品のハイライトの一つでもある、文化大革命で晒しものにされて自己総括を強要される場面において、最も重要なものは、文革の凄じさなどではなく、覇王段小樓を取り巻く四人の人物のなかにおいて彼のカリスマが失墜する際の関係性の作用の仕方とそれによる二つの三角形の破綻の仕方ではなかっただろうか。その描写に深い物語性をはらませるうえで重要な役割を果たしていたのは、場面での個々の科白とかそれまでに語られたエピソードとかではなく、例えば、段が独白する直前に挿入されるカットにおける小四の表情であるとかいった、演出とカットの構成であるし、あるいは、それまでに映し出された、頭で煉瓦を割ろうとする段の姿の幾通りかの映像そのものといったものなのである。

 このような手法によって綴られる物語性であるが故に、筋の展開に負ったものだとその密度に直ちに致命的な空白感をもたらす恐れのある時間の飛躍といったことが、物語性の緊密さに水を差すといったことが全く起こらない。逆に言えば、清朝末から日本統治時代、日中戦争、国民党政府時代、共産党政権樹立、文化大革命とその時々のエポックを背景に、大胆な時間構成で飛躍を重ねていくのにもかかわらず、粗筋的な印象は微塵も与えないことが、この作品において復権の提示をなされた物語性が、筋の展開によって語られるという性質のものではないことを証明しているのである。

 しかしながら、この圧倒的とも言えるある種の映画芸術の到達点に位置する作品を前にしつつも、スパークされるような衝撃が観ていて生じなかったのは何故なのだろう。観終えてから振り返れば、賞賛すべきところばかりが想起されながら、そして、そのどれもが只ならぬものであればこそ、改めてそれが観ている時に衝撃的に感じ取られなかったことが不思議でしようがなかった。

 しばらく考えてみて、もしかするとこれは、こういうことではなかったかと思い当るイメージが浮かんできた。純粋にイメージとしての言葉であって、直接的な制作費や才能の大きさとかを言っているのではないのだが、例えば、キアロスタミの友だちのうちはどこ?が百万円で一千万の仕事をしたような映画だとするならば、陳凱歌の『覇王別姫』は、一億円で一億二千万の仕事をしたような映画だという気がする。仕事の出来高で言えば、九百万は、二千万に比べるべくもないのだが、10倍と1.2倍とでは、やはり10倍のインパクトというのは衝撃的なものがある。無論これは、どちらがより優れているといった議論をするためのものではない。一億円という莫大な原資を破綻なくハンドリングして確実に利益をあげることも大変なことではあるからだ。しかし、好みといったことで言えば、僕は、やはりキアロスタミのような仕事に惹かれる。

 とはいえ、『覇王別姫』がきわめて優れた作品であることは、論を待たない。少年期を描いた前半の持っている時間のリズムと青年期以降の時間のリズムとを一つの作品のなかで構成しようとするような冒険を試みて、むしろ効果として成功させるような芸当が余人にもできるとは、ほとんど思えない。やはり端倪すべからざる作家なのであろう。
by ヤマ

'95. 1.12. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>