『活きる』(活着)
監督 チャン・イーモウ


 インタ−ネット上の映画サイトで、夫馬さんという方の個人サイトである『Day For Night』は、僕のお気に入りサイトの一つなのだが、そこに書かれている張藝謀と陳凱歌の作品の相関についての文章を読んで以来、僕はそのフィルター抜きに彼らの作品を観ることができなくなっている。この '94年のカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞しながら、なぜか今に至るまで日本に入ってこなかった『活きる』という作品を観ると、やはり前年 '93年の陳凱歌作品で、カンヌ映画祭のパルム・ド−ルに輝いた『さらば、わが愛/覇王別姫』を想起しないではいられない。
 『覇王別姫』は、張藝謀との黄金コンビで売れていた鞏俐を陳凱歌が初めて起用してカンヌの最高賞を獲得した作品だったわけだが、『活きる』で批評家連盟賞を受賞し、世界の三大映画祭を制したと後に言われることになった張藝謀も、パルム・ドールについては、陳凱歌に後れをとっていることになる。『黄色い大地』『大閲兵』という中国の映画史に燦然と輝く名作の監督とカメラマンとしてキャリアを築き始めた二人の作品に相関性があるという夫馬さんの指摘は、まさしくそのとおりだと今回『活きる』を観て、改めて思った。
 というのも、『紅いコーリャン』でベルリンのグランプリを獲得し、『菊豆』『紅夢』と続けて鮮烈な色彩感覚と視覚的ダイナミズムを重視して、造形的な作品を撮ってきた張藝謀が、『秋菊の物語』でドキュメンタリー的なリアリズムに転じてベネチアのグランプリを受賞して後、カンヌに出品したこの作品に、前年パルム・ドールを受賞した陳凱歌の『覇王別姫』との共通性があまりにも色濃かったためだ。この作品で張藝謀は、『秋菊の物語』に続いて再度、その作風を変えたと言われたらしいのだが、僕は『秋菊の物語』については、『あの子を探して』の映画日誌にも綴ったように、むしろ、映像のスタイルが変わっても、造形が変化しない人物像に作家的一貫性を受け取っていた。それは「いずれも凄まじいばかりの思い込みとそれがそのまま意志の強靭さに結実したような人物たちのドラマ」であるという点においてのものだった。ところが『活きる』に描かれた人物像にはそういう強烈な個性は窺えない。むしろ、あざなえる禍福のごとき人生に翻弄されつつ、ゆるやかに生の足取りを確かめていく家族の物語のなかに、無常感を漂わせながらも、生きることの貴さを人間という存在への肯定感とともに描き出しているといった印象なのだ。大河的な時間の流れを捉えつつ、十年毎の大胆な時間の飛躍を遂げながら、物語性の緊密さにいささかも水を差すことがない語り口の見事さは、『覇王別姫』とも同じだ。そして、文化大革命の時代に否定された芸事として、『覇王別姫』が京劇を軸にしたドラマ構成がされていたことに対応するかのように、『活きる』では皮影劇が取り上げられている。
 そんななかで、夭逝した長男に嘗て語った言葉遊びと同じフレーズを娘の遺児に繰り返しながら、牛の後に続く最後の大きな成長の希望として「共産主義」という言葉をもはや継げなくなっている福貴(グォ・ヨウ)の姿をもってラストシーンとしたところに、 '89年の天安門事件以降、反動化を強めつつあった中国当局に対する密かな反骨を観たような気がした。国民軍であれ共産軍であれ、走資派であれ紅衛兵であれ、個人としての悪役を一切登場させず、教条主義的な硬直した作品になることを断固として拒否したうえでの反骨であるところに、ことさら心惹かれ、また感心をした。そして、『覇王別姫』の派手さや華やかさを敢えて排してあるところに、張藝謀の面目を感じたりもした。

推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0208-3mulholland.html
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2002/2002_03_11.html
推薦テクスト:「Happy ?」より
http://plaza.rakuten.co.jp/mirai/diary/200302090000/
by ヤマ

'02. 9. 2. 松竹ピカデリー3



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