『あの子を探して』(一個都不能少)


 こういう物語世界は、昔の日本映画にもきっとあっただろうなと思いながら、こんなふうに先の見通しもなく一途に懸命に向かう姿勢というものが、今の日本人にはまるで似つかわしくなくなっていることに心中穏やかならざるものを覚える。それと同時に、ユーモアとスマートさを好むハリウッド映画で見慣れた、聡明で大人びた子供のキャラクターとは対極にある、愚直で余裕のない少女ウェイ・ミンジ(本人)の姿は、キアロスタミ監督の友だちのうちはどこを思い出すまでもなく、いかにもアジア的なリアリティがあると思う。だが、昔の日本映画だったら、ミンジのように強引に我を張り通す形ではなく、より憐憫の情を誘う形での健気さが前面に出てくるような気がした。

 一途さの証とはいえ、勝手に煉瓦を運んでおいて、それが却って迷惑なことだったと判明しても、働いたのだから賃金をよこせと主張して、いささかも怯むところがなかったり、ホエクー少年(本人)を見失った同郷の出稼ぎ仲間の少女に仕事を休ませ、強引に一緒に探させるばかりか、金を支払う約束を素直に守ろうとはしない。TV局の門前にてほとんど座り込みに等しい形で待ち続け、局長の目にとまる成果を得たのはいいけれど、ある意味で受付の女性職員は、とんだとばっちりを食った形になった。このほとんど身勝手というしかない強引さを前にしては、憐憫よりも呆気にとられる部分が強かったというのが正直なところだ。けれども、この強さと逞しさこそが、いかにも中国的だと思うし、チャン・イーモウにもふさわしい。

 彼の映画の登場人物たちは、これまでに観た紅いコーリャンにしても『菊豆』『秋菊の物語』にしても、いずれも凄まじいばかりの思い込みとそれがそのまま意志の強靭さに結実したような人物たちのドラマだった。『あの子を探して』はスタイル的には『秋菊の物語』の子供版とも言える。『秋菊の物語』も、一念に捉われた女性が破天荒な行動で何とかして自らの意志を通すべく、まるで成算もないのに辺境の村から都会の街にまで出てきて、壮絶な苦労をしながら断じて諦めることなくエネルギッシュに立ち向かい続ける物語だ。しかし、『秋菊の物語』には秋菊の強引で破天荒な行動がいかなる結末に至るか予断を許さぬスリリングさがあって、その破天荒ぶりが危うさをも感じさせる緊張感を孕んでいたから、迫力となって観る側を圧倒していた。だが、ミンジの場合は、最終的には報われることが約束されている感じがいかにも漂っていて、秋菊のときのようなスリリングさがない。そのために、同じように憐憫よりも呆気にとられる部分が強いと妙に気に障ってしまい、一途な懸命さを伝える迫力を期せずして削いでいたような気がする。

 チャン・イーモウの最大の魅力が圧倒的な力強さであることは、第一作の『紅いコーリャン』からこれまで一貫していた。強烈な色彩感覚でもって、素朴さとは正反対の非常に洗練されたシンプルさという表現者として突出した才能を印象づけた彼が、『秋菊の物語』で色彩と洗練を捨てドキュメンタリー・タッチの作風に転じつつも一貫していた力強さが失われたようで、残念な気がする。直線的なシンプルさや強靭な意志と思い込みを体現する人物像だけが残っても、これだけ衰えたパワーに対して、円熟などといった賛辞を与えたりはしたくない。チャン・イーモウの作品に予定調和的な先行きが漂ってしまうなんて、およそ似つかわしくないと思うのだ。




推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2000/2000_08_14_2.html

推薦テクスト:「たどぴょんのおすすめ映画ー♪」より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4787/e/g440.html
by ヤマ

'00.10. 5. 県民文化ホール・グリーン



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