『紅いコーリャン』(紅高粱)
監督 張 芸謀


 赤い色を見たことがない人に赤の色合いについて言葉で説明するのが不可能であるように、この作品の最も強烈な部分を言葉で表現するのは、非常に困難な作業である。しかも作品そのものが、多くは語らずに強く語るというスタイルを採っている以上、核心を避け、周縁に言及することでお茶を濁すという余地にも乏しい。実際、これほどに簡にして明で、そのうえ圧倒的な力強さで押し切ってこられると、ただもう息を飲むしかない。しかし、この作品の持つ力強さは、只の力強さではない。その違いは、力強さのアナロジーとして最も一般的な、いわゆる素朴さと決然と区別されている点にある。ストーリー、展開、装置、登場人物、そのいずれもが、この作品が採った民間伝誦という形にふさわしく、極めてシンプルである。しかし、それは、素朴さとは正反対の非常に洗練されたシンプルさなのである。洗練された美を持ちながら、なおかつ力強いというのは、表現として稀有のものであり、その点が近年著しく評価を高めている一連の中国映画のなかでも、この作品が一際高く評価されている所以であろう。

 それにしても、この作品に込められているメッセージの日本にとっての厳しさはどうだろう。彼らがこうして語り継いでいる歴史の記録に比べて、加害者としての日本における風化状況を思う時、その余りのギャップに懸念を抱く者は決して少数ではないはずである。にもかかわらず、日増しに進みつつある風化に対して異義の申し立てをしている勢力の国内における微力さは、何とも言えない苛立ちを覚えさせる。この作品を前にして、歴史的事実に対し、詭弁を弄して事実の歪曲を企てている現体制におけるエスタブリッシュメントたちは、人間として卑しいという外ない。それに比べて、この厳しい歴史の記録を伝えるうえで、これほどに洗練された美しさと力強さをもって語ることのできる中国民族の文化水準の高さは、日本の圧倒的な経済的優位をもってしても到底埋めることのできない性質のものだと言わざるを得ない。そのことは、作品の持つ直接的なメッセージ以上に私には衝撃的な事実であった。

by ヤマ

'90. 2. 7. 松竹ピカデリー



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