『ディル・セ 心から』(Dil Se)
監督 マニ・ラトナム


 一昨年、ボンベイを観たときに、「ドキュメントなリアリティとドラマチックなファンタジーとが木に竹を継ぐような形で調和を求めずに混在していて、そのことが破綻や違和感に繋がらずにダイナミズムとして結実した」奇跡の語り口にすっかり驚かされたことを日誌にも綴ったものだった。だが、今回の作品では、更にパワーアップして圧倒的なスケールとインパクトで迫ってきて、完全に打ちのめされてしまった。世の中には、まだまだ凄い作品が生まれ続けているのだなと強い感銘を受けた。少なからずの映画を観てはきていても、僕の想像の域を越えるような傑出した作品は、本当にいくらでもあるんだと改めて思う。

 とりわけ世界の耳目がかつてないほどにテロリズムに注がれている今の時期に観たことも意義深いことであったが、マニ・ラトナム監督が母語としてのタミル語に拠らない初のヒンディー語作品を撮って、それを自分たちの言葉とするインド中央政府の辺境州支配の圧政ぶりと腐敗を糾弾しつつ、テロリズム自体は否定しながらも、そこに向かわざるを得ないでいる虐げられた人々の思いを掬い取っている姿には、名状しがたい感動を覚えた。統制がとれていないことの証として讃えるべきことかもしれないが、よくぞこういう作品が製作公開されるに到るものだ。

 主人公である国営ラジオ局に勤める公務員アマル(シャー・ルク・カーン)がインド北東部の辺境州でインド独立五十周年についての街頭インタビューをおこなうが、「中央政府は独立時の約束を守らず、有権者数の少ない辺境州をないがしろにして、搾取する暴政を続けてきた。独立や自由は絵空事だ。」といった声が生々しく寄せられ、有権者数の少ない辺境州を中央政府は省みないという意見が、いくつかのバリエーションによって何度か繰り返される。我が国でも近年、財政構造改革と地方分権の背景に都市住民と地方住民を分断するような仕掛けに満ちた言論が跋扈しているから、けっして他人事ではない。

 もっとも、インドの格差は、日本と比べるべくもないほど大きい。村の郵便局にしか電話がなく、電気や水道設備さえ整備されていない辺境と都市化され、携帯電話も敷かれている首都デリーの姿が示す経済格差に加えて、民族や言語、宗教の違いがその対立を深めている点が日本よりも遥かに深刻だ。辺境州の独立運動を武力制圧しようとすることへの対抗手段としてテロリズムが発生し、それに対抗する軍隊の介入がただの村人を含めた一斉虐殺に繋がることでテロリストの拡大再生産を招いている構図は、今、世界中を騒がせている問題と全く重なる図式であって、それが一国内で五十年にわたって展開されてきているわけだ。それらを並々ならぬドキュメントなリアリティで描出している。

 しかし、驚くべきは、この作品がそういう問題意識を前面に押し出しながらも、基本軸としては、交わり得ぬ平行線上に生まれた二人の若い男女の出逢いによる悲恋物語として、インド娯楽映画にお約束事の歌と踊りのミュージカル・シーンとともに卓抜した技量で過剰なまでに目を奪う鮮やかさで造形されていることだ。そのもたらすスケール感は比類なきものと言うほかない。歌と踊りの見事さが半端なものではなく、ことにメグナ(マニーシャー・コイララ) のドラマ部分における自己を閉ざした謎と深い翳りを湛えた風情とミュージカル・シーンにおける明るく官能的に身をくねらせる踊り、なかんずく腰の動きと表情の魅力が圧巻で、両者のギャップのもたらす眩惑は、マニーシャー・コイララのドラマ部分でのノーメイクとミュージカル部分での艶やかさの好対照がそのまま、この政治的矛盾に翻弄されることのない状況に生まれさえすれば、あり得たかもしれないメグナのもうひとつの人生をも窺わせて、後から思い起こすと、ときめきつつも胸が傷む。また、メグナの踊る北東部の荒涼とした山岳地帯や雪景色とプリティ(プリーティー・ジンター) の踊る南海のイメージでもって、インドという国の国土の広さと民族の多様さを十二分に指し示してもいる。見事なものだ。とりわけ“チャイヤ・チャイヤ愛の影”の走る列車の上での群舞シーンの設計と撮影、“七色の影”の荒野やラマ教寺院でのデュエットの踊りの造形と衣装は、素晴らしい。

 国際映画祭バージョンとして、このミュージカル・シーンを割愛したものが上映されたりもしたようだが、そんな小細工で小さくまとめてしまうとこの作品の持ち味であるスケール感が損なわれるのではなかろうか。木に竹を継いだようにも見えながら、この徹底したシリアスとファンタジーの混在によって有無を言わさぬスケール感が生まれているはずなのだ。このイメージの飛躍は、インド娯楽映画のお約束事を越えて、この作品の魅力に大きく貢献している。

 ミュージカル・シーンの挿入に限らぬ見慣れた映画話法からの逸脱が随所にある一方で、巧みな伏線描写が抜かりなくされていたりもする。メグナがアマルの妻と偽って辛くも軍の検問を逃れ、ラダックの町を離れた後、荒野でアマルに強引にキスされて、心情的には拒んでいなかったはずなのに、嘔吐反応を見せたり、泉の側で再び強引にアマルに抱き寄せられると、自身の内に湧き起こる混乱した強い感情に見舞われて大きく口を開けたまま声にならない悲鳴をあげ、もがき苦しむ。そのさまは、後に彼女が八歳のとき、村を襲撃した軍の兵士によって両親を殺され、姉ともどもレイプされたことが明らかになると、深いPTSDだったことが判る。だからこそ終盤での「こんな人生を誰が好き好んで…」とアマルに訴えるテロリストの心情としての彼女の言葉の悲痛さに比類のない力が宿るのであり、観ていて震えがきた。

 しかし、最も痛烈だったのは、作り手がテロリストであるメグナを、一番好きなものが“母さんの手”で、二番目が“村のお寺の鳩”、三番目が“詩”という女性として描いていたり、事前に捕らえられ自決する同志ケン(ケン・フィリップ)を、徒然に尺八のような楽器を奏で、チューバ曲の楽譜を肌身放さぬ音楽好きとして描いていることよりも、裕福な大家族に生まれた主人公のアマルを芯から善良な男として描いていることだ。彼がメグナに「大嫌いで大好きなものは、僕たち二人の間の隔たりだ、それがなければ、近づく口実がない」などと囁く物語中盤に、メグナがアマルに対して「嫌いなものは、あなたがそばにいること、あなたの幸福そうな笑顔、情熱的で明るい性格」と言い、アマルから「本当は羨ましいんだろ?」と言われ、いつになく素直に「ええ」と言った場面が、終盤でのメグナの悲痛な告白の場面で効いてくる。

 直接的な台詞として表現されたものではなかったが、「あなたが善良であれるのは、この社会の悲惨に無自覚でいられるからよ」と言っているように感じられた。これは観ている僕にとっては、中央政府への糾弾やテロリストへの心情理解を促す表現よりも数段強烈なもので、いささか応えた。だが、アマルの家でメグナが同志のミータ(ミーター・ワシシュト)にテロ行為への疑問を思わず吐露したのはアマル一家の善意に触れたからでもある。とどまらせるだけの力はなく、テロリストとしての誓いの言葉の反復を誘っただけではあったが…。

 圧巻だったのは、メグナの悲痛な告白の後、激しい口論の末、思わぬ展開で引き離されてからのアマルの熱情だ。愛する女にテロ行為をさせたくないという思いのたけを実際の行動として、超人的な執念で困難をくぐり抜け、身を呈して立ちはだかる。末端の実行部隊として自爆を覚悟したテロリストの悲痛な決心を制するには、処罰や報復など何の力もなく、アマル一家で触れたくらいの善意でも及ばず、アマルが最後に捧げたくらいの強い愛の力しか拮抗し得ないことに大きな溜め息を禁じ得なかった。この作品を今、アメリカで上映したら、どういう反響を呼ぶのだろうか。




推薦テクスト:「ユーリズモ」より
http://yuurismo.iza-yoi.net/hobby/bolly/DS.html
by ヤマ

'01.10. 6. 県立美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>