『耳に残るは君の歌声』(The Man Who Cried)
監督 サリー・ポッター


 近頃は、贅沢というか飽食というか、善くも悪くも、やたらと過剰な映画を観ることに馴らされているからだろう、こんなふうに全く贅肉のない引き締まった作品を観ると、自分の映画に対する感覚が浄化されるようで、すこぶる気持ちがいい。八年前にオルランドを観たときのように、限界まで削ぎ落としたようなギリギリのバランスのもたらすインパクトというよりは、もっと風格と余裕を感じさせる無駄のなさを印象深く残してくれた。

 おそらくそれは、ギリギリのバランスではなく、申し分のないバランスのもたらしてくれるものだ。邦題にもなっているビゼーの歌曲“耳に残るは君の歌声”が本当に耳に残ってしまうことに代表される、全編通じての音楽の見事さを特筆してしまうと、そのことが不釣合いになるくらい、キャストがうまく生かされていて、どの登場人物も際立った存在感を残してくれる。植物の緑、馬の白、口紅の赤がやけに鮮やかだった映像も素晴らしい。そして、1927年から世界大戦を挟んで、おそらくは二十年にも及び、ロシア、イギリス、フランス、アメリカと世界にまたがった大きな物語をよくぞこれだけのシークエンスに切り詰めたものだと感心させられる脚本で、台詞の少なさにも驚かされる。終盤で登場する暗い海での、波と炎に翻弄されるスージー(クリスティーナ・リッチ) の姿が映画の冒頭シーンだったのは、そのさまが、まさしく彼女の人生そのものを示していたからだろう。そういった形で後からさまざまなことが思い起こされるように、単に無駄がないだけではなく、絞り込まれたシークエンスを引き締め、100分以内に収めたうえで、想像力を触発してくれる編集も見事だ。だからこそ、全く粗筋めいた空疎さを感じさせずに、それどころか『オルランド』では感じさせてくれなかったような、濃密な情感を宿らせていたのだと思う。音楽や映像、編集や演技といった他の要素の充実とバランスのよさが、脚本で切り詰めた部分を補って余りあることで、はじめて獲得されたものなのだろう。近頃は、刺激過剰の長尺作品がやたらと目につくだけに、めっぽう新鮮だった。

 原題は「泣いた男」だ。そして、二人の男が泣いていた。チェーザー(ジョニー・デップ)は、スージーとのおそらくは二度と会えない覚悟の別れに泣き、父(オレグ・ヤンコフスキー) は、死んだと思っていた娘フィゲレ[スージー]との思いがけない再会に病床で喜びの涙を滲ませた。幼いときから一貫して、気丈で真っすぐな生き方をしてきたことが全身から窺われるスージーを体現していたクリスティーナ・リッチが見事だ。今までの彼女には観たことがないほどの美しさと深みを湛えた面立ちに目を奪われたり、いかにもタフで力強い肢体に、生きることの根っこの力を感じさせられたりしていた。

 スージーの放つ強い光が、ジプシーのチェーザーに誇りを与え、家族を捨てた結果になった移民の父の長年の苦渋にくつろぎを与えたのだと思う。また、幼時のフィゲレを演じたクローディア・ランダー=デュークとは、面立ちに相通じるところがあって、演者が代わったことに全く違和感がなかったことにも驚いた。そして、タイプの異なる靭さを体現しつつ、したたかに生きることを求められる境遇にあって、スージーと同様に世渡りに汚れぬ魂を保ち得たローラ(ケイト・ブランシェット) の人物像も魅力的だった。しかし、それらも多分、チェーザーや父がそうであったように、スージーの放つ強い光に翳されてもたらされたものだったような気がする。

 波乱に富んだ、厳しい人生が描かれ続けた作品なのに、観終えたときに、なんだか不思議なくらいに、生きる力と喜びというものを湧き起こしてくれたような気がして、少々ときめいた。その感じは、言葉が少なく、歌や音楽がうまく生かされた映画でないと得られない、独特のものだったという気がする。総合芸術とも呼ばれる“映画”の面目躍如たるものを感じた。たいした作品だ。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2002micinemaindex.html#anchor000729

by ヤマ

'02. 5.22. 県民文化ホール・グリーン



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