『こころの湯』(洗澡[Shower])
監督 チャン・ヤン(張揚)


 98年9月にNHKのETV特集で、映画監督の黒木和雄氏が改革開放路線で急激な変化に晒されている中国を訪ねた『現代中国 アートの旅』という番組を観た。映画に留まらず、画家や詩人、写真家、演劇人にもインタビューする二回のシリーズだったが、普通の人々の目線で、普通の人々の生活を捉え、描こうとする動きに監督が関心を寄せていることに納得しつつ、僕も興味を覚えた記憶がある。映画に限らず総てのジャンルでほぼ同時多発的に顕著な傾向として窺えるという報告がされていた。  僕が観た映画では、『離婚のあとに』('96) や『榕樹の丘へ』('97) がそういった作品だったし、去年観た『初恋のきた道』('00) や『山の郵便配達』('99) も、歴史の波や芸人の世界、政治や社会に翻弄され、激しく劇的な生き様を見せる人物の骨太いドラマといった中国映画のイメージからは程遠いささやかな人生を描いていた。チャン・ヤン監督の初監督作品『スパイシー・ラブスープ』('98) もまた普通の人々のさまざまな愛と結婚の物語だ。この『こころの湯』('99) もそういう流れの延長上にある作品だが、そういう観点からは、最早さして目新しくもなく、少々緩みも感じられるホームドラマ的な人情物語だ。知的障害者の弟に課せられた物語上の役割など「やれやれまたか」という領域を突き抜けたものではない。いっそとことん類型的な黄金律に身を委ねていれば、それはそれで堂々たるものにもなるのだが、そうはなっていない。想像も及ばないくらい水が希少価値であった辺境の村の出身者である亡き母のエピソードを盛り込み、その描き方が黄金律を逸脱しているために、妙に全体的な軸がぶれてしまっているような印象を残す。
 しかし、その逸脱を最も顕著な形で印象づけられたのは、冒頭の都会でのカード式全自動シャワー個室の登場するSF的な場面だった。いまどき小学生の描く近未来図にも気恥ずかしくて登場しそうにない、自動洗車機を人間用に置き換えた安直な発想なのだが、すたりゆく銭湯で、客がせわしい都会に思いを馳せながら、こういう銭湯なら当たるんじゃないかなどと言ってる他愛ない話として出てくる。
 実は、前記のETV特集で黒木監督が、中国のアートが大きく劇的な物語を語ることから、普通の人々に目線を下げ始めたことを画期的としていたのを観て、それは勿論そうなのだが、最も画期的なのは中国映画が近未来映画を作るようになったときのほうではないだろうかと思った記憶が僕にはある。自分が観たことがないからといって存在していないと考えるのは甚だ不遜なことながら、僕は、中国には近未来映画というのは存在していないのではないかと密かに思っている。偏見かもしれないが、社会の未来像を描くことが許されていないのではないかという気がする。それは国家にのみ許されることであって、芸術や娯楽の表現といった場で許されるものではないとされている気がしてならない。個人が社会を語る自由を認めるのは、国家体制の根幹に関わることだと思うのだ。
 だから、この作品を観たときには全く意表を突かれた。正確には、近未来像としてではなく、浮き世風呂ふうの馬鹿話としてしか登場していないのだが、それでも充分衝撃的だった。少なくとも僕は中国映画で、こんなふうな映像を観たことがなかったからだ。実際のところ、そこにどれほどの意図があるのかは全く解らないし、たまたま僕が知らなかったというだけで、とんだ見当違いなのかもしれない。だが、この一点においてのみ、この作品は僕の記憶に残る映画となったようだ。

推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://homepage3.nifty.com/filmplanet/recordS.htm#shower
by ヤマ

'02. 2.27. 県民文化ホール・グリーン



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