『初恋のきた道』(我的父親母親)
監督 チャン・イーモウ


 『魅せられて』のリブ・タイラーにベルトルッチがそうであったように、またトリコロール/赤の愛のイレーヌ・ジャコブにキェシロフスキがそうであったように、この作品でのチャン・イーモウのチャン・ツィイーへの惑溺ぶりは、気恥ずかしさを通り越して、羨ましくすらある。それほどにチャン・ツィイーの魅力が際立っていた。清廉で伸びやかな笑顔、すねた仕種、懸命さを浮かべた表情、静かに零す涙、そしてコロコロと駆ける姿の愛くるしさ。スクリーンに映し出される彼女の姿に、うつけたようにみとれていた。

 チャン・イーモウの意図もそれがすべてであるかのように、物語上の場の時間の流れさえ無視して、まるでプロモのように、同じ時間を繰り返してまで、ひたすらチャン・ツィイーを見せることに終始している。彼女が登場し得ない時間は色彩さえも失っているのだ。しかし、それが難と言うよりも、羨ましく見えるほどに、彼女の存在感は圧倒的だ。

 『赤の愛』でイレーヌ・ジャコブ扮するバランティーヌが盗聴趣味の退官老判事に心惹かれる展開には、いくら彼女が老判事との関わりで、人生とは何か、生きることの真実は何処にあるのかといったことに対して苦悩とともに生きている人間と初めて出会ったような描写がされてはいても、それだけで若い女学生の心が動いたとするのには無理がありながら、老判事にキェシロフスキ自身が投影されていることが露骨に窺えるほどのイレーヌへの惑溺ぶりに、もはや納得するしかなかったことが思い起こされる。

 この映画でもディ(チャン・ツィイー)の青年教師に寄せる思いの熱さは、彼の好感度だけでは了承し難いバランスの悪さがあるのだが、その青年教師にチャン・イーモウ自身が投影されていることが露骨に窺える惑溺ぶりを晒しているのだから、納得せざるを得ない。だけれど、『赤の愛』を観たときにも思ったのだが、観る側をこういう形で納得させるというのは、なんだか反則技ではないかという気がする。『七年目の浮気』やら『バス停留所』でのマリリン・モンローも飛び抜けて魅力的だったけれど、ビリー・ワイルダーやジョシュア・ローガンは、そんな映画づくりはしていなかったように思う。

 映画の骨の部分がそんなふうに見えてしまうと、物語本体は二の次、三の次という気にもなってはくるのだが、さすがに当代の巨匠だけあって、キェシロフスキがそうであったように、ただの私映画には留まってはいない。相も変わらぬ頑固に一途な思いを持ち続ける人物像を描きながら、前作あの子を探してよりは感銘を与える作品に仕上げているからたいしたものだ。それは、ディの頑固で一途な思いの動機が、『あの子を探して』のミンジの“金”よりは遥かに普遍的に共感を得やすい“愛”だったからだろうし、四十年という歳月の加わった重みもある。日常生活に退色させられることなく、時を経て今なお鮮やかであり続けることの力に打たれるわけだ。

 しかし、あれだけの恋愛を生涯にわたって貫徹した「我が父親母親」を持ってしまい、しかもその思いの丈を充分すぎるほどに伝えられてしまった息子がおいそれと結婚もできないでいるのは無理からぬ話で、気の毒ではある。父の前に突如登場した母のような女性が彼の前に現れ、向かってくるなどということが、そうそうあろうはずがない。親子二代にわたって、そんなおいしい話に恵まれるほど、人生は甘くないとしたものだなどとひねくれていた。それくらいチャン・ツィイーが観ていて眩しかったということだろう。




推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_01_22.html

推薦テクスト:「シネマ・サルベージ」より
http://www.ceres.dti.ne.jp/~kwgch/kanso_2001.html#hatsukoi
by ヤマ

'01. 3.30. 松竹ピカデリー3



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>