『ハリー・ポッターと賢者の石』(Harry Potter And The Philosopher's Stone)
監督 クリス・コロンバス


 映画を観て少しして、高校生の次男がカノジョから借りてきていた原作を読んだ。映画を観たときは、その見事な画面造形に楽しく目を奪われ、二時間半もの長尺をいささかも長いと思わず楽しみつつも、いかに両親が英雄的行為で生命を落とし、赤ん坊ながらに奇跡的な生還を遂げたからといって、親の威光で特別扱いされているように思えて少々気になったものだった。

 伝統的な貴族趣味を今に残す階級社会イギリスというのは未だに健在で、たいして違和感もなく受け入れられるのかもしれないと思ったりしながらも、全寮制において一年間かけて寮対抗で競わせるなかで、何かと言うと「何十点減点~!」と叫ぶ先生やどうみても依怙贔屓のようにしか感じられない最後の逆転劇でめでたしめでたしとなる顛末は、妙にいただけない気がした。

 原作を読んで先ず驚いたのは、マグルに育てられるなかで、ハリ-が映画で観た以上に手ひどく虐げられていたことと赤ん坊のハリーが単に生き延びただけでなく、ヴォルデモートの“力を打ち砕いた”赤ん坊とされていたことだった。それなら、親の威光で特別扱いされているのではなく、伝説化されるに足る実績があるわけだ。

 また、ホグワーツへの入学に際しても名声ばかり先行していて、まわりの誰と比べても何にも知らず見劣りすると気後れしていたハリーが、箒に乗る飛行術の才能で初めて自信を得て、喜びとともに人格的成長を遂げていく描写も、映画ではかなり割愛されていたように思う。原作の「-僕には教えてもらわなくてもできることがあったんだ-簡単だよ。飛ぶってなんて素晴らしいんだ!もっと高いところに行こう。」というハリーの内心の声は、とても重要だ。

 最後の寮対抗の逆転劇にしても、映画は、スリザリンに優勝させないためにボーナス点を与えた印象を残したが、原作では、本来優勝するはずだったグリフィンドールが、賢者の石を守るためのハリーたちの密かな奮闘を先生たちが誤解して減点したことで最下位に落ち、ハリーたちが寮のなかで非常に肩身の狭い思いをしている姿が描かれていたから、今回の功績に対する特別な御褒美ではなく、基本的には減点を相殺する措置だということがよく解るようになっていた。なにしろダンブルドアは、総てをお見通しの大魔法使いで、他の減点をした先生たちとは格が違っていて、単なる校長ではないのだ。

 一方、映画を観てから原作を読むと、この映画がいかに原作に忠実に映画化されていたかに改めて驚く。登場人物たちの容姿や場面の描写がまるで映画で目にしたものを言葉にしてあるかのようにぴったり重なるのだ。早々から、とりわけハグリッドやマクゴナガル先生の登場場面には驚かされた。

 だからこそ、あまりにも忠実に映画化することの陥穽にも気づかせてくれたように思う。原作全部を一切省略せずにまるごと忠実に映画化するのでなければ、映画にした部分だけをあまりにも原作に忠実にしてしまうと割愛した部分がそのまま映画の傷になってしまうということだ。映画はあくまで映画としての作品化を果たしていかなければならないはずで、映画として一定の割愛をしてしまう以上、それを埋め合わせて繋ぐための加工なり改変が施されるべきなのだろう。あまりにもの人気小説で、また原作者の執着が異様に強かったらしいから(それもわからないではない特別な作品だったのだろう)、やむを得なかったのかもしれないが、結果的に映画の独立性が担保されることの重要性を再認識させてくれたように思う。そういう意味では、見事な映像化ではあったが、見事な映画化とはなっていないようだ。

 しかし、それでもってあれだけ楽しませてくれたのだから、映像化においては、本当に素晴らしかったということだろう。巨大チェスの場面などは、映画の迫力のほうが勝っていたように思う。


推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/harry/harry9.html

推薦テクスト:「岡山で映画を観よう!!!」より
http://www5b.biglobe.ne.jp/~blackish/Movie/ReviewOfMovies/Movie3/HarryPotter2.htm
by ヤマ

'02. 1.28. 松竹ピカデリー2



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