『聖なるズー』を読んで
濱野ちひろ 著<集英社 単行本>


 過日、松浦理英子著犬身(朝日新聞社)を読んだ際八年前に『親指Pの修業時代』を読んだときに、読書好きの友人から薦められていた宿題を今頃になって片付けた。タイトルからして、愛犬が高じて性的領域に立ち入る話だろうと察しをつけていた部分は見事に外された変身譚で、さすが松浦理英子だと思った。と記したら、即座に今度こそまさに愛犬高じて性的領域に越境した人々の主張を探るルポで、ただしいわゆる獣姦とは次元が違う。なにしろ書き手は10年間性的虐待に悩まされた女性で、トラウマを解消すべく性と暴力を相対化するために文化人類学を志し、前人未踏のフィールドワークに向かった結果がこの本だと薦められた著作を読んだ。

 今度は『犬身』で一見、外されたように映る“動物性愛”が実は外されていたとは言えないことを傍証するばかりか、『犬身』で主題化していたように感じる家庭内性暴力にまつわる記述として最も痛烈に感じた「少しいやがられて、でも結局は受け入れられるのがいい」と自分の性癖を説明していたけれど、実際に彬が梓に対してやっているのは、「少し」ではなくてものすごくいやがられているのに、恩を着せたり、暴力はふるわないにせよ女が男の腕力に逆らえないのを利用して、強引に受け入れさせるという行為にほかならない。しかし、彬はそんなことにも気がついていない、というか無頓着なのだった。(『犬身』P275)との記述が象徴する関係性に直結してくる“性愛関係における対等性”が主題となっていて、さすが畏友の推薦図書だとそのチョイスとタイミングの絶妙さに唸らされた。

 愛なき獣姦とはむしろ対立概念になるとも言うべき動物性愛それ自体に対するルポなり考察という点では、まさに本書のタイトル『聖なるズー』が、著者の取材の主対象であるドイツの動物性愛者による団体ZETA(Zoophiles Engagement für Toleranz und Aufklärung)/ゼータ(寛容と啓発を促す動物性愛者団体)(P16)に対して、既に退会した嘗ての中心メンバーだった人物から皮肉っぽく冠せられた表現(P110)に由来しているように、必ずしも動物性愛者の主流をなすものではなく、マージナルな領域に属している(P111)ようだが、『犬身』に描かれた世界を振り返るうえでは、絶好とも言える著作だったように思う。

 一口に動物性愛者と言っても人間同士の性的指向性と同様にさまざまで、ゼータの設立メンバーの一人で実名記載を了とした唯一の人物ミヒャエルの場合は動物にしか性的欲望を抱かないが、私が出会ったズー(動物性愛者=ズーファイルの意)のなかには人間とも恋愛やセックスをする人もいる。 性的対象となる動物の性別にも違いがある。自身が男性で、パートナーの動物がオスの場合をズー・ゲイという。自身が女性で、パートナーがメスの場合はズー・レズビアン。パートナーの性別を問わない場合はズー・バイセクシュアルという。もちろん、自分とは異なる性別の動物を好む、ズー・ヘテロもいる。また、セックスでの立場を示す言葉もあって、受け身の場合はパッシブ・パート、その逆をアクティブ・パートという(P50)らしい。

 そのなかにあって、社会学者のコリン・J・ウィリアムズとマーティン・S・ワインバーグによる2003年に報告された調査(P68)では、男性と犬とのセックスの方法は第一位が「…犬のヴァギナへのペニスの挿入」で七四パーセント、第二位が「…肛門に犬のペニスを挿入される」で六三パーセント、第三位が「…犬からオーラルセックスをされる」で四四パーセント、第四位が「…犬の肛門に自身のペニスを挿入する」の二四パーセントとなっている。この統計では、自身のペニスを犬に挿入するアクティヴ・パートの男性の性行動が多いことがわかる。(P111)とのことだ。

 それからすれば、私が知り合ったズーたちは、男性十九人中、十三人が自身のペニスを挿入しないパッシブ・パートだ(実際の性行為は未経験だが自分はパッシブ・パートだと認識している五人を含む)。さらに、アクティブにもパッシブにもなるという人がふたり。完全にアクティブ・パートなのは四人だけ(P111)との取材時のゼータの面々は、動物性愛者のなかでのマジョリティとは言えない気がする。だから、動物性愛者の多くが“性愛関係における対等性”に拘り、必ずしも直接行為そのものを求めているわけではないとまでは言えない気がするけれども、動物には、人間と同じようにパーソナリティがある(P63)パーソンとは、パーソナリティを備えていると認識できる存在のことだね。たとえばねずみたちと一日一緒にいて、よく見ていれば、それぞれがなにをしたいか、なにを望んでいるのかがわかるんだよ。この、なにをしたいかといったことの根底にあるのがパーソナリティ(P77)パートナーとは、一緒に生きていく相手のこと。セックスが目的で誰かと一緒にいることは、僕にはないよ。人間ともね(P51)老犬のスパイクともかつてはセックスをしていた。それも「スパイクに誘われたときに限る」という。老衰したスパイクは近年、もう求めてこなくなった。だから、いまはセックスはしない。(P118)、と語る“聖なるズー”たちのほうが、動物性愛を虐待行為だと非難する動物愛護団体の人々が動物に向ける眼差しよりも対等性の点において優位にあることを小児性愛の援用のなかで考察した部分が最も興味深かった。

 ここには対等性にまつわる問題が横たわっているように私には思える。「大人と子供は対等ではない」という感覚と、「人間と動物は対等ではない」という感覚は近似している。人々がこのふたつを並べがちなのは、「人間の子供も動物も、人間の大人ほど知能が発達していない」という認識があるからだろう。特にそれは言語能力に顕著に表れる。(P98)との指摘は重要だ。愛犬家の女性たちがペットを子ども視し、自分の子どもの代替としていること。もうひとつは、多くの女性たちがペットに対して同じふるまい方で接しているという事実だ。そしてその行為を全世界に自主的に発信しているのだから、彼女たちはちっともそれを恥ずかしがってはいないし、世界もそれを咎めない。犬と娘に揃いのおしゃれをさせて歩く家族が微笑ましく見られているのと同様だ。飼い主が犬を子ども視してかわいがることには、限度はあっても人々はそれほど拒絶感を示さない。…一方、ズーたちの犬に対するまなざしは、一般的な「犬の子ども視」のちょうど逆だ。彼らは成犬を「成熟した存在」として捉えている。彼らにとって、パートナーの犬が自分と同様に、対等に成熟しているという最たる証拠は、犬には性欲があるということだろう。彼らにとって犬は人間の五歳児ではないし、犬が「人間の子どものようだから好き」なのではない。(P100~P103)との指摘は慧眼だと思った。そして、日本では、多くの飼い犬が当たり前に去勢をされることに対して、本来は、去勢をするか否かはもっと議論されてよいはずなのだが、犬の性を無視して去勢が一般的になっている背景には、「犬の子ども視」があるのではないか。子どもは大人の支配下にあるものだから、大人が権限をふるうのは当然だ。(P102)との日本の愛犬家の感覚を見て取っている部分に、愛猫への不妊手術を是としない坂東眞砂子の書いたエッセーが十四年前に引き起こした炎上事件のことを思い出した。問題をすっきりさせる鍵は、やはり対等性にある。対等性とは、相手の生命やそこに含まれるすべての側面を自分と同じように尊重することにほかならない。対等性は、動物や子どもを性的対象と想定する行為のみに問われるのではなく、大人同士のセックスでも必要とされるものだ。(P104)との弁に共感するとともに、何を以て対等と観るかの難しさを改めて思った。

 著者が述べているとおり相手のパーソナリティは自分がいて初めて引き出されるし、自分のパーソナリティもまた、同じように相手がいるからこそ成り立つ。つまり、パーソナリティとは揺らぎがある可変的なものだ。相互関係のなかで生まれ、発見され、楽しまれ、味わわれ、理解されるもの。キャラクターは箇条書きにすることができるが、パーソナリティは散文的だ。背景にともに過ごした時間、すなわち私的な歴史があって、その文脈のなかで想起されるものが、パーソナリティではないだろうか。そして、相性が悪いとか、機械的なやり取りしかしない間柄―人間と犬なら、ただ定期的に餌を与えるだけとか、おざなりな散歩をするだけといった関係―でしかないとすれば、互いのパーソナリティを引き出し合うことはできないだろう。 このように考えれば、人間同士の関係であってもキャラクターとは異なるパーソナリティが生じていることに気づかされる。誰かにとって、ある誰かが特別なのは、共有した時間から生まれるその人独特のパーソナリティに魅了されるからだ。それが揺らぎ続け、生まれ続けるからこそ、私たちはその誰かともっと長い時間をともに過ごしたくなる。そして同時に、その人といる間に創発され続ける自分自身のパーソナリティにも惹かれる。 誰かのパーソナリティは、それを受け止める人によって感じられ方が違うこともある。恋人同士にしかわからないパーソナリティや、家族だけが知っているパーソナリティ。関係性によって生じるパーソナリティは、人格や個性、性格とも少し違うものだ。(P65~P66)だから、尚更だ。

 それにしても、ドイツという国は面白いというか、理が立っている社会だと改めて思った。著者が言うように、ゼータが世界唯一の動物性愛者団体(P16)とも限らないとは思うけれども、団体という場合において、社会的に認知された或いは社会化された団体という点に目を向けるならば、確かに唯一かもしれないと思わせるに足るゼータ発足にまつわる社会背景が綴られていた。長らく刑法に規定されていた獣姦禁止条項が、なんと男性同性愛禁止条項に先駆けて、戦後いったん削除された後、2013年に動物保護法のなかで復活してきた際に、結果的に動物性愛は獣姦ではないことの確認判決となったとも解せるような判決を得る法廷闘争を展開するうえで結成された団体だったようだ。また、「匂いと誘惑」の項(P137~P140)に記されていた「FKK/エフ・カー・カー」と呼ばれる裸体主義文化の伝統にまつわる言及にも成程と思った。

 本書で取り上げている動物性愛とは、人間が動物に対して感情的な愛着を持ち、ときに性的な欲望を抱く性愛のあり方を指す。動物性愛は性的倒錯だとする精神医学的見地と、動物性愛は同性愛と同じように性的指向のひとつだとする性科学・心理学的見地とに、現在はどうやら分かれているようだ(P15~P16)とのことで、アメリカの生物学者で性科学者のロバート・T・フランクールによれば、性的指向とは、「誰に、あるいは何に対して情緒的結びつきを感じるか」「誰と、あるいは何とのセックスを妄想するか」「誰と、あるいは何とセックスをするのを好むか」という三つの側面の相互的なかかわりからなるとされる…(という)観点から、動物性愛を性的指向であるとしている(P41~P42)のは、2000年代以降に生まれた動きで、アメリカの性科学者ハニ・ミレツキを中心とする捉え方のようだ。

 ただ、動物とのセックス体験を問われてないんだよ。僕が夢見ているのはオスの馬とのセックスだけど、実際はしたことない。あまり知られていないことだと思うけど、ズーと自覚している人のなかには動物とのセックスは未体験の人がとても多いんだよ(P77)というようなものを以てまで動物性愛というのか、との疑念は残る一方で、上述のフランクールによる性的指向の定義に示されている三つの側面のうちの二つは情緒的結びつきと妄想であり、自分自身の若かりし頃のセックスの未体験時代に性愛感覚がなかったわけでは決してなく余りあったことを思いつつ、ズーだからといって、セックスしないといけない理由は?(P51)と言われれば首肯するよりほかない。セックスの話題はセンセーショナルだから、みんなズーの話を性行為だけに限って取り上げたがる。だが、ズーの問題の本質は、動物や世界との関係性についての話だ。これはとても難しい問題だよ。世界や動物をどう見るか、という議論だからね。ズーへの批判は、異種への共感という、大切な感覚を批判しているんだよ。(P79)との熱弁に、だからこそ「聖なるズー」と皮肉っぽく冠せられたりもするのだろうと感じつつも、とても印象深かった。

 そして、聖なるズーたちの主張する“動物性愛”観を持ってすれば、『犬身』の房恵は、動物性愛者の極致に他ならないし、梓もまた紛れもない動物性愛者だったのだなと大いに納得した。犬をモチーフにすれば当然の帰結になるとも思いながら、改めて「嗅覚」の重要性を思った。加えて、犬とのセックスは、自然に始まるんだよ(P52)オス犬に任せたら自然にそうなるんだ。自分が犬をコントロールしようとする気持ちを捨てた途端に、犬とのセックスは始まるんだよ(P117)といった言葉の後に、犬が人間にセックスの誘いをかけてくることについて語られていた具体性の持つリアリティに感じ入るとともに、ズーのセクシュアリティ観には「パートナーの性のケア」という側面もある(P97)との指摘に恐れ入った。ペットとして子ども扱いする感覚では到底及ばない対等性が、パートナーとして臨むことには備わっているように感じた。

 驚いたのは、それにもかかわらず、ミヒャエルにとってパートナー以外に飼っている犬や猫には名前が必要ないことだった。それは彼が言葉で犬や猫に話しかけることがほとんどないためだ。目を見る、耳を澄ます、触れる、匂いを嗅ぐ。じっと集中する。いつも、彼はそうやって動物たちとコミュニケーションを取る。話しかけることもないし、こちらのタイミングで呼びかけて、動物たちが歩いているところを遮って抱き上げたり、言葉で指示したりすることもない。だから名前は必要ないのだ(P88)そうだ。動物性愛者撲滅を活動の主眼とする動物保護団体Aktion Fair Play/アクツィオン・フェア・プレイのキャンペーンブースで著者が「動物とセックスをすることの最大の問題はなんですか」と質問したことに対して、著者の予想した「動物がかわいそうだから、動物とセックスしてはいけない」との返答ではなく、反射的に「アブノーマルだ」と返して、著者に本音としては動物保護よりも「異常なもの」に対する生理的忌避感が動物性愛者撲滅に駆り立てていると見透かされていたような女性(P21~P23)にすれば、名前も付けずに動物を飼うミヒャエルの飼養態度など想像も及ばないことのように思う。

 本書を読んで、もう一つ驚いたのが、2017年時点ですでに十四回目を迎えていて、年々少しずつ規模を拡大し、参加者も増え続けている(P165)との、三日間に及んでセックスやセクシュアリティにまつわるさまざまなことがらを経験するエクスプロア・ベルリン(Xplore Berlin)なるフェスティバルだった。開催目的は知的で偏見のない、遊び心溢れるセックスへのアプローチを促し、クリエイティブなセクシュアリティのためのヒントやアイデアを提供するというもので、BDSM系のワークショップが多いことが特徴で、近年、ヨーロッパで流行中の日本の縛り(Shibari)の実践講座もあったそうだ。少しの気晴らしか冒険のつもりで、いたって気楽に申し込みをした(P166)という著者が違和感とともに驚き、戸惑ったのは、淫靡さがなく明るく健康的。空間のどこにも、また快感をむさぼる人々の表情のどこにも陰影がない(P169)ことだったようだ。そして、ワークショップにも参加するなかで、暴力を想起させる場面は皆無で、安全性が確保されたBDSMプレイを成立させているフェスティバルにおいて、十年に及ぶ性暴力に縛られていた自身について振り返るとともに、性暴力と括るのではなく、性と暴力を切り分け身体的暴力は、セックスよりもよほど訴えかけが大きい。セックスなどどうでもよくなるほど、殴られ蹴られる衝撃は大きい。痛みは体中に響き渡り、忘れられなくなる。身体的暴力の周りには、涙、声、叫び、嗚咽、痛み、麻痺、諦め、憎しみ、怒り、そしてさらなることに、ときには笑いまでもがある。数多の感情や感覚が暴力とともにもたらされ、蒸発して空気に混じり込み、私はそれを何度も吸い込む。痛みと感情と感覚は混とんとした渦になって襲いかかり、身体という接触面を介して日に日に精神に食い込んでいく。…そしてバラバラの身体と精神を統合しないところで、セックスが起きる。(P173)と綴ったうえで、「言葉による合意」に言及し、そうやって、セックスにおける偽物の対等性が出現する(P174)とも記していた著者が、「聖なるズー」たちの動物性愛における核心部分として着眼していた対等性というものの重みを感じた。

 そして彼らはセクシュアルな快感よりも、動物との関係性に惹かれるから、動物とのセックスが好きだという。彼らはペニスを挿入されたり、繊細ではない舌で舐められたり、毛むくじゃらのヴァギナで口のなかがもぞもぞしたりすることを喜んでいるのではなく、相手を丸ごと受け入れることができる自分と、パートナーの性的満足に充足感を見出している。パッシブ・パートの人々がセックスにおいて得る最大の喜びは、支配者側の立場から降りる喜びだ。そのときにこそ、彼らが追求するパートナーとの「対等性」が瞬間的に叶えられる。(P161~P162)と述べ、人間は動物との間に設けてきた境界を隔てて、「人」というカテゴリーを生きている。人間と動物のセックスは、その境界を撹乱する。ズーたちが提起しているのは、セックスとはなにかという問いだけではなく、人間とはなにかという問いでもある。(P194)としていることに納得感が湧いた。

 その一方でパッシブ・パートが、性も含めてパートナーの存在を丸ごと受け入れるすばらしさを満面の笑みで語ることができるのも、性的ケアの側面を強調できるのも、彼らが自分のペニスの挿入を避けて、暴力性を回避しているからだ。彼らはペニスの暴力性から解放されることで、まるで自分自身も全く暴力的でないかのように語ることができる。(P162)と述べている部分に対しては、他方で性暴力の本質がペニスそのものにあるわけがない。短絡的にペニスに暴力性を見出していては、セックスから暴力の可能性を取り去ることはできない。…性暴力の本質はもっと別のところにあり、それは性別や世紀の形状とは根本的に無関係なはずだ(P162)としていればこそ、割り切れないものが残ると同時に、男性十九人中、十三人が自身のペニスを挿入しないパッシブ・パートだったという、著者の知り合ったズーたちの多くは心を開いてくれ、率直に話してくれる。その調子は暗くはない。しかし、やはりどこかに傷めいたものを彼らは抱えている。ある人は自責の念を、ある人は怒りを、ある人は恥ずかしさを、ある人は解けない矛盾を。一瞬の表情に、悲しみや諦めが浮かぶこともある。たくさんの人生に、社会と対峙するときの葛藤、心の波立ちがあり、それらは彼らのセクシュアリティと切っても切り離せない。そのことが少しずつ私を刺激し、自分の奥底にある傷をつつく。(P149)と述べてもいたことを想起した。

 そして、暴力には不思議なことに、何かを終わらせる力よりも何かを生む力があることを、私は体感的に知っている。暴力は、セックスと同じように身体に直接的に訴えかける。そして、ある意味ではセックスより生産的だ。憎しみ、怒り。そういった離れておきたい感情を暴力は次々に生み出して、人間を刺激する。そして暴力を受け続けると、自分のなかにもいずれ暴力性が芽生えていく。その矛先が誰に、あるいは何に向かうかは、人それぞれなのだろう。私の場合は、まっさきに自分自身に向かった。(P258)との著者の言葉に、ますます暴力性と対等性における“偽物”とは何かということが悩ましくなってくる。そして、セクシュアリティとは曖昧な言葉だ。文脈により性的指向を指すことも多い。しかし、本来は「セックスにまつわるあらゆること」を指し、広範な意味を持つ力強い言葉でもある。 この「あらゆること」が難しい。想像し得る限りのあらゆること。セックスそのものにはじまり、性的指向、性的嗜好、生殖、生殖の管理、妊娠、中絶、それだけではなく性にまつわる教育、政治、身体性、感情、感覚…。セクシュアリティを考えるということは、セックスを巡るすべてを考えてみるということだ。(P242)との弁のなかに、暴力性も対等性も含まれるべき重要な要素だろうという気がした。だからこそ、ミヒャエルは人間とのセックスを嫌うのだろう。彼の言う人間とのセックスが嫌なのは、いつも裏になにか別の意味があるところだ。人間とのセックスは単純じゃないだろう。人間は思っていることを隠すし、フィルターに通すから。(P256)には、無理からぬものがあるように思った。しかし、ただでさえ犬猫さえも好まない僕に、ミヒャエルのような選択肢は埒外のまま還暦を過ぎるに至っている。

 だから、最も驚くべきなのは、性的指向を自分で選び決めることができるとしてズーに“なった人”の存在だ。著者にとっても印象深い人物だったようだ。黒い短毛のオス犬をパートナーにしているロンヤは、人間に対してはレズビアンで、私は本来的にはバイセクシュアルだと思う。男性とも女性ともセックスをしてきたし、男性を愛したこともある。愛されたこともね。でも私はいつからか、女性を愛することに決めたの。男性とのセックスで、私は快感を得るための道具として男性を扱っているのではないかと、あるところから懐疑的になってしまったから。男性が、性欲の発散のために女性をセックス・トイのように扱うことがあるでしょう。あれって最低よね。マスターベーションの延長だもの。私は、自分がそんな男たちと同じ種類の人間に成り下がるのは嫌だったの。それに、どういうわけか、私はセックスでは女性に対して受け身になる。男性に対しては攻めの側に回るのに。女性を愛する女性になったのには、そういう理由もある(P199~P200)と語っていた。そんな彼女に対し、著者は彼女は男性と向き合って、自分の中の暴力性に気づいたのかもしれない。ことセックスにおいて…、女性も男性をセックス・トイのように扱うことはできるし、レイプさえも可能だろう。ペニスを無理やりに刺激すれば、勃起させることは容易なのだから。男性の身体も、心と常に一致するものではない。そして、暴力性は性器の形状には由来しない。 ロンヤは、セックスの場面でそれを痛感した。セックスにおける役割や立ち回りが、それを明確にしたようだ。そして彼女はその立場を降りることを選び、「レズビアンになる」ことを決めた。このときも、彼女は自分でセクシュアリティを選択している。いまから二十年以上も前のことだ。(P200)というふうに観ていた。そして、ズーになっていく人々には、生まれながらにズーだった人とは異なる背景の多様さがある。ある人にとってズーとは、身近な動物をまるごと受け止めながら、ともに生きるための新たな方法であり、ある人にとっては愛すべき恋人や犬を受容する方法であり、またある人にとっては政治活動でもある。(P244)と述べている。

 僕に本書を薦めてくれた友人がヤマさんが『セックス・ボランティア』で指摘された“納得感”と“自己決定権”は大きなキーワードと言っていたのも道理だと思った。ふと、手元にチラシを持っているだけのドイツ映画『ワイルド わたしの中の獣['16]が、どのような描き方をしているのか、俄にめっぽう気になってきた。
by ヤマ

'20. 8. 4. 集英社<単行本>



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