『エル・スール』(El Sur)
監督 ビクトル・エリセ


 この作品の表現意図は、少女ないし娘に映った父親のイメージの映像化ということに限定されていたのであろうか。作り手は、その視点の維持にかなり固執していて、その面での達成度はかなりのものである。

 父親に対するイメージが鮮明であった少女期、そこには「霊力」とか「秘密」とかいった前作ミツバチのささやきに繋る言葉が出てきたりするのだが、その頃を描いた映像は少女のなかでの父親像の鮮明さと呼応するかのように、スクリーンでも鮮やかに豊かなイメージで語られる。そして、少女が父親が解らなくなったと知り始めた頃、それは彼女が少女から大人になり始めた時すなわち、父親から「霊力」のイメージを失った頃でもあるが、娘にとっての父親像がぼやけてきたことに呼応して、スクリーンの映像からそれまでの鮮明さとイメージの豊かさが失われ、父親に対する不確かさが綴られる。同時にそれは、少女が前作で描かれた世界に住めなくなっていることを示してもいるわけである。
 そういう作品なのだと了解すれば、父親についての幾つかの疑問すなわちかつての恋人に8年ぶりで手紙を出し、返事を受け取ったことやそれから何年も経た後に自殺したこと、その前に家出癖が生じたこと、南部出身ながら二度と南部に戻ろうとしなかったことが本当に祖父との確執だけによるのか、などのことが断片的にしか描かれないのも、あくまで娘の眼に映った父親像を描いているからだと納得せざるを得ない。しかし、実際には納得し切れない。それほどに娘の側の視点だけに執着する意図は見えても、意味が伝わってこないからである。大人をそれも父親をあくまで娘の側から描こうとするところにかなり強い自伝的要素や作者の個人的こだわりは感じられるが、それ以上のものがないのである。

 前作『ミツバチのささやき』が優れていたのは、子供の視点で子供特有の秘密の世界を見事に映像化し、しかも断片的に大人の秘密をも窺わせることで鮮やかな対照をなす視点の拡がりが効果的であったからである。その点、この作品が子供の視点で主に大人を描き、それによって娘を語ろうとした方法論自体に無理があったのではなかろうか。子供の視点で大人を描くには、もう少し子供の側だけに留まらない視点が必要である。大人と子供では、持っている世界の深さはともかく、広さにはかなりの隔たりがあるからである。もっともそうしたのでは作り手の表現意図が損なわれるのであろうが・・・。


参照テクスト:原作小説『エル・スール』を読んで

推薦テクスト:「Fifteen Hours」より
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fifteen_hours/VEelsur.html
推薦テクスト:「銀の人魚の海」より
http://www2.ocn.ne.jp/~mermaid/newpage8.html
by ヤマ

'86.10. 9. 県民文化ホール・グリーン



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