『田舎の日曜日』(Un Dimanche aLa Campagne)
監督 ベルトラン・タヴェルニエ


 広々とした庭、暖かい日射しのなかで、時折訪ねて来てくれる子供たちを楽しみに悠々自適に暮す、叙勲も果たした老画家。このまさに恵まれた老後を送る男が、定期的に訪れる息子家族と久し振りに訪れた娘を迎える田舎のある日曜日が描かれる。そして、その一日はいつもと同じ穏やかさを失うこともない。しかし、この変哲もない日常性の穏やかさをなし得ているのは、決して穏やかなものだけではない。老人は息子の呼称を変えた嫁に不満を持っているし、定期的な訪問を義務的に果たされることの寂しさも感じている。また、息子のほうも老父と並んで歩きながら、つい父親の死を想像している。画面としては、その想像が望んでいることとしての強い色付けなどという露骨さを排するだけのセンスが保たれているが、息子にとってそれは不安というより願望なのであろう。そういったことへの後ろめたさが息子に定期的な訪問への強い義務感を抱かせているに違いない。しかし、二人はそういったものを決して表立たせない。そして、息子の妻も訪問の煩わしさを夫に強く訴えたりはしない。老父の娘はその兄に比べると、もっと自分の感情に正直に父親と接している。たまに 訪れても、もっと開放的に父親への愛情表現ができるので、老父は彼女といるほうが楽しそうである。しかし、彼女が自分に正直な分、訪問が時たまになることや定期的に訪問してくれる息子家族のほうが実際的により多くの慰みの機会を与えてくれていることも老父は知っている。息子はせっかく来てやったのに、妹とばかりいる父親に少し不満を覚えながらも、妻にこぼすだけである。こうして皆は内心の諸々は抑えて、協力一致、穏やかさを保っているのである。それは避け難い自制と演技によって支えられている。しかし、この穏やかさが観ている側に実に掛け替えのないもの、美しく暖かい優しさとして映ってくるのがこの作品の秀でたところである。それは作品の展開自体が持つ穏やかさと画面の光の暖かさに負うところが大きい。通常、こうした心情を背景にした家族劇が描かれると、多くの場合、個人の寂しさがクローズ・アップされたり、家族的な穏やかさを保つための自制とか演技を自身への欺瞞とする視点であったり、そうでなければ、極端に自己犠牲を伴う人情劇であったりする。そうした派手さや殊更のような問題意識を捨てて、各人の対等ないしは応分の自制と演技によって保たれる 共同作業としての穏やかさの家族にとっての価値や掛け替えのなさが描かれることは少ない。しかし、多くの人々の日常性を支えているものが、まさにここにある。
 映画が、多くの場合、日常性に楔を打つものとしてあればこそ、こういった日常性の側に立った作品は少ないということなのかもしれないが、単にそういった稀少価値だけではなく、映像としてもストーリー・テーマとしても穏やかさを穏やかに表現し得たところがなかなかのものである。ただ難として、蛇足とも言える饒舌なナレーションが少し耳障りである。フランス映画、殊にヌーベル・バーグ以降、その悪しき影響として残っているようである。この作品における主要な心理は総て映像と科白によって表現し得ているのだから、それ以上の仔細な部分はナレーションで限定してしまうより、観客の想像力に委ねたほうが良かったと思う。
by ヤマ

'86.10. 9. 県民文化ホール・グリーン



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