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 三年生になって、ある日、国語の時間に「 “花” という字をノートに書きなさい」と課題が出た。さっさと書けばすぐ終わるが、この時はなぜか非常に丁寧に書いた。はねる部分もきちっと書いて、いわゆる今流で言えばパソコンの “教科書体” フォントだ。これを見た先生は、びっくりしたように、ぼくのノートを取り上げて、「こういう字を書いてみなさい」と、机の間をずーっと歩きながら全員に見せた。
 この時からだった。私の人生を決める勉強が始まったのは。一躍成績はクラストップに躍り出た。一番喜んだのは母だろう。
<あのたかしが、こんなになって>、口には出さないが、オール5の通信簿を持って帰った日には蔭で泣いていたかも知れない。
 こうして成績はトップになったが、自分では、そんなに一生懸命に勉強した覚えはない。ごく自然だったように思う。
 
 そもそも親に「勉強しなさい」なんて言われた事は一度もない。勉強は学校でやるものだと思っていた。家では母の手伝いと自分の遊び、読書は自分の遊びの一つだ。勉強は宿題くらいかな、でもその宿題も学校で休み時間にやってしまう。だって家では遊びたいから。
 母の手伝いは弟の子守だけでなく、夕食のご飯を炊くのも僕の仕事だった。母が畑に行っている間に、“初めチョロチョロ中パッパ、赤子泣いても蓋取るな” は小学6年生まで続いた。井戸からの水汲みも僕がやった。お風呂(当時は五右衛門風呂)を沸かすのも僕の仕事だ。
 
 弟の子守には忘れられない思い出がある。これは1年生頃から続いていたが、母が仕事をしている間、ぼくが弟を背負っている。乳幼児にはお昼寝という時間がある。背中で愚図(ぐず)り始めたら、母がお乳を飲ませて寝かせる。しかしなかなか寝ない。そうすると僕の出番だ。添い寝をして歌を唄う。「汽車」という童謡だった。<今は山中 今は浜 今は鉄橋 渡るぞと 思う間もなく トンネルの・・・>と小さな声でゆっくり唄い始めると、決まって二番の歌詞の辺りで眠る。そして眠る時は、必ず僕の小指を触っているのが緩んでくる。<寝たぞ>と分かる。そーっと起きて「お母ちゃん、寝たよ」と言いに行く。すでに母が畑に行っていれば、井戸からの水汲みや、お風呂への水入れをする。
 
 こういう事を書き綴ると、“こき使われている” というような印象を受けるかも知れないが、そういうのではない。母は優しい人で、僕をそういう風に手伝いさせているのではない。良く言えば <僕を最も信頼していた> ということだ。何事も
「はい」と <言う事をよくきく> 子供だったからだ。頼まれた事を断ったことは一度もない。
 ただし、母の生涯で一度だけ、言う事を聞かなかった事がある。こんな事を、ここで書くのも臆するが事実としての自伝であるため書いておきたい。26歳の時だ。母から縁談の話がきた。写真はない、履歴もない、私が一人で相手の家(岡山)まで行って会う、という話だ。この時、あまりにも失礼ではないかと断った。母の僕への愛情を裏切ったのは後にも先にも、これが只一つの事実である。
 
 父はヘビースモーカーで、“バット” というタバコを僕がよく買いに行ってたが、「買ってきてくれ」と言われて、断った事は記憶にない。当然のように僕の “お使い” だったが、夜道の場合、父と一緒に手をつないで歌を唄いながら歩いて買いに行ったこともあった。
 更に懐かしい思い出もある。年生になってからだったと思うが、西大寺の大蔵省印刷局に勤めるようになってから、自転車で通勤していたが、時計のような正確さで帰宅する。毎日ぼくが県道まで迎えに出ていた。春夏秋冬、同じ時刻といっても、冬は既に寒いし暗い。夏場はまだ明るい。「お父ちゃん、お帰り!」と自転車を止める。「おー」と言って自転車を降りて二人歩いて帰った。父(83歳死没)も母同様、優しい人だった。
 
 年生だったと思う。父と二人だけだったのも覚えている。岡山で博覧会があったのを連れて行ってくれた。ある部屋で漫才をやっているのを隣の部屋まで何本もの線(ケーブル)で繋がっていて、その部屋で漫才をやっているのが見えるのだ。
 不思議だった。「お父ちゃん、隣の部屋が、どうして、ここで見えるの?」
「これがテレビジョンと言うものじゃ」と教えてくれたが、本当に、もの凄く不思議だった。子供にこういうインパクトを与えるのが、どれほど重要な事かを父は心得ていたと思う。現在の私と重ねると、それがよく分かる。
 
 
 戦前 新婚時代の父 自宅だが、当時も鉄の強度の研究に余念がなかったようだ(§参照、本の上にあるアルバムは鉄の顕微鏡写真だそうである)。左手の指にタバコを挟んで、持っているのが見えるだろうか。
 
 ちなみに余談だが、私はタバコを吸った事は一度もない。大学時代に友人から「タバコくらい吸えよ」と本くれようとしたが、「そんなお金があったら相対論の本を買う」と言い、貰わなかった。こんにちまで本も吸ったことはない。
 
 3年生だか4年生だったか忘れたが、大きな思い出がある。ウチの近所に、あるお婆ちゃんがいた。このお婆ちゃんは、いつもお腹をすかして「食べ物をくれんのじゃ」と、こぼしていた。僕は見かねて、ある日、おにぎりを作ってトマトと一緒にお皿に出して、食べてもらった。「たかしちゃんは優しいのオ」と、涙を流しながら食べていた。ウチだって貧乏だ、でも
<こんなに喜んでくれる>と、生まれて初めての親切だった。(この事は、たちまち村中に話が広まったと、後に母が言っていた。注釈:このお婆ちゃんは、いわゆる “認知症” とか、そういう病気をお持ちではない。普通の元気なお婆ちゃんだったとの事)。
 その日のウチの夕食のご飯は、お米を一合減らして炊いた。夕食時に母が「きょうのご飯少ないのオ、たかし、お米を入れるのを間違わなかったかい」と言った。「違(ち)ごうとらん。いつもと同じじゃ」と言って、僕は、その日は “おかず” だけで、ご飯を食べなかった。
 このお婆ちゃんは、私が結婚してから分かったのだが、家内の実家の隣の家からお嫁に来たお人だった。きっと天国から
正美ちゃんを、たかしちゃんのお嫁さんにしたい」と僕に引き渡したのではないかと思っている。
 
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 遊びといえば、竹とんぼを作って<空中に止める>ことが出来るかに挑戦した事がある。いわゆるホバリングである。この頃は、そんな難しい言葉は知らない。とにかく竹とんぼを飛ばすのではなく、空中で止めるのだ。だんだんと下に落ちても垂直に落ちるようにするわけだ。何度も何度も翼の部分をナイフで削って調整する。竹とんぼが飛ぶ原理を知ったのは、後々の中学生になってからだ。ベルヌーイの法則というのを習ったときだった。小学三年生が知る由もない。出来た。何秒飛んだか分からないが、おそらく数秒はホバリングしただろう。しかし、落ちるときは急速に落下する。思ったように垂直にスーッと落ちるのではなかった。しかし楽しかった。今なら軽い電池とモーターで軸を回して飛ぶ方向は制御できないが、ドローンになったのではないか。この記事を書きながら当時を思い出して微笑んでしまった。
 
 このほか遊びといえば、ウサギ小屋の横(といっても地上2mほど)に一人だけはいれる木枠と床を作り、<誰も入ってはいけない僕の研究室>と称して、ここで読書をするのが楽しみだった。先に述べた小学館の「小学三年生」である。やがて、それだけでは物足りないので、滑車を作り、庭の大きなモクレンの木の中腹(10mはあるだろうか)に滑車を付けて、紐を掛けて籠を吊るし、往復させる。
“研究室” も “滑車” も、すべて自作である。鋭い小刀、ナイフ、のこぎり、釘、金槌等を使うことに親は何も小言を言ったことはない。自由奔放な子供の遊びであった。
 
 怪我はしなかったが、とんでもない事故を起こしたことがある。上記滑車を作るのは車輪になるコマを作るのと同じで、4個作って軸でつなぎ、一人だけ乗れる板を取り付けて、台車を作った。それに乗って坂を下るのだ。左右のコントロールは出来ない。真っ直ぐだけ。ブレーキは足でやれると思っていた。この頃はまだニュートン力学を知らない(^_^)。坂を下り始めたら、勢いがついて止まれない!物凄い勢いで田んぼ道を横切り、そのまま田んぼに突っ込んだ!足、顔から頭まで泥んこ。大笑いだが、その小3児童はまじめな顔して家に帰った。
 台車を持って突っ立ている僕を見て母曰く「たかしは、もう!」。こういう事があっても母は怒らない。大怪我でもしていたら騒ぎになっただろうが、母には<たかしは不死身だ>という経験をしている。
 
 大阪に居た時の事だ。僕が2歳か3歳。はしゃいで遊んでいたら窓ガラスにドーンと頭から突っ込んでガラスが割れて、僕の頭にかなりの数の破片が突き刺さった。頭というのは切ると血が凄く出る。母は「たかし、死んじゃおえんよ、死んじゃおえんよ」と抱きかかえて近所の病院に走って行ったそうだ。ぼくを抱えていたため、自分の服も血だらけ。
 お医者さんの適切な処置で、現在私は生きている(笑い)。笑い事ではないですね、自分の現在は母在りきである。
 後々の母の話によると、この時、ぼくは痛いのを我慢している顔で、一度も “泣かなかった” そうである。普通2〜3歳の幼児なら痛いのを訴えるため “泣く” だろうと思う。それが “泣かなかった” というのは、どのように考えればいいのだろうか。
 
 この記事を書きながら思い出した事がある。私には二人の娘がいるのだが、長女が小学低学年だった時、岡山の実家に帰省する際、名神高速の、あるSSでのこと。ぼくの首から提げていた重いペンタックスのカメラがガツンと額にぶつかった。泣きそうになったとき咄嗟(とっさ)に「泣かない!パパが悪かった。不注意だった。泣かない!泣かない!ごめん!」と腰をかがめて顔を見ながら言ったら、懸命に我慢して “泣かなかった”。みるみるうちに額に大きな拳(こぶ)が出来た。痛かったろうと思う。それを我慢してくれた。この件と上記私の事故とは内容はかなり異なるが、“我慢する” という共通の出来事である。
 この子は “我慢する” 強い意思を持っている子供であった事を<親バカ>だろうか、述べておきたい。小学校4年生では、すでに「これで小学生?」と思われるほどピアノが上手だった。成績もクラストップ。4年生のある日、小学校(当時は立川九小)の100周年記念行事が開催された。多くの教育委員会、市長その他の来賓が来る。
 音楽の先生が「自分が指揮をするから、あなたピアノ伴奏をしてね」と指名した。娘は快く承諾して、「君が代」や「校歌」、「市歌」はもとより見事にその他の歌の伴奏をやってのけた。以上は私は知っていた。書きたいのは、その後の話である。
 この記念行事後、この子をいじめる子供数人が出てきた。理由はクラス成績トップであったり、先生達から一目置かれているのが気に食わないわけだ。女の子ボスはかなりのイジメをやったそうだ。娘の教科書やノートを引きちぎったり、落書きをする。
 私がこれらを知ったのは、娘が小6の時、現在住んでいる東久留米市滝山に引っ越して来た時、「これはパパには言わないで」と母親だけに打ち明けたそうだ。つまり母親も小4,小5とイジメに遭っていた事を知らなかった。あんなに楽しそうに毎日通学していたのに、何と強い子なんだ。イジメっ子に負けてはいなかった。
 家内が「この滝山に来て良かった」とつぶやくように言った時、私も知ったのだった。
 
 この子には思い出が多い。小学校1年生の入学式の日、朝、次のように私は一言だけ言った。「先生のお話をよ〜く聞くんだよ」、娘は「はい」と元気よく答えた。更に5月連休に入った頃、「お友達、何人くらいいる?名前言えるか?」と言ったら、「何々ちゃん、何々ちゃん・・・」と20人ほどの名前をスラスラと言ったのでびっくりした。そして連休が終わった頃、次の事を注意した。「音楽の授業で音楽室に行くの?」、「うん行く」、「ピアノがあるね。絶対にピアノに触ってはいけないよ。ピアノが弾けるからと、手を触れることは絶対にしない」、「うん、わかった」。
 その後3年生だったと記憶しているが、音楽室で先生が「ピアノ、弾ける人、手をあげて」と言ったそうだ。娘はちょっと躊躇したようだが、そうっと手を上げたら、「弾いてみて」と言われて、その頃習っていたモーツァルトの曲を弾いたそうだ。これが音楽の先生が知った最初だった。
 
 上述のように長女が小6の時、現在の滝山に引っ越してきたが、4月から滝山小学校に行くことになった。「転校生の気分どうだ?」と訊いたら、「隣の教室に遊びに行ったようだよ」だった。そして瞬く間に多くの友達ができた。
§2 わんぱく小僧に、その長女小6の写真を掲載した。
 名前は偶然に本稿自伝の§20で書いた村上雅人学長の娘さんと同じだった事もあり、某大学卒であるのも教授にはお話した事がある。
 この長女には心の底から謝りたい事がある。これは私が死ぬとき言おうと思っていたが、もし口に出して言えなかったら困るので、拙稿長編科学小説「火星消滅」のラストシーン§23に書いておいた。武田美枝子なる人物が、この子である。
 謝りたい内容は長女が4歳の時、私が当時、日本放送出版協会の “電波科学” からの依頼で原稿を書いていた時だった。
家内が赤ちゃんである次女を背負って夕食の支度をしているとき、二階にいる私の所へ「パパー」と寄ってきた。その時の私の対応である。いきなり「うるさい!ママの所に行ってろ!」と怒鳴り返したのだ。私の凶暴とも言える、その態度は4歳の子にどれほどのショックを与えたか。独りぽっちで寂しかったのだろう、とのちに反省はしたが、もう遅い。心に深い傷を負ってしまっただろう。この子も、私も、一生忘れられない事件であった。
 
 もう一件懐かしい思い出を書いておこう。次女が幼稚園年長の時だ。福生(ふっさ)に大型店が出来たというので家族で行った際、店内のレストランで次女はクリームソーダを注文した。僕が自分の注文したものを取りに手を伸ばしたら、袖(そで)がクリームソーダに差してあるストローに当たってバタンと倒れてしまった。テーブルに丸いクリームが転んだ。中身も全部テーブルに。次女が泣きそうになったので、思わず「ごめん、泣かない!泣かない!」となだめて、ウェイトレスを手まねきで呼んで「僕の不注意です」と言ったら、「あっ、少々お待ち下さい」と言って奥に引っ込んで、やがて二人のウェイトレスさんが来た。一人は新しいクリームソーダを持っていた。もう一人は布巾でテーブルを拭いた。泣きそうになっている次女の前に「どうぞ、ごゆっくり」と笑顔で置いて行った。
 この時の幼稚園児の複雑な顔は一生忘れられない。この子も “泣かなかった”。
 この次女にも思い出は多い。小3の秋(註:滝山小学校)、学芸会があった。その時、このクラスの演劇で “王様” を誰にするかを担任の先生が決めた。前日に次女が「パパ、あした王様を誰にするかを先生が決めるんだって」と言ったので、私は次のように話した。
「演劇は体育館でやるよね。だから、どのくらい大きな声で話せるかを先生は聴きたいんだ。どういうセリフを言うのか分からないが、大きな声を出しなさい」と。私の予想は的中。この子が王様に抜擢された。
 この子も小2の時の写真を上記§2 わんぱく小僧の後半に掲載した。現在NTTdocomoで後輩の指導に当たる上司となっている。可愛い女の子の孫も授けてくれた。
 
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 兎を飼っていたのは、どういうおじさんか知らないが、時々来て兎を買ってくれるからだった。当時確か一匹50円くらいで買ってくれたと思う。もちろん、これは僕のお小遣いとなる。これを貯めて飛行機の組み立てキットを買い、組み立てて完成させ、飛ばすのが楽しみの一つだった。
 よく聞く話だが、この頃の少年は鉄道に興味を持ち、模型の機関車やレールを作って、座敷で線路を走らせる。これがぼくの場合、模型飛行機だったわけだ。いくつ作って壊れたか数知れない。だんだんと製作技術も上達する。真っ直ぐ飛ばすには、どこをどのように精密に調整するか、長距離飛ばすにはどうするか等々、工夫そのものが遊びであった。
 次の写真は双発である。非常に珍しい。
 
双発とは珍しい。こういう写真や父、母などの非常に古いアルバムがあるのは、父がカメラマニアだったからである
「動力は何か」という電話が親しい知人からきました。「輪ゴムです。写真では、まだ取り付けてないようですが、尾翼まで楽に伸びる長いもので、手回しで規定の回数だけ回して、手を離せば、プロペラが回転し動力となり、滑走して離陸します。風のない日には真っ直ぐ飛び上がって、やがて着陸します」(2021.7.23)
 
 四年生になると、学校の図書館にも本が多く並ぶようになった。この頃の読書は中学生になっても続くある種の偏りがある。それは「偉人伝」だ。図書館にある偉人伝は片っ端から読んだ。エジソン、夏目漱石、森鴎外、二宮金次郎等々。
 小説も読んだ。最も感動したのは「下村湖人の次郎物語」である。上述した偉人伝は子供用に脚色された読みやすいものだったが、「次郎物語」は、いかにも古い本という印象で表紙なども貼り直してある。かなり分厚い本だった記憶がある。難しかったから多分脚色したものではなく、原文そのものだったと思う。読めない漢字が多く、そのつど辞書を引いた。
 このときの辞書引きは後の中学生になってから<辞書引き大会>で優勝することになった基礎だったのではないか。今ではそう思っている。これは『漢字の辞書引き』であるが、『英語の辞書引き大会』の件は§2で述べた。
 
 こうした成績トップと読書好きは牛窓のおばちゃんにも伝わり、蔵書を何冊かもらった。殆どが戦争もので、「兵隊さんバンザイ」という類のものだったが、読みながら感動して泣いた本があった。タイトルはすっかり忘れているが、内容は御大将が怪我をして食事もろくにできない、お猿さんは木の実を、ヤギさんは食べられる葉っぱを、犬はサツマイモを、というように、それぞれ食事を獲ってくるが、ウサギさんは何も獲ってくるものがないので、「どうか私を食べてください」と言い残し、火の中に飛び込む物語である。感動して泣きながら「ぼくも大きくなったら人のためになる人間になりたい」と思ったのだが、いま思えば、これは戦争中の本で、軍部の「お国のために死ね」というプロパガンダだったのだろう。だが「人のためになる人間になりたい」というたかし少年の心は、歳老いた現在の私にも生き続いている。
 
 五年生では将来の私を決定付ける出来事が起こる。それは教材の一つだったが、鉱石ラジオを作った事だ。同調コイルとバリコン、検波器(ゲルマニウムが含まれている鉱石)、それにイヤホンがあればラジオが聞ける。板の上に取り付けて各部を配線図どおりに接続するだけの、簡単なものだ。コイルにアンテナ線を2〜3mも付ければ鳴る。
 これが私の最初の電子回路の製作である。それから何十年後か、世界初の「抵抗1本で上下のFETのバイアスを同時に掛ける」という対称回路を考案し、位相反転型アンプへと発展、日本放送出版協会の月刊雑誌「電波科学」によって多くの
<窪田アンプファン>が誕生した。
 現在でも小学校五年生では工作の時間というのがあって、ゲルマニウムラジオの製作があるらしい。こういった製作を通じて将来エレクトロニクス関係に進む人材が育てられることを望む次第である。
 
 五年生で印象に残っているのは読書や勉強、電子回路への興味だけでなく、誰に教わるでもなく、体育関連である。足は速かったし、宙返りとか鉄棒に興味を持っていた。足の届く低い子供用の鉄棒の上で逆立ちをする。みんなが驚く。これが開花するのは中学生になってからである。
 
 六年生では担任が理科系の先生であった影響が大きい。もともと父も祖父も理科系で、私にもそのDNAは継がれているらしく、理科系の授業では非常な興味を示し、殆ど全部理解できたと思う。分らない事はきちっと質問をする。
 この担任・藤田先生のアダ名は<じーだん>、“爺ーだん” である、お年寄りの先生だったためのアダナである。この藤田先生の息子さんは現在、赤穂線の西大寺駅近くで藤田外科医院を開業しておられる。
 六年生での最大の思い出は、U字型の磁石の真ん中にパチンコ玉を浮かばせる事に熱中した事だ。このパチンコ玉はパチンコ店の駐輪場で拾ってきたものだった。傷の付いてない、きれいな玉だったので、<ちょうど真ん中にくればパチンコ玉は同じ力で両側から引っ張られるので、宙に浮くはずだ!>。何時間も夢中になってやった。結局ダメだった。
 
 楽しい思い出はいくつもあるが、わんぱく坊主の延長は水泳にもある。小学校時代を終わるにあたって、二年生の頃から思い出してみよう。
 吉塔(きとう)のウチのすぐ前は川である。田んぼに水を引く水路だが、毎年6月になると水田に水をいれるため水源のゲートが開かれて大量の水が流れてくる。子供が水遊びしてもよいのは、夏休みになってからと決まっていたので、待ちどうしかった。子供がやっと立つことの出来る程度の深さだから絶好の泳ぎ場所だ。男の子はみんな “ふりちん” だ。ふりちんという方言を知っている人は偉い(^_^)。
 ふりちんで泳ぐと水流が当たって気持ちがいい(^_^)。女の子がキャーキャーと(喜んで)騒ぐ。これが面白い。女の子はパンツを履いているがオッパイはそのまま。だってちっパイから(^_^)。これが二年生の頃の楽しい思い出だ。
 三年生になると、こうはいかなかった、みんな “フンドシ” である。そういえば平成天皇(現上皇様)も子供の頃、ご学友と海に泳ぎに行かれた記録映画を拝見したことがあるが、ふんどしであった。
 四年生になると、この川では物足りない。高学年や中学生にまじって、近くの、といっても畑や丘を越えた所にある人工の溜池ならぬ溜め湖まで行く。子供の足で30分以上はかかる。
 この湖も畑に水を引く水源である。秋から冬、春までは水を溜めるだけで何もしないので、“藻” や “浮き草”、 “キクモ” などが湖いっぱいに生息する。これを青年団の人々が子供達のためにきれいに取り払ってくれる。山から流れてくる水なので、非常にきれいだ。花崗岩の産地で知られる岡山は(全国あちこちにあるが)、鷲羽山でご存知のように岩が白い。道路も白い。上述の山から流れてくる水は濁らない。汚くない。非常にきれいだ。
 大きさは今風のプールで言うと縦横50mくらいを円形にした広さだろう。すり鉢状に掘られているので、かなり深い。深く潜ると水が冷たくなってくる。誰も一番深いすり鉢の底には潜った事はない。どういう魚がいるか分からないので怖いからだ。
 最も楽しかった遊びは、アタマからの飛び込みであるが、競うのはどの位遠くまで飛ぶかである。たんぼ道から助走をつけてダッシュして、端からジャンプ一番、最も遠くまで飛んだ者が勝ちだ。飛び込む端っこから水面まで垂直5mはある。だからかなり空中を飛んで頭から突っ込むことになる。大抵上級生には負けるが、僕だっていつまでも四年生ではない。中学生の頃には負けることはなかった。
 この水源湖では面白い経験もした。向こう岸までは容易に泳げるが、いつも蛇と出くわす。にらめっこしたら普通は蛇が逃げるのだが、たまに逃げないのもいる。そういう時の注意を上級生は教えてくれていた。決して指を水面から出すな、ということだ。指を蛙と間違えて噛み付いてくるからだ。立ち泳ぎしながら水をバシャバシャとかける。そうすると岸の草むらの中に逃げる。こっちの勝ちだ。