「ぼくわこれからまえわどんななるでしょう」とノートの切れ端に書いた小学生は中学生になった。どんな少年になったのだろうか。
 音楽が好きだったため音楽部に入り、アコーデオンを弾いていた。顧問の広瀬先生が好きだったのだろう「山小屋の灯」をよく弾いていたのを覚えている。
 この広瀬先生には痛い思い出がある。当時クラス委員で<風紀係>をやっていて、始業ベルが鳴ったら教室に入ってなければならない規則があったので、それを見届けて、廊下に居る者がいたら教室に入るよう注意する。
 ある日、廊下には誰もいないので、自分の教室に戻ろうとした矢先、広瀬先生が僕を見つけて、「何をブラブラしているんだ!」と、いきなりぶん殴られた。メガネはすっ飛んで、僕もドーンと床に倒れた。「風紀係りなので見回りして終わったところです」と、殴られてゆがんだ口をやっと開いて小さな声で言うことができた。広瀬先生はバツが悪かったのか、何も言わないで職員室の方に去って行った。2〜3日顔の左半分が腫れていた。母が心配して「どうしたん、その顔」と言ったが、ぼくは「ああ、ちょっと転んで」とだけ言っておいた。
 現在ならPTAや母親が教育委員会に訴えて先生は処分されるほどの事件だと思うが、当時はそういう時代ではなかったし、僕はこんな事で母親に “泣き言” を言うような少年ではなかったようだ。
 
 メガネの話が出たので、ここで大きな思い出を書いておきたい。以下は、コンタクトレンズや遠視、老眼とは全く異なる近視の話である。
 年生のある日、母に「黒板の字がよく見えなくなった」と言ったら、飛び上がる程びっくりして「岡山に有名なメガネ店があるので、そこに行こう」と有無も言わさず私を翌々日か連れて行った。大きなメガネ店だった。そこでの出来事。
 メガネ屋さんは医者ではない。お客さんがよく見えるようになりさえすればそれでいい。そういう対応の大型店だった。
 メガネレンズを取り替えて、よく見えるレンズ番号をカルテに記録する独特のレンズ掛けメガネで行う。更に “度” だけではなく、乱視のテストもする。方眼紙のような掛け軸を見せられて「どうですか?どの線もくっきりと見えますか?」と聞く。僕は「何となく濃い、薄いがあるような気がします」と正直に言うと「乱視です」と別のレンズを、そのレンズ掛けに入れたり、ほかの番号のレンズを入れたり、いくつも取り替えて、そのつど「方眼紙はどうですか?」と聞く。大して違いは無かったが、「まあ、これが一番はっきりするナ」と思ったので、「これです」と答えたら、その番号をカルテに書き込んだ。この時、左右の近眼レンズ番号が異なっていた。これが後々の失敗の元凶だったと思うが、そもそもこの程度で乱視補正レンズなんかにしなければ良かったのにと、悔やまれるところだ。僕の目を軽いとはいえ乱視にしたのは、そのレンズのせいだと思っている。
 
 そしてメガネフレームも選んで購入。全部でいくらだったか僕は知らない。
 何時間待ったか分からないが、「出来た」というので、二階に連れて行かれて、そのメガネを掛けたら、遠くの方がもの凄く良く見える。生まれて初めて掛けた “メガネ” である。ところが、近傍の、そう1m2mほど前まではボケていてよく見えない。ましてや目の前の本など読めない。係の女の人に「近くが見えないし、アタマがフラフラします」と言ったら、「慣れますよ。30分ほど本を読んで居てください。慣れたらお帰りになっていいです」であった。これが僕が本格的に近眼になった初日である。親兄弟、親戚などに近視は一人もいない。老眼は、さすがにお年寄りの親戚にはいたが、近視眼はいない。
 その後、近視は進む一方で、黒板がよく見えなくなると、そのつどメガネを変えた。大学生になるまで、つまり上京するまで、こうだった。私の近視歴は、<あの日から始まった>と気が付いたのだが、もう遅い。と言って母を恨(うら)んだりする理由はない。母は懸命に僕のために奔走したのだから。
 
 私は現在本を読む時と、パソコン操作をする時はメガネを掛けない。TVを見るときは3mほどの距離なので、それでちょうど目に負担が掛からない程度の度数のメガネと、外出する時に使用するメガネ(度数は控えめ)のつを持っている。これらは近所のメガネ屋さんで作ったものだ。既に何十年も使っている。
 
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 話を自伝に戻そう。1年生だったと思う。広瀬先生には “痛い思い出” だけではない。生涯の僕を決めたと言える数分間の陶酔状態を経験した。ある日レコードを聴かせてくれた。生まれて初めて聴いたレコードだった。フルトベングラーだったと思うが、ウェーバーの『魔弾の射手』序曲。竹針を新品に取り替えて針をレコードに置いた。雑音の中から聞こえるその音楽!
<何という美しい旋律なんだ!>、身体中がゾクゾクっとした。本当に授業中とは思えない陶酔状態におちいった。これが私のオーディオに生涯を掛けた初日だったに違いない。
 
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 運動が好きで、特に鉄棒が得意だったため、体操部に入り、本格的な体操競技の練習を始めたのも中学校に入ってからだ。体育の先生が体操競技に長けた人だったことの影響も大きい。
このことは後の高三のとき、国体の予選に出場したことをホームページ(17)M物理学名誉教授 VS 窪田登司 に写真入りで書いたのでご覧になると幸甚の極みである。
 宇宙が好きだったため天文部に入り、夜は天体観測で明け暮れていた。これも3年間、いや高校に入ってからも続いた。小口径で焦点距離の短い、つまり倍率の小さな望遠鏡だったが、宇宙は自分を呼んでいるようだった。
拙筆のホームページ(07)同時の相対性という奇妙な話 に京都の花山天文台に合宿で行った時の写真もご覧になると嬉しい。高校1年生である。このときは天文台の宿直室に泊めてくれた。みんな雑魚寝(ざこね)であったが、楽しかった。
 宇宙といえば読書でも宇宙探検する本を読み漁った。ちなみに(33)長編科学小説「火星消滅」の出だしの一行「博士、冥王星の軌道傾斜角は確かに従来の十七度から十五度くらいに・・・・」は中学2年生の時に、理科のノートの端に授業中に書いたものだ。この時、すでにSFの構想はアタマの中にあった。未知の天体が太陽系内に猛スピードで入ってきて、火星と大衝突し、双方がバラバラに飛び散って小惑星になるというものだった。
 何十年も経った1993年の夏、相対性理論も入れて長編ものになったが、一気に書き下ろした拙稿である。現在も、その1行を書いているノートがある。母が保管していた。
 
 読書好きの件は先に述べたが、図書部にも入って、司書の女の先生と二人で夜遅くまで、そのお手伝いをしたこともある。
とても可愛がってくれた。綺麗な人だった。胸の膨らみを見てドキッとしたり、近くに寄るといい匂いがした。
<心ときめく>という言葉がある。まさにそれだった。思えば僕の初恋の人だったかも知れない。3年生の夏休みが終わって、9月に登校したら、その先生はいなかった。担任の片岡先生に訊いたら「結婚して学校を辞めたんだ」。「・・・」喉が詰まって何も言えなかった。淡い恋心を抱いていた少年の小さなショックであった。
 
 戦後8年経った中学生時代には世の中落ち着いてきて、図書館にも多数の本が並ぶようになった。読み物の中心は依然として伝記もので、読んだことのなかったアインシュタインもあった。たかし少年の心を捉えたのは「相対性理論を本当に理解できる科学者は世界に3人といないだろう」と書かれていたことだ。相対性理論の “その字” も知らない少年が受けた衝撃である。この件は高校生時代編で詳しく述べたい。
 
 何年生の時か定かではないが、学校の成績、勉強の事で担任の片岡先生から貴重なアドバイスを(個人的に)受けたのも、ここで書いておきたい。次のように仰った。
「窪田君は小学校時代から成績はクラストップで、稀有な才能があると内申書に書いてあった。しかし、それに甘えてはいけない。知らない事を知ろうとする努力を怠ったら、一気に落ちて行くものだ。私の言うことが分るかな」
<そうだ、ぼくは好きな事ばかりやって、本来の学校の勉強がおろそかになってはいないか>
「はい先生、分りました」。
 学業に関して努力を怠らなかった。どんなにクラブ活動をやっていても(音楽部、体操部、天文部、図書部の四部を掛け持ち)、時間のある限り勉強はやっていた。
 
 卒業式には男子1名女子1名の2名に表彰状が贈られた、『・・・成績優秀にして衆生の模範となった・・・昭和31年3月16日 岡山県西大寺市立山南中学校長 柴田利男』とある証書が、今書いている机の前の壁に飾ってある。上京する際、持ってきた。一生この時の感激を忘れるな、と。
 
 自慢しているのではない。僕なんか自慢できるものなんて一つもない。今後の大地震や大災害で家もろとも無くなってしまう事を考えて、biglobeにホームページとして残して貰いたいだけである。料金の支払いは娘、孫と受け継いでいく事を遺言にしておくつもりだ。
 
 次の写真は3年生の時(卒業する年)、業者が「航空写真はいかがですか」と営業に来て校長がOKということで、人文字で写したもの。欲しい者だけが購入。母にねだって買って貰った。
 いかに田舎かが判ろうというもの。こういうところで遊び、学んできた。
 
  現在は山南中学校は閉校となり(2022年令和月)、日より新たに岡山市立 山南学園と名称が変わり、小中校一環の統合校となっている。ネットで検索してご覧になれば幸いである。母校の更なる発展に期待したい。