「ぼくわこれからまえわどんななるでしょう」とノートの切れ端に書いた小学生は中学生になった。どんな少年になったのだろうか。
 音楽が好きだったため音楽部に入り、アコーデオンを弾いていた。顧問の広瀬先生が好きだったのだろう「山小屋の灯」をよく弾いていたのを覚えている。
 この広瀬先生には痛い思い出がある。当時クラス委員で<風紀係>をやっていて、始業ベルが鳴ったら教室に入ってなければならない規則があったので、それを見届けて、廊下に居る者がいたら教室に入るよう注意する。
 ある日、廊下には誰もいないので、自分の教室に戻ろうとした矢先、広瀬先生が僕を見つけて、「何をブラブラしているんだ!」と、いきなりぶん殴られた。メガネはすっ飛んで、僕もドーンと床に倒れた。「風紀係りなので見回りして終わったところです」と、殴られてゆがんだ口をやっと開いて小さな声で言うことができた。広瀬先生はバツが悪かったのか、何も言わないで職員室の方に去って行った。2〜3日顔の左半分が腫れていた。母が心配して「どうしたん、その顔」と言ったが、ぼくは「ああ、ちょっと転んで」とだけ言っておいた。
 現在ならPTAや母親が教育委員会に訴えて先生は処分されるほどの事件だと思うが、当時はそういう時代ではなかったし、僕はこんな事で母親に “泣き言” を言うような少年ではなかったようだ。
 
 話は前後するが、1年生だったと思う。広瀬先生には “痛い思い出” だけではない。生涯の僕を決めたと言える数分間の陶酔状態を経験した。ある日レコードを聴かせてくれた。生まれて初めて聴いたレコードだった。フルトベングラーだったと思うが、ウェーバーの『魔弾の射手』序曲。竹針を新品に取り替えて針をレコードに置いた。雑音の中から聞こえるその音楽!
<何という美しい旋律なんだ!>、身体中がゾクゾクっとした。本当に授業中とは思えない陶酔状態におちいった。これが私のオーディオに生涯を掛けた初日だったに違いない。
 
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 運動が好きで、特に鉄棒が得意だったため、体操部に入り、本格的な体操競技の練習を始めたのも中学校に入ってからだ。体育の先生が体操競技に長けた人だったことの影響も大きい。
このことは後の高三のとき、国体の予選に出場したことをホームページ(17)M物理学名誉教授 VS 窪田登司 に写真入りで書いたのでご覧になると幸甚の極みである。
 宇宙が好きだったため天文部に入り、夜は天体観測で明け暮れていた。これも3年間、いや高校に入ってからも続いた。小口径で焦点距離の短い、つまり倍率の小さな望遠鏡だったが、宇宙は自分を呼んでいるようだった。
拙筆のホームページ(07)同時の相対性という奇妙な話 に京都の花山天文台に合宿で行った時の写真もご覧になると嬉しい。高校1年生である。このときは天文台の宿直室に泊めてくれた。みんな雑魚寝(ざこね)であったが、楽しかった。
 宇宙といえば読書でも宇宙探検する本を読み漁った。ちなみに(33)長編科学小説「火星消滅」の出だしの一行「博士、冥王星の軌道傾斜角は確かに従来の十七度から十五度くらいに・・・・」は中学2年生の時に、理科のノートの端に授業中に書いたものだ。この時、すでにSFの構想はアタマの中にあった。未知の天体が太陽系内に猛スピードで入ってきて、火星と大衝突し、双方がバラバラに飛び散って小惑星になるというものだった。
 何十年も経った1993年の夏、相対性理論も入れて長編ものになったが、一気に書き下ろした拙稿である。現在も、その1行を書いているノートがある。母が保管していた。
 
 読書好きの件は先に述べたが、図書部にも入って、司書の女の先生と二人で夜遅くまで、そのお手伝いをしたこともある。
とても可愛がってくれた。綺麗な人だった。胸の膨らみを見てドキッとしたり、近くに寄るといい匂いがした。
<心ときめく>という言葉がある。まさにそれだった。思えば僕の初恋の人だったかも知れない。3年生の夏休みが終わって、9月に登校したら、その先生はいなかった。担任の片岡先生に訊いたら「結婚して学校を辞めたんだ」。「・・・」喉が詰まって何も言えなかった。淡い恋心を抱いていた少年の小さなショックであった。
 
 戦後8年経った中学生時代には世の中落ち着いてきて、図書館にも多数の本が並ぶようになった。読み物の中心は依然として伝記もので、読んだことのなかったアインシュタインもあった。たかし少年の心を捉えたのは「相対性理論を本当に理解できる科学者は世界に3人といないだろう」と書かれていたことだ。相対性理論の “その字” も知らない少年が受けた衝撃である。この件は高校生時代編で詳しく述べたい。
 
 何年生の時か定かではないが、学校の成績、勉強の事で担任の片岡先生から貴重なアドバイスを(個人的に)受けたのも、ここで書いておきたい。次のように仰った。
「窪田君は小学校時代から成績はクラストップで、稀有な才能があると内申書に書いてあった。しかし、それに甘えてはいけない。知らない事を知ろうとする努力を怠ったら、一気に落ちて行くものだ。私の言うことが分るかな」
<そうだ、ぼくは好きな事ばかりやって、本来の学校の勉強がおろそかになってはいないか>
「はい先生、分りました」。
 学業に関して努力を怠らなかった。どんなにクラブ活動をやっていても(音楽部、体操部、天文部、図書部の四部を掛け持ち)、時間のある限り勉強はやっていた。
 
 卒業式には男子1名女子1名の2名に表彰状が贈られた、『・・・成績優秀にして衆生の模範となった・・・昭和31年3月16日 岡山県西大寺市立山南中学校長 柴田利男』とある証書が、今書いている机の前の壁に飾ってある。上京する際、持ってきた。一生この時の感激を忘れるな、と。
 
 自慢しているのではない。僕なんか自慢できるものなんて一つもない。今後の大地震や大災害で家もろとも無くなってしまう事を考えて、biglobeにホームページとして残して貰いたいだけである。料金の支払いは娘、孫と受け継いでいく事を遺言にしておくつもりだ。
 
 なお私は高校時代編でも述べたいが、学校の勉強はしっかりやったが、いわゆる “受験勉強” というものはした事はない。一切やった事はない。<学校の授業>と<読書>、<クラブ活動>だけである。もちろん “塾” にも通ったことはない。経済的に、そんな余裕のある家庭ではなかった。