5月2日朝
「恐いわ、わたしたちどうなるの」
武田美枝子は、茅場修を見つめながら言った。茅場は落ち着いた口調で
「たぶん死ぬだろう」
と、武田家の2階のベランダから、真っ青に澄み渡った空を見ながら言った。
「いやよ、そんなの。どうしてそんなに落ち着いていられるの」
だんだんと迫ってくる時間、火星と新生惑星の大衝突に、あと二時間という緊張感が震えとなって美枝子を襲う。しかし、意外と落ち着いている茅場に対して美枝子は、この人と一緒なら、という救いのような淡い気持ちを持つのだった。
「いやよ、そんなの。修さん、恐くないの?死ぬの」
「恐いさ、ぼくだって。死にたくないよ」
「じゃ、どうしてそんなに落ち着いていられるの?」
そっと、茅場の手を取り、顔に当てながら、茅場を見上げるが、いたたまれない気持ちで大きな胸に顔を埋めて言った。
「しかたがないんだ。ぼく達ではどうすることもできない天体現象なんだ。」
「津波が襲ってくるって?・・・また強風が荒れ狂うって?・・・どこへ逃げてもだめなのにね。・・・でも、わたし・・・死ぬときは修さんと一緒に死にたい。そして白浜さんのところへ行こう・・・」
遠くでテレビのアナウンサーの絶叫にも似た声が聞こえる。
「みなさん、大丈夫です。火星と新惑星が大衝突しても、引力はそんなに変化しません。デマや間違った判断でパニックを起こさないようにして下さい。・・・スタジオに藤川教授をお招きしていますので、お話を続けて戴きます。・・・先生、前の新惑星誕生の時は、小惑星をどんどんと引き寄せて大きな惑星に成長したわけですが、あの時は地球にも引力の変動があり、地軸が変化しましたね。そのため気象変動や地震が頻繁に起きたわけですが今度の、そう二時間後に起きる大衝突は、あの時のような異変は起こりませんね」
念を押すようにアナウンサーは藤川教授に話を求めた。
「大丈夫です。なぜ大丈夫かと言う理論的な根拠があります。それは新惑星の中心核になったのは、ご存じの八カ月前に突如表れて冥王星の軌道をも狂わせた、大変重たい未知の天体だったわけですが、その高密度の天体の持つ引力そのものが、異変を起こしたのであって、大きく成長したからではないからです。小惑星はもともと、その軌道にあったのですから引力圏としては安定なものであるはずです」
「なるほど、もともとあったものに、余計な大きな引力を持つ天体が来たために異変が起きたのであって、それが落ち着いた今では、たとえ大衝突によって、火星と新惑星が半分づつになったとしても、全体の引力は変わらないという事ですね。先生のお考えでは火星と新惑星は合体するわけですが、その場合ももちろん全体の引力は変わらないということですね」
「そうです。だから余計な心配をするよりも、大衝突の瞬間を、まさに劇的な瞬間を皆さんで見ようではありませんか」
藤川教授はいささか興奮気味に、さも自分の説は絶対的だと言わんばかりの口調で力説した。事実、世界の殆どの科学者が、そう思っているし、支持されている予想であった。
茅場は聞こえてくるテレビの音に、
「そうじゃないんだ。運動エネルギーも消滅してしまうのに!、そのための引力変動に気が付いていないんだ!」
と、早口で独り言を言った。
「え?」
と、美枝子は茅場を覗いたが、それ以上は聞かなかった。目と目が合い二人は強く抱き合った。重ねた唇が熱く濡れていた。
階下では武田博士も、夫人とテレビを見ていた。相変わらずアナウンサーの興奮した声が聞こえる。
「皆さんたびたび申し上げているように、あと・・・・えー・・・・一時間二十四秒後に新生惑星と火星の劇的な大衝突が起こります。しかし、これは軌道の計算上の事で、実際には光が地球に届くまでには時間がかかり、現在火星まで7500万キロメートル離れていますから、衝突後約4分10秒後に見えることになります。世界中の天文台の望遠鏡が火星に集中しています。もちろん日本では現在日中ですから、見ることは出来ませんが、わがNテレビはチリのS天文台から、もちろん生々しいナマ中継でお送りします。・・・・私たちは惑星の誕生という人類誕生以来一度も経験したことのない壮大な天体のドラマを目の当たりに見ました。しかしその新生惑星が、こともあろうに火星に衝突するとは何ということでしょう。目撃できる私たちは全く幸せというほかありません」
「違うんだ!4分10秒後に見えるなどと!」
吐き捨てるように博士は言った。
「あなた、もういいのよ。あなたの説を信用せず、藤川さんがマスコミに幅をきかせているのは茅場さんも知っていることだし」
夫人は博士を宥めるように言った。ちょうどその時、2階ベランダにいた茅場修と美枝子が降りて来た。
「何をお話なさっていたの」
美枝子はすっかり落ち着きを取り戻し、いつもの明るい笑顔に戻ってソファーに腰を下ろしながら言った。
「テレビの解説が・・・・」
そこまで言いかけた夫人に、指でちょんちょんと合図しながら博士は、ちょっと笑みを浮かべて、言った。
「美枝子、おまえのことだよ」
「まぁ、またわるい噂ね」
「そうじゃないんだ。おまえには本当にいい父親ではなかったようだよ。父さんは」
「何を言い出すのよ。なかったようだ、なんて、それって過去形よ。まだ地球が変になるとは決まってないじゃない」
ちょっと曇りがちの顔になって、それまで少し茅場とは離れていたのを、傍に寄りながら言った。
「うん。・・・・父さんは仕事、仕事、研究、研究で、家のことには全く頓着せず、全部母さんまかせで、いつのまにか美枝子がこんなに大きくなった、という感じなんだ。1才の時か、いつか忘れたけど、よちよち歩きをし始めた頃、母さんが美枝子のことをみーちゃんと呼んでいるのを聴いて、猫みたいな呼び方だな、と笑いながらも、心の中で、そうか、美枝子はみーちゃんって呼ばれているのか、と改めておまえをじーっと見たのを覚えている。可愛かったよ。それほど父さんはおまえのことに構っていなかったとも言えるんだ。・・・・2才の時のボールペン事件を覚えているか?」
「覚えてる、覚えてる。ゼッタイ忘れないわ」
「何?それ、ボールペン事件って」
茅場が興味深かそうに聞いた。
「ううん、事件っていうほどのことではないの。そういうことがあったということのなのよ。わたしが4才の時にね。パパが原稿を書いている傍で遊んでいたんだけど、ふと机の引き出しの中を見ると、いっぱいごちゃごちゃある中に、ロッドアンテナみたいにつつつっと引き伸ばせるステンレスの棒で、先がボールペンになっているペンを見付けたの。あっ、それ、ギターの中に落っこちたペンだ、と叫んだものだからパパがびっくりして、よく覚えていたなーって頭をなでてくれたの。じつはね、その2年まえの2才の時に、2才よ、2才。まだ言葉もはっきり話せない頃よ。私がそのペンで遊んでいたら、ギターの中に落っこちたの。それが取れなくて、きっとパパに叱られる、どうしようどうしようと、もう半分泣けそうになっていたところをパパに見つかって、・・・・」
ここまで話した美枝子は博士の方をちらっと見た。感慨深かそうに、じっと目を閉じていたが、話が途切れたので、やさしい目を開け、続きを話始めた。
「ギターを逆さまにして、揺らしてペンを取り出した。簡単に取れるんだけど、美枝子にとっては、大変な事件で、とくに私に叱られる、というのが頭の中で渦をまいたんじゃないかな。それはそれで終わった一つの事件だったのだけれど、その2年後、4才の時に、いま美枝子が言ったように、そのペンを偶然に引き出しの中から見付けたんだよ。4才の子が2才の時のことを、よく覚えていたなーと本当に感心したものだ」
「わたしは、とにかくパパに叱られると思ったの。その強烈な印象がペンとともに忘れられなかったのね。・・・・父は恐いの、怒ったら。癇癪持ちだし」
と、茅場に訴えるように言った。
「そうですか?ぼくはそうは思いませんが」
「でしょう。外とウチでは大違い」
「おい、おい、妙なところでバラスんじゃないよ」
「だって、幼稚園の時、こんなことがあったのよ。ママが夕食の支度で忙しそうにしていたので、パパの部屋に行って、パパーって傍に行こうとするやいなや、うるさい!ママの所に行ってろ!パパは原稿で忙しいんだから!と頭から怒鳴られて泣けそうになったわ。パパ、覚えてないでしょう。このこと」
「いいや、後でママに聞いた。それもお前が中学生になってからママに言ったそうだね。私もあの時の事をはっきり覚えている。本当に泣いていたそうだ。・・・・わるいことをしたと思っている。あの頃は、相対性理論は間違っている、という核心に触れる部分の研究をしていたので、神経がぴりぴりしていたんだ。本当にすまないことをした。・・・・」
博士は視線を皆から離すようにして、その当時を思い出すかのように自分の机をじっと見つめた。
部屋の空気がちょっと湿っぽくなったのを変えるように、博士は急に明るい声で、
「幼稚園の時、秋川渓谷に、町の児童会でバス旅行したのを覚えているかな、美枝子の楽しそうな顔を、今でもはっきり思い出すよ」
と、テーブルの上の茶わん類を意味もなく動かしながら、こちらに来るように誘うような様子で言った。
「そう、楽しかったわ。冷たい川の中に入った時の写真があるわね。百万ドルの笑顔だってパパが言った、あの写真。あれは紛れもなく私なのね。遠い昔のことのように思えるわ・・・・」
いつの間に持ってきたのだろうか。夫人が美枝子の小さい頃の写真アルバムを持ってきて、茅場に見せようとしていた。
「いやよ、恥ずかしい。おかっぱ少女」
「そんなことないよ。可愛いよ」
茅場修はちょっと照れながら言った。この日、この瞬間が美枝子さんにもあったのだ、まさか、このぼくと結婚してくれるとは、夢にも思わない、あどけない少女時代があったのだとアルバムをめくりながら熱い思いがこみあげるのだった。
・・・しかし間もなく、この太陽系で大異変が起ころうとしている。
「あのバスの中で、歌を歌う順番がきて、父さんとデュエットで歌ったのは何だか覚えているか」
博士は、最近はすっかり歌を歌うことも忘れて研究に没頭している自分に言い聞かせるように言った。
「覚えているわよ。好きよ、大好き、
Edelweiss Edelweiss
Evry morning you greet me
Small and white Clean and bright
You look happy to meet me
Blossom of snow,may you bloom and grow
Bloom and grow forever
Edelweiss Edelweiss
Bless my homeland forever
途中から博士も、茅場も一緒に歌うが、夫人は喉が締め付けられるような感情の昂揚から声にはならなかった。幸せなひとときを噛みしめた。何年ぶりで、こうやって一緒に歌ったことだろう。何事も起こらないで欲しい、どんな優秀な科学者でも間違いはある、夫の説が間違っていてくれたら・・・・その方がいい。科学者としての地位が失われても、その方がいい。美枝子と修さんを一緒にさせたい、来年にはと話合ったばかりなのに。祈る気持ちで涙をこらえるのだった。
テレビのざわめきが変わった。
「皆さん、いよいよあと2分と迫りました。新生惑星と火星が劇的な大衝突をします。もちろん実際に見えるのは、4分10秒後ですが、全世界の見守る中、劇的な大衝突を起こします。・・・・藤川教授、本当に大丈夫ですね。地球には影響はないですね」
アナウンサーが念を押し、確かめるように、スタジオにゲストとして招かれている藤川教授に言った。
「大丈夫です。先程も言いましたように、太陽系全体の質量は変わらないのだから、引力の変動はありません。仮にあったとしても小さいだろうし、その引力の影響はアインシュタインの相対性理論によって、光速で伝わって来るから、衝突後4分10秒後です。その重力影響を検知する装置をわれわれの研究室で開発して、世界各地に設置してあります。多分微小な変動だけです」
と、藤川は自信に満ちた態度と語り口できっぱりと応えた。
万有引力は何もニュートンが発見したわけではない。人類に思考という脳細胞が発達した時から、万人が、物が上から下に落ちる事を不思議に思ってきた。ニュートンは物が落ちて来るのも、月が地球の周りを、そして地球が太陽の周りを回るのも同じ現象であることを発見したのだ。月は地球に常に落ちている。その力と遠心力で外へ飛んで行ってしまう力が釣り合っているから、くるくる回っているわけである。この現象を微分積分学という数学を使って記述した。それがニュートンの業績である。万有引力とは何か、という問いに答えたわけではない。
・・・これに対して現代理論物理学は、相対性理論と量子力学をミックスした“相対性・場の量子論”という理論によって、万有引力とは重力子という媒体が光速で両物体を行き来して相互作用を及ぼしているものと結論付けている。したがって相対性理論によれば、重力も光速で伝わるとされている。
・・・しかし本当にそうであろうか。
夫人は博士の方を見た。
美枝子は茅場の方を見た。
博士と茅場は目が双方を射るようにばちっと合った。
「あと二分だ!四分もあとではない!」
博士は喉から絞りだすような、かすれた低い声で言った。
「はい。先生の理論が正しいと信じています」
茅場修は博士の理論を固く信じていた。<相対性理論は間違っている!>、心臓は早鐘のように打つ。
2分後という武田博士と茅場の会話、そして異様な2人の視線と引きつった顔。夫人と美枝子は直感的にもうだめだと悟った。もうどんなになってもいい、幸せな人生だった、この人と一緒なら死んでもいい、2人は同じことを考えた。美枝子はしっかりと茅場の腕にしがみついた。夫人も博士の傍に寄った。
美枝子が震えながら歌いだした。
「エーデルワイス エーデルワイス エブリ モーニング ユー グリートゥ ミー スモール アンド ホワイトゥ クリーン」
その時だ!ちょうど二分後。一瞬全天体が真っ暗になったようだった。何万分の一秒という瞬間の出来事だ。本当に地球全体がガクッと振動した。その振動は直流域のステップパルスから、超高周波、マイクロ波、赤外線、紫外線、X線すべての周波数を含んだ猛烈なエネルギーを持った振動だった。振動というと、伝播をすぐ考えるが、この地球の振動は一瞬のものだった。伝播したのでなく、あらゆる場所その場が動いた。その強烈なエネルギーによって、地球上の全生命体の細胞が一瞬にして破壊された。海底深く生息している動植物も、病院や研究室で培養されている細菌やウイルスも、すべての生命体の営みが止まった。
そして地球の軌道は大きくズレて、自転も変わった。そのため海水は怒涛のごとく陸地を舐め回し、海水の渦巻きがそのまま上空へ竜巻となって荒れ狂い、地球上のありとあらゆるものは破壊された。通常では決して起こることのない海水の共振現象も生じた。海の波は通常ではどんな嵐や台風でも、30メートルを越すことはまずない。しかし今や太平洋共振、大西洋共振が発生。太平洋では波高値90メートル、北大西洋では130メートルもの高さの波が発生し、そのまま陸地を襲った。
万有引力は光速で伝わるものではなかった。万有引力は物体が空間に存在すれば、自然に備わる属性であるのだ。引き合う力に媒体は必要ない。力が伝わるという言い方も正しくない。万有引力は、物体があれば、すでにそこに属性として存在するものなのだ。したがって2つの物体が引き合っている場合、他方が瞬時に無くなれば、もう一方は瞬時に、すっ飛んでどこかへ行ってしまう。いまや火星が新生惑星と衝突してばらばらになってしまったが、地球がどこかへすっ飛んでしまわないのは、全質量は保存されているからである。この部分は藤川教授の指摘した事が少し当たっていた。しかし、引力の変動は瞬時に地球を襲った。光速ではなかったのだ。
武田博士の理論は、もし引力が光速で伝わるものであれば、宇宙に散在する渦巻き星雲の渦は、あのようなごく自然な渦状にはならないことを示していた。何十万光年もの直径をしている星雲の渦も、静かな水面にインクを落として回転させて出来る渦も、全く同じである。この極めて単純な自然現象こそが、全宇宙を支配する物理法則であり、真理である。武田博士の方程式を白浜宏美はコンピューターでシミュレーションしたことがあったが、もし引力が何十万年もかかって、やっと渦巻きの反対側に伝わるものだとしたら、現在見られるような渦巻き星雲は全く存在せず、きわめてランダムな、ちりじりの星ぼしになることを示していた。
さらに超銀河団といって、銀河の集まりが互いの引力で手を繋ぐように集団化しているのが観測されているが、これも武田博士の理論によって可能な、星雲の形態である。
光速というのは、早いようで本当は自然界ではじつに遅いスピードなのである。1マイクロ秒でたったの300メートルしか進まない。こんな遅いスピードで引力が伝わるなど、茅場修にも到底考えられない事であった。これが武田博士の理論を支持し協力してきた信念であった。
・・・終わった、すべては終わった。
その後、新生惑星と火星の大衝突による相互の破片は、隕石となって地球や金星などに雨のように降り注ぎ、またティティウス・ボーデの法則で計算される安定軌道には多くの新生小惑星が太陽の環となって回り始め、太陽と木星のラグランジュ点には、以前のトロヤ群のような小惑星群が生まれた。
また、引力の激変は地球の衛星である月の軌道をも狂わせ、徐々に地球に接近し、かつては38万キロの彼方にあった月は、ついに1万5千キロ、ロシュの限界にまで接近し、大爆発とともに、その破片は地球を輪になって回り始めた。土星に次ぐ美しい輪になったが、いまや誰もこの天体を見るものはいない。
太陽系からは一切の生命体が消滅した。人類のような文明を持つ生物が再び地球上に現われるのはいつの日か。
完
(1993年8月)
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