幼稚園のころはチャンバラごっこ、小学校にあがっても、遊ぶことしかアタマにない。教科書などない。先生がガリ版刷りのプリントを配って1+1は2と教える。そんな事見ればわかる。
私がワルがきであった事実を二つほど書いておこう。
一年生のとき、ある授業で先生の声が大きく、何度も同じ事ばかり喋るのでうんざりして、隣にいる子と「授業が終わったら裏庭でチャンバラやろう」とか「撃ち合い(銃撃戦のこと)をやろう」と、これまた先生に負けないくらい何度も小声ながら話していたら、ついに先生に怒鳴られた。
「クボタ!何をさっきから喋りまくっているのだ!こっちに来い!」と教壇の上に立たされた。それだけならまだしも、くどくどとお説教が止まらない。ぼくはこういう場合のコツを知っていた。ワルがきの知恵というのだろうか。黙って下を向いて反論というか友達との状況を一切口にしない。ひたすら下を向いている。見切りを付けた先生は怒鳴った。「廊下に立ってろ!」
言われることはきくしかない。しぶしぶ廊下に出て立っていた。左右を見たら、授業中だから誰もいない。しばらく立っていたが、眠くなったのでしゃがみ込んでウトウトと居眠りをし始めた。と、その時、戸が開いて先生がきた。「誰が寝ろと言った!立て!」
これには参った。どのくらい立っていたのか分らないが、<帰ろう>と思い立ち、そうっと先生に気付かれないように身をかがめて廊下を歩いて外に出て上履きのままウチに帰った。
帰ったら母と親戚のおばさんがいた。僕もよく知っている “幸田のおばさん” だった。二人、殆ど同時に「たかしちゃん、どうしたん。授業中じゃろう」。「廊下に立たされたんで逃げて帰ってきた」とボソッと言ったら、呆れかえって、あとは何を言われたか、どうなったか覚えてない。多分、母が学校に赴いて先生に詫びをしたのだと思う。次の日、何食わぬ顔で登校したら、自分の布の肩から掛ける袋かばんや筆記用具などは、そのままあって、先生も何も言わなかった。
現在では、児童あるいは生徒を廊下に立たせるというのは “体罰” とみなされて教育委員会やPTAから担当先生が注意されるらしい。上記逸話は古き良き時代と私は思う。僕は立たされた事を何とも思ってないし(^_^)。
私がワルがきであった事実をもう一つ。一年生だった。何匹かウサギを飼っていたのだが、与える餌がなくなり、近所の畑の栽培している青菜を盗もうとしたことがある。
畑の中にいるところを家主に見つかった。そのおっさんは鎌(カマ)を持って私に近づいて来た。<ヤバイ!>、逃げた、逃げた!一目散に逃げた。当時大邸宅と謂われた親戚の窪田家の塀をよじ登り内部に侵入。しばらく隠れていたが、若奥さんに見つかって「たかしちゃんかのオ」と近寄ってきた。これまた<ヤバイ!>、反対側の塀までダッシュ。乗り越えて裏の畑から丘、山の方に必死になって逃げた。身を隠して何時間経ったか、夕暮れ過ぎて、あたりは暗くなってきた。
腹も減ってきた。観念した私はすごすごと家に戻った。すでに畑のおっさんは事情を母に説明していたようで、母は事の一部始終を知っていた。
泥だらけの服を見ても、怒ることはなく、「一緒に行ってあげるから謝りにいきなさい」と言う。僕は「きょうてい(怖い)から行かん」と言うと母は「どうして、きょうてんなら。悪い事をしたから、きょうてんじゃろ、わかっとんなら行かれエ」と僕の手を取るので、結局二人で謝りに行った。ぼくは「すんません」と言っただけであったが、母は頭を何べんも下げて許しを乞うていたのを覚えている。
母はもともと優しい人であったが、この時ばかりは許せなかったのだろう、家に帰ってから僕を倉庫になっている屋根裏部屋に閉じ込めた。
追加します2021.06.14/親しい友人から次のような電話があったので、自伝の一部として記しておきます。
「・・・屋根裏部屋に閉じ込められた時、窪田さんは母親に対して反感を持つとか、反発するとか、何かの感情を持たなかったか」というものです。いろいろ懐かしさもあり、話をしましたが、要旨だけをまとめて書いておきます。
学校の先生に怒鳴られたり怒られたりした時は、<また怒られた>程度で済むのですが、この屋根裏への閉じ込めは、小1とは思えないほど反省の念があったようです。必死になって逃げたのが、それを示しています。だから閉じ込められた時、私は何も言わず、じっとしていました。電気を点けてくれていたので暗くはなかったですが、お腹がすいたのは辛かったです。でも我慢しました。<ぼくが悪いんだ>と。オシッコが出そうになったのを我慢したのも辛かった。何時間閉じ込められたかは分からないが、やがて下ろしてくれて真っ先に行ったのがトイレだったのを鮮明に覚えている。ご飯もおいしかった。でも何を話したかは全然覚えていない。多分、母も、何も言わなかったと思う。
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この屋根裏部屋には中学生の時だったか特別な思い出があるのだが、§9の大学時代編の後半で述べたい。
当時の優しかった母
ウサギの餌は普段は上述の丘の野っ原から葉っぱを刈ってくる。この丘は広大な土地で所有者は村か、県か、国有地か分からない。子供たちの格好の遊び場所だった。
この丘からは瀬戸内海が一望できる。四国も見える。真南に有名な観光名所“屋島”が見えるはずだが、ちょうど途中に大きな島があり、残念ながら見えない。この丘には特別な思い出があるのだが、三十代中頃の話だ。後ほど書きたい。
この話に出てくる親戚の窪田さんは、ウチとどういう関係なのか、よく分からない。家系図がある筈だから探してみようと思う。
僕が東京に出てきて数年後結婚して長女が生まれて2歳のとき、風邪を引いて中耳炎になり、田舎の母に相談したら、「立川の伊勢丹の近くに窪田耳鼻クリニックがあるから、行きなさい」と医者を指定してくれた。子供を連れて行ったら「たかしちゃんかね、結婚したのは知らなかったよ。懐かしいね」と、患者さんの待合室とは別の部屋に案内されて待っていたら、すぐに診てくれた。この時の看護婦長こそ、二十年ほど前に逃げ隠れしていた児童を見つけて「たかしちゃんかのオ」と近寄ってきた若奥様その人である。お子さんの窪田江美子は芸大を卒業後イタリアに留学。そのままオペラ歌手としてデビューし『蝶々夫人』で有名になった事はのちに母から聞いたことがある。
鼓膜の中に膿(うみ)が溜まっているからと鼓膜を破って膿を全部出して治してくれた。放っておくと膿が脳の方に行き、発達障害を起こすらしい。2歳児の鼓膜は破れても、すぐ元のように鼓膜は出来る。おかげで、その長女は某大学卒業後、外国語が堪能であったため外資系の会社に就職し、現在幹部にまで上り詰めた。また二人の元気な孫(女子)を授けてくれた。上の子は現在ノルウェーのオスロ大学に留学中/都立日比谷高校卒、下の子も都立日比谷高校に在学中である。この子は日比谷高校管弦楽団でオーボエをやっているが、他にもビオラやチェロも得意、声楽もやっている。声楽の発表会では伴奏がレッスンの先生ではなく、母親(つまり私の子、長女)だった。息の合った二人に満場の拍手を頂戴した。
2歳の時、中耳炎を患った長女は小学校6年生で、すでにリストの「ラ・カンパネラ」を弾いていた。ソニーが録音してくれたものをYouTubeにアップしたが、なかなか視聴者数が上がらないので削除した。
この時弾いていたピアノは、もともとミケランジェリのスタインウェイであった。ミケランジェリが1980年に日本公演の時、2台持参したものの1台で、中村紘子先生がご購入したのち、ソニー芝浦技術研究所に渡り、それを弾かせて貰ったという経緯がある。ミケランジェリの特注製で、ピアノの左側(観客席からは見えない側)に太い大きな木材が貼られていた。
ウチにあるピアノはヤマハのコンサートグランドC7であるが、娘は「あのスタインウェイは鍵盤が軽くて弾きやすかった」と言っている。1981年の夏、朝から夕方まで小2の次女も一緒に弾いて楽しんだ。昼食はソニーの社員食堂だった。私は(10月生まれだから)40歳の時である。
話が自伝とは少し離れるが、非常に面白い現象を経験したので、ここで紹介しておきたい。娘が小2/小6,私が40歳の時、今住んでいる家に引っ越して来たが、この年の11月末から、子供達の2階8畳部屋でポルターガイスト現象が時々起こるようになった。何もしないのに棚から本や花瓶などが落ちるし、「ボアーン、ボアーン」という重低音が多くの高調波によって変調されたような奇妙な音がする。子供達は怖がって「いやだよ、この家!」と言っていたが、私は「どんな現象でも、その原因があるものだ。この原因を突き止めてやる」と、相対論そっちのけで(*^_^*)、解明に取り組んだ。
すぐ前の道路には大きな幹線水道管が通っているし、東京ガス管もある。これらから何らかの音が発生したり、振動を起こし共振しているのかと思ったが、もしそうなら2階子供部屋だけでなく、どの部屋でも起こり得るはずだ。同様の理由で自動車の振動やマフラーの音でもなかろう。
昼間でも夜中でも、この現象は突然起きる。しかし、やがて年明け3月になると、ピタッと無くなった。ところが、その後11月末に再び奇妙な現象が始まった。
その頃(話は前後するが)、じつは<天気予報>を見ていたら「明日は木枯らし1号が吹くでしょう」との予報があり、それが当たり、かなりの北風が吹き始めた。
私は「11月末?・・・これだ!」と直感して、子供達に「きょうはポルターガイストが再び襲うヨ」と言ったら、子供たちは、もう慣れっこになっていたのか「イヤだよう〜、そんなの」と笑っていたが、本当に「ボアーン」の共振音があるし、本立ての小さい文庫本が落ちた。
これからが勝負だった。「なぜ子供部屋だけなのか、南風は、もっと強いのが吹いていたし、台風でもこんな現象はなかった。なぜ北風が原因なのか、どこからボアーンの音が発生しているのか、振動はどこからか!」
個々の奮闘記を書き始めると長くなるので、全貌だけを記しておこう。
@北風が原因であるのは、拙宅の屋根の形が『北 “へ” 南』の形状であるため、風に渦巻きが生じており、その場所に建てていたFMアンテナを振動させていた。
A子供部屋だけであるのは、その部屋のコーナーの屋根の板にアンテナを取り付けるポールを立てていたため。
B音の発生と振動はポールの一番上に12素子のFMアンテナを取り付けていたので、その最後部の一番長いアルミ製反射器のせいだった。
これらが判ったので、通常のVHFアンテナ(当時)を一番上に取り付けて、FMアンテナは下方に取り付けて動かないように細い紐で引っ張って解決。
北風の吹いている屋根の上に何度も上がったり、降りたりした。その方が私は怖かった。
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幼稚園〜小1頃までの僕は、まさにわんぱく坊主で、その性格は、母に言わせると「落ち着きがない」事だった。たとえば、ウチではドタバタと走り回ってうるさくて祖父に、いつも「うるさい!出て行け!」と怒鳴られていた。そのときは静かにするが、すぐ元に戻って、はしゃぎ回る。そんな子供だった。
また、<他人の顔色を素早く見抜く>ところがあったようだ。たとえば<この人は怖い人だ>、<この人は優しい人だ>というような他愛ない事から、<話し方、目つき>など、細かい事まで、非常に神経質に、それを見抜くとも母がよく言っていた。この<神経質>というのは現在でも否定できない。持って生まれた<質>であろう。
たとえば<話し方>(受け答え)では “上から目線” というのがある。これを私は素早く見抜く。「自分だけはこういう人間にはならない。下出にいて何の損があるか。何も損はない」、これが私の信条である。80歳過ぎた現在でも変わらない。
昔を顧みれば「あの時そうだった、あれもそうだった」と嫌な思い出として襲ってくるが、そうたくさん居たわけでもない。思い出すたびに吐き気がするのは4人である。(^_^;)
上から目線ではなく水平線であるが、私をバカにした言い方で面白いのが一人いた。初めて会った時、私に言った言葉、
「なんだ、先生と呼ばれているから学校の先生かと思ったら産婦人科の先生か」。(^_^;)
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わんぱくである反面、大きな特徴で、<母の言う事をよく聞く>子供だった。兄や弟とは異なる側面である。<これで同じ兄弟か>と思われるほど違っていた。そのため後々に冗談で「僕は橋の下で拾われた捨て子だったんだよ」って、よく言っていたものだ。
兄はおとなしい子供で、“お爺ちゃんっ子” だった。可愛い、可愛いで祖父の膝の上で育ったようなものだ。ただし祖父の死没は昭和20年だったから、大阪から吉塔(きとう)に戻ってきて間もなく祖父は居なくなったので、長期に渡って祖父の膝の上で兄がナデナデされたわけではない。まア、小学校低学年とはいえ兄は祖父の影響が大きかった事は事実である。
そういう面から言えば、私は<父母に育てられた>が正解だろう。
楽しい思い出をひとつ。近所に、昔アメリカに出稼ぎに行ってたお婆ちゃんがいた。村では「アメリカおばさん」と呼んでいた。ぼくの興味はお婆ちゃんが英語を話せる事だった。遊びに行って「おばちゃん、英語の歌を教えて!」とせがむ。そうすると決まってabcに節を付けて唄ってくれる。「えーびーしーでーいーえふじー、えっちあいじぇいけーえるえむえん、おーぴーきゅーあーるえすてぃーゆー、ぶい、だぶ、えっくすわいぜっと〜」とやる。耳で教わっただけ。Nがエンになっている。
何のことか分からないから、これが英語の歌の一つだと思っていた。思い出すたびに懐かしい。わんぱくであると同時に何にでも興味を示す子供だった。しかし、これが後の中学生の時、『英語の辞書引き大会』で優勝することになった基礎だったかも知れない。
もう一件、私の特徴で<するどい感覚>があった事も記しておきたい。これは母もよく知っていたが、「ワル賢い」とか、
「小賢(ざか)しい」という表現であった。私は、この言い方は好きくない。あくまでも子供の持つ特別な感覚であろう。
ウサギを飼っていたのだが、時々買いに来るおじさんがいた。そのお小遣いのうち10円で、近所の駄菓子屋さんにある
<グリコのキャラメル10個入り>を買うのが楽しみだった。これには<おまけ入り>がある。もしおまけ入りのカードが入っていると、もう一箱10個入りが貰える。この<おまけ入りのグリコの箱>を見つけるのが私の秘密技だった。
一見して同じに見える箱でも、注意深く一個、一個を観察すると、他の箱とは異なる小さな色の違い、または小さな模様の微妙な違いがある。これをお店のおばちゃんの前で堂々とやる。大体50個ほど調べると一個はあるのだ。見つけると「これちょうだい」と10円の支払い。ウチに帰って母の前で開ける。<おまけカード>が入っている。母曰く「どうして、いつもアタリなんだい?」、僕はニコッと笑うだけである。たとえ母でも決して教えない秘密であった。
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