全焼、そして倒壊の災難
かつて芦別には73もの炭鉱が犇めいていたという。
それは道内全体の炭鉱の15%を占める割合だ。
その中でも最も最近まで稼行していたのは三井石炭鉱業(株)芦別鉱業所である。
現在も稼働中の炭鉱、高根沢露天坑が入口だ。
根室本線を潜り、
高根川に沿って登る。
ここが現役の新旭炭鉱高根沢露天堀だ。
北海道の現役の露天掘り坑と言えば、
美唄・旭台/東芦別/空知新・空知(歌志内)/三笠露天坑/住吉(小平)程度だろうか。
付近にはコンクリート製の壁の遺構がある。
白いブロック塀のみが残る不思議な廃墟だ。
大きな建屋だったようだ。
ブロック塀はよく見ると〇〇別営林署とある。
昭和22年(1947)に帝室林野局上芦別出張所が上芦別営林署と改称され、
平成7年(1995)に芦別営林署に上芦別営林署が統合されたのでその痕跡のようだ。
少し登るとかつての炭住街が残存している。
昭和35年度末には従業員497名、
職員59名とかなりの規模で稼行していたようだ。
付近には高根炭鉱殉職者慰霊碑がある。
慰霊碑にはいつの事故という内容の記載はないが、
社長名義の幾多の苦難に対しての感謝の念との文字がある。
高根川を遡ると、道はやがてグラベルとなる。
炭鉱は根室本線から約5q、
芦別までの索道は5.3qに及ぶ。
炭鉱跡地に接近すると高根川を堰き止める水門の跡がある。
恐らく選炭のための用水確保のための堰堤跡だと思われる。
炭鉱に浄水は不可欠だ。
いよいよ道は残雪に覆われた廃道となった。
当初の熊ノ沢坑時代は原始的な採炭法で、
索道もまだなく、夏場は付近に貯炭していたという。
高根川を渡る橋の橋台跡がある。
夏場に貯炭した原炭は、
冬季の積雪を待って馬橇により平岸駅まで搬出していた。
橋台の並びにはレンガと共に組まれたRC製の遺構がある。
当初の鉱区は下流側であったが、
昭和16年に鉱区の更に上流域で良質な炭層が発見される。
左岸に渡るとズリが散らばる輸車路の様な路がある。
新鉱床の発見により、
それまで稼行していた熊ノ沢坑は閉坑された。
ここからは全く道はなくGPSを確認しながら周囲の雰囲気に沿って進む。
新しい炭層開発を機に、
芦別駅までの架空索道が計画される。
芦別駅構内に75馬力の原動機設置と、
容量200tの原炭ポケットの工事に着手、
昭和17年7月には索道設備が完成する。
操業区域の拡張が進んだのもこの頃からで、
新鉱区の租鉱、新芦別坑の開坑と、
生産は軌道に乗る。
しかし繁栄のさなか、
昭和28年には原炭ポケットの全焼が発生し、
生産量は前年の87,126t/年から83,271t/年と減少する。
また昭和29年、台風15号の直撃により、
索道支柱の倒壊という危機が訪れる。
それでも昭和32年度からは10万tを超える生産量を記録する。
最終的には昭和37年〜39年度の3年間において、20万tを超える生産量となったものの、
主力坑の炭量枯渇によって、
昭和42年9月には329名に上る従業員を解雇して閉山に至る。
開坑当時の芦別村と赤平村の境界線は高根川であったため、
高根坑の管轄は赤平村となったが、
昭和29年7月の赤平町市制施行時に高根沢の西尾根をもって境界と取り決められ、
炭礦地区は芦別管轄となり、これは周辺住民の民意であったという。
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