天竜鉱山へ買鉱した所以

周囲約40qの支笏湖は不凍のカルデラ湖だ。
海抜247mで水深は360mもあり深部は海面より深い。
この深い部分の水温が高く、湖全体を温め不凍湖となっている。 支笏湖


初めに鉱床の地図を見ていただこう。
地図の右側(東)が支笏湖で、緑丸が旧市街地、紫線が軌道跡、オレンジが橋梁名となる。
現在は世帯数はゼロだが、かつては450戸、3,700名が暮らす街があった。 鉱床図


鉱区南端の草笛町付近が起点となる。
付近には中学校が存在したようだが現在は何もない、
軌道に沿って舞園、鳴尾、本山へ向かう。 草笛町


八千代橋で美笛川(モシルンビブイ川)を渡る。
千歳鉱山は発見の翌年、昭和9年(1934)に当時『日本の飛行機王』と呼ばれた、
中島飛行機株式会社系列の中島商事会社に買収される。 八千代橋


しばし林道を進む。
買収したのは当時『日本の試掘区王』と呼ばれた中島門吉氏で、
その兄が飛行機王である中島知久平氏であり、
当時の小樽新聞には『中島飛行機王が本道金山へ野心』との記事がある。 植林


選鉱所に向かい、開けた廃道に入る。
本坑はいわば中島兄弟によって開発され、
支笏湖美笛川河口から鉱山までの道路開削や専用ガソリン軌道の敷設、
鉱山附近の整地や住宅建設などが私財をもって意欲的に行なわれた。 選鉱所


少し森に入ると足元に遺構が残存する。
これは昭和25年(1950)に本坑が三菱金属鉱業(株)の傘下となった以降に建造された、
新浮遊選鉱場の廃祉だ。 遺構



奥には大きな廃墟が聳えている。
昭和26年(1951)に鳴尾の千歳鉱山小学校横の斜面を利用して建設された新浮遊選鉱場が操業を開始した。
手選、比重選鉱も併用した120t/日処理の巨大施設だ。 遺跡


新浮遊選鉱場では 「粗鉱」(そこう)採掘されたままの鉱石 を荒く砕き、粉砕、摩鉱して水分を添加し、
粒の重さの違いを流用した比重選鉱を行う。 選鉱所


その後、金を含んだ摩鉱を泥状にして薬品添加、
水槽内で気泡と付着させて浮いたものを回収、
出来上がった精鉱をシックナーで攪拌、
不要廃滓と分離し 貴金属精鉱のみを再び回収した。 選鉱


詳細には、坑道で250o以下に 「グリズリ(ふるい)」ある角度を持った 固定式のふるい器。 で選別された粗鉱が、
8t積みダンプカーで160t/日をピストン輸送され、
選鉱場最上部の受け入れホッパーに投入される。 壁


更に80o以下に 選別後、大きなものは粉砕され、
「メリックスケール」ベルトコンベアで運搬中のまま、その重量によるベルトのたわみを計測し重量換算する装置 で秤量後、コンベアで運搬、洗浄される。
木片や鉄片等の異物除去を行いながら、
更に破砕され、 「ボールミル」円筒形の筒の中で鉱石と鋼球を混入して回転 鋼球同士の接触と上部からの落下衝撃により、内部の鉱石を粉砕する。 等で8o以下の粒状に摩鉱される。 カスケード



その後『ねこ流し』と呼ばれる原始的な比重選鉱が行われる。
これは底に木綿などを敷き詰めた、傾斜した樋(とい)の中を水で流して鉱物を選別する方法だ。
比重の小さい石英粒子や汚泥は水によって流れ去り、
比重の大きな金粒が底の織物に纏わりついて回収される 。 ねこ流し


しかしながら本坑では自動ねこ流しと言える『コージュロイセパレーター」が開発された。
これは本来一定時間ごとに樋底に敷き詰めたクロスを人手で交換する手間があったわけだが、
これを図(マウスon)のように、ベルトコンベア状にコージュロイクロス@を回転交換させることで、
無人化・省力化を図ったもので、一定時間ごとにクロスが巻き取られる方式だ。 マウスon 自動ねこ流し


比重選鉱である『ねこ流し』の工程後は、43台の浮遊選鉱機による浮選だ。
消石灰やハイヤーザンセート、エロフロートと呼ばれる主試薬を入れた水槽で、
金・銀・銅が空気と付着しやすい性質を利用した選鉱法だ。 比重選鉱


シアンと亜鉛を利用したメリルクロー法による青化製錬を併用、 【→青化製錬】
最終精鉱は直径9.15m/5mシックナー(沈降濃縮装置)にて緩やかに回転させながら、
液体中に分散混合している少量の固体粒子を重力の作用で沈降させ、
固体と液体を分離させる。 青化製錬


不要な泥=残滓(排滓)は付近の3か所の鉱滓ダムに破棄し、
完成した精鉱は50s単位で袋詰めされ、
三菱金属鉱業 直島精錬所(香川県)に売鉱された。 浮遊選鉱


鳴尾方面へ進むとボイラーのようなレンガの遺構がある。
現状の林道はほぼ『千歳鉱山美笛鉱業所専用線』跡だ。
軌間は762oの軽便軌道で、
昭和10年(1935)、鉱山の本格操業に先立って敷設された。 ボイラー


モシルン美笛川を遡る。
支笏湖の美笛川河口には三本の桟橋と河口事務所が駅となり、
橋曳航による湖上運送の手続き窓口であった。
軌道はこのモシルン美笛川の右岸を走り、八千代の次の駅が鳴尾であった。 モシルン美笛川


鳴尾駅付近には軌道の橋梁跡が残る。
支笏湖河口から6qの八千代駅周辺が草笛町と呼ばれた地区で、
総合事務所、郵便局、配給所、職員社宅などが犇めく中心部であった。 鳴尾


ここ鳴尾周辺には平場しか残存していないものの、
尋常小学校、診療所があったという。
鉱夫住宅が立ち並び、配給所などがある利便地区であった。 八千代


宝来橋付近を登る。
軌道は付近で左岸に渡り、ここからは単線であった。
支笏湖河口から鳴尾までは輸送力強化のため複線化されていた。 宝来橋


森の奥に眠る終点本山駅跡だ。
当初、千歳鉱山軌道は五輌のガソリン機関車を導入したようだが、
昭和16年(1941)の戦局によりガソリンの対日禁輸が発令、入手困難となったために、
追加で蒸気機関車二輌の購入に至った。 本山駅


鳴尾周辺には桝のような遺構も残る。
購入した蒸気機関車は納入間もなく昭和18年の金鉱業整備令と重なり、
政府から休山を強いられたことで、奇しくも無用の機関車となってしまう。 街灯



遺構には大木が宿っている。
かつて付近で中学生まで暮らしていた方のお話を聞いたが、
毎週、映画が上映され活気のある町だったが、
時代劇が多く、子供の自分には面白くなかったとのことだった。 橋台


本山地区から黄金沢に沿って採鉱地区に進むと橋台のような跡がある。
休山で不要となった蒸気機関車2号機は、
千歳鉱山と同じく日本鉱業系列である石川県の尾小屋鉱山に譲渡され、
しかし尾小屋でも出力不足のため、入替機程度にしか使用されなかったという。 マウスon 尾小屋鉱山


付近にはズリ山と思しき一角がある。
WW2から再開した昭和23年(1948)には金53s、25年には248s、26年には268sと
その出鉱も飛躍的に増大する。 ズリ山


更に上ると封鎖された坑口に到達だ。
神山第一通洞坑の跡だ。
付近の採掘鉱区は11か所にのぼり、通算5万tの採掘をみた。 坑口


舞鶴沢坑に向かってモシルン美笛川を遡る。
昭和18年の休山時に坑外専用軌道は撤去され、
輸送ルートはその後の道路開削に委ねられた。 舞鶴沢坑


昭和25年(1950)に苫小牧市道支笏湖産業道路(苫小牧-湖畔)が開通したことで、
不要となった王子山線(王子製紙苫小牧工場専用鉄道)は廃止となり、
昭和27年(1952)には本山-河口の郊外専用軌道も廃止、トラック輸送に切り替わる。 モシルン美笛川





モラップ-美笛間が札幌営林署によって木材輸送事業林道として開通するのは、
昭和35年(1960)のことで、それでも冬季は積雪で通行不可。
鉱石輸送は依然として不凍湖である支笏湖の艀輸送に依存していた。 レール


沢の上流域を遡る。
美笛-大滝間の峠超えは昭和33年(1958)に開通し、
トラック便にて金銀スライム精鉱を、国鉄胆振線(S16〜S61)新大滝駅に搬出し、
国鉄宇野から瀬戸内海の香川県、三菱金属鉱業直島精錬所へ運ばれ金銀を回収した。 沢登り


やがて最上流域で舞鶴沢坑の一つと思われる坑口に到達した。
沢の左岸に開く小さな坑口だ。
沢を渡り入坑してみよう。 舞鶴沢坑


坑道内は奥に広く下部に続いている。
ザイルを張って安全に配慮しながら奥へ進む。
下には支保工も見える。 坑道


支保工が辛うじて残る坑道。
千歳鉱山の従業員数は昭和10年(1935)の215名から
四年後には1,200名と急増していた。 支保工


坑道内には鋼製のフックのような部材も残る。
最盛期の従業員数は2,000名と想像され、
小学校に至っても12学級、児童数584名というマンモス校であった。 フック


更に上流域にも木材で封鎖された坑口が残る。
千歳鉱山町の人口は昭和14年で3,700名、最盛期には5,000名を超えたとされる。
これは千歳全人口の35%にあたり、それは過密地帯とさえ言える。 坑口


本山付近から旧製錬所へ向かう。
昭和18年の休山直前の産金量は937.1s/年と、
鴻之舞 に次ぐ業績であった。 タイル


しばらく登ると山中に開けた一角があり、
奥にはズリ山のような堆積がある。
これは製錬関係の施設のようだ。 ズリ山


木々の奥には巨大な石垣がある
これは戦争での休山前に建設された旧青化製錬所の跡だ。
詳しく見てみよう。 石垣


創業の昭和8年(1933)から昭和14年(1939)までの間は、本坑に選鉱所、製錬所は存在せず、
前述のとおりすべての採掘鉱石は上川の 天竜鉱山 へ鉱送し、
製錬のすべてを外注していた。 青化製錬所


やがて低品位坑の製錬も必要性にかられ、
地元での製錬が模索され、
昭和14年に建設されたのがこの旧青化製錬所である。 製錬所


斜面に段々と配置される青化製錬施設。
青化製錬は砕いて泥状にした鉱石と青酸ナトリウムを2昼夜撹拌し、金とシアンを結合させる。
青酸ガスの発生を抑える石灰と反応させた後、
亜鉛(Zn)粉末を投入、これがシアンと結びつくことで金が析出する。 製錬所


旧青化製錬所新設に伴い、鉱滓堆積所の設置個所をめぐり、
札幌鉱山監督局の許可申請に難航、
道庁としては支笏湖のヒメマス孵化事業に着手しており、
その排水による公害を危惧してのことだったが、やがて認可が下りることとなる。 石垣


9s級の細いレールが残る。
旧青化製錬所は出鉱量の増加に伴い、昭和16年(1941)には同規模の施設が増設され、
日産500tの大型施設と相成る。 レール


付近には白い袋が落ちており、これはぎっしりと重い。
兵庫県朝来 三菱金属 生野製作所の文字があり、
別の破れた袋を開けると中身は小さな犬釘であった。 生野銀山





犬釘とは枕木にレールを固定する鉄製の釘で、 上から見た形状が犬の顔に似ているためにそう呼ばれる。
生野銀山は言わずと知れた 「日本三大銀山」(山形県)延沢銀山(島根県)石見銀山(兵庫県) 生野銀山 の一つで明延鉱山と隣接する歴史ある鉱山だ。
その鉱山と千歳鉱山の小さな接点が今も山中に残ることが驚きだ。 マウスon 明延鉱山


ワイヤーが絡まっている。
旧青化製錬所は昭和18年の金山整備令により解体に至る。
つまりその稼働はたったの4年間である。 ワイヤー


旧青化製錬所から離れて更に登る。
谷間にはゲートバルブを介した配管が残る。
ここからはハードルートだ。 ゲートバルブ


沢沿いにはレールが朽ちている。
昭和18年の戦局による金鉱業整備令は、
それまでの産金奨励の政府方針とは180度遷移したものだった。 レール


斜面にぽっかりと開いた坑口、元山坑である。
戦争で世界から孤立した日本は対外貿易的にも鎖国状態で、
世界的均一価値である金の有効性が失われることとなった。 街灯


元山坑はすぐに閉塞している。
整備令施行により千歳鉱山の資材、設備そして労働力は、
徳舜別鉱山イトムカ鉱山、 秋田県 相内鉱山、
栃木県 足尾鉱山のそれぞれ配置転換されることとなった。 坑道


黄金沢に向かい更に登るとコルゲート管が埋設されている。
徳舜別鉱山は鉄鉱石、イトムカ鉱山は水銀を産出し、
産金中心の千歳鉱山に比較すると、時局の要請には適していたようだ。 コルゲート管


廃道を登ると沢沿いにレールの遺構がある。
整備令施行による千歳鉱山からの出向目標員数は840名が予定され、
徳舜別・イトムカ・相内鉱山に各150名、足尾鉱山に390名が割り当てられた。 レール


かなりの山中にもU字溝による治山の痕跡が残る。
政府の命により休山した金鉱山であったが、
将来有望な大金山については戦後に再開を予定し、
『保坑鉱山』として指定されることがあった。 U字溝




沢にはトロッコの車軸が埋もれている。
『保坑鉱山』は主要坑道の維持などを最低限の人員で施工し、
道内金山では 鴻之舞鉱山 と千歳鉱山のみが『保坑鉱山』に指定された。 トロッコ


崩れた斜面からレールが吐出している。(マウスon)
千歳鉱山の保坑時の要員は120名が残留確保されたが、
結局のところ、戦局が激しくなるとその数は半減した。 マウスon レール


その崖の上部には長い9s級のレールが残存する。
明治以降、金価格は日本銀行が決定する公定価格であり、
単一為替レート時代が昭和48年(1973)まで続いたことから、
金価格の変動はほぼなかった。 レール


レールや配管が散発する地帯だ。
昭和48年からは為替レートが変動し、金の輸入自由化と相成った。
国内鉱業の体質強化のための『新探鉱費補助金』が交付され、
千歳鉱山を含む道内7鉱山だけで補助金の20%が支給された。 配管


交付された補助金により、ボーリング調査などが施工されるものの、
期待した結果は得られず、逆に金の生産量は下降の一途を辿る。
昭和50年代からは400s/年が200s台、そして135s、97s、昭和61年には26s/年となる。 レール


レールの対岸に坑口のような穴がある。
昭和47年(1972)には従業員半減の合理化案、
会社側は美笛市街地の鉱山町を廃止する『職住分離』を決定、
世帯数80、従業員97名の千歳市内への移住が協議される。 黄金沢坑


支保工の残る黄金沢坑への到達だ。
千歳鉱山はその後、昭和61年(1986)再び休山を迎える。
休山式では地下資源を開発する者にとって、
いつかは来る日との無念の式辞が述べられた。 坑口


それでは黄金沢坑に入坑する。
製錬所に関して、昭和14年の旧青化製錬所完成以前は上川の 天竜鉱山
送鉱していたことは冒頭でも述べた。
天竜鉱山は採掘しない、買鉱のみの稀覯な鉱山である。 入坑


黄金沢坑内部は激しく水没している。
実は天竜鉱山は『日本の飛行機王』『日本の試掘王』と呼ばれた中島兄弟が買収しており、
昭和6年から15年まで稼働していた。
つまり、千歳鉱山と天竜鉱山との関係は中島兄弟の目論見の中にあったのである。 水没









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