美笛金山 選鉱所跡 探検: 北の細道 千歳鉱山 選鉱所

千歳鉱山 選鉱所と生野のコモンポイント




 ある鉱山で鉱夫である夫の作業服を洗濯する主婦がいた。
その主婦は洗剤を含んだ洗濯水の表面に金属粉が浮いて集まることに気づいた。
これが浮遊選鉱の発端だとも言われている。

洗剤と水の中で、汚れた作業着を洗う行為が洗濯だが、
洗剤は 「親水基」分子を構成する原子団のなかで水と結合しやすいもの 「疎水基」水となじみにくい原子団 の両方を分子内に持っており、
そのため油と水との間に広がり、界面張力を持つことから界面活性剤と呼ばれる。

つまり疎水基側が汚れと結びついて、水中ではがれやすくする。
ところが選鉱の場合は水の代わりに捕集剤を使用するので、
逆に親水基が有用物とくっつき、浮選機内に送り込まれた空気と結びついて水面まで浮かび上がる。

鉱物資源は各種鉱物が細かく交じり合った状態で産出し、このままでは金属の抽出に至らない。
各粒子が単一の鉱物となるように細かく粉砕する、これは『単体分離』と呼ばれる工程となる。
単体分離後の粒を水槽内に投入、浮いたものと沈んだものをより分けるのが浮遊選鉱の原理である。

例えば方鉛鉱(PbS)と閃亜鉛鉱(ZnS)の粉末が混ざり合わさっている場合、
この混合物を水に入れ、少量の浮選捕集剤(=ザンセート)を加えて泡立たせる。
一般に岩石は親水性であり、金属は疎水性であることが多い。
すると鉛の鉱物である疎水性の方鉛鉱粒は気泡に付着して浮かび上がり、
鉄分の少ない亜鉛系の閃亜鉛鉱粒は親水性で底に沈む。
今度はその液体に硫酸銅を溶かして閃亜鉛鉱を金属化、疎水性に化学反応させると、
閃亜鉛鉱粒が気泡と結びついて浮かび上がる。


千歳鉱山 は、昭和8年(1933)に山師により発見、美笛金山と呼ばれ、
昭和11年(1936)に千歳鉱山株式会社が設立、名称を千歳鉱山に改めた。

採掘された鉱石は 千歳鉱山美笛鉱業所専用軌道【歩鉄の達人】 で搬出、支笏湖を発動機船で運搬、
対岸から苫小牧までは『山線』と呼ばれた 王子製紙軽便鉄道【歩鉄の達人】 で輸送された。

そして苫小牧からは上川の 天竜鉱山 に送られ製錬が行われた。
しかし昭和13年(1938)から千歳鉱山福寿沢坑の開発が本格的となり、
天竜製錬所まで鉱送していては採算が取れず、地元製錬が画策される。

昭和14年(1939)には日量250tの 青化製錬所が完成したものの、
昭和18年(1943)には金山整備令によって休山に至り、青化製錬所は撤去されることとなる。

戦後、昭和23年(1948)に 「坑内取明」(こうないとりあけ)坑内を整備して復旧すること に着手、
昭和26年(1951)には総面積2,200m2の浮遊選鉱場が新設、操業を開始する。
ピークの昭和31年(1956)には採掘4万t、金513s、銀1440sを記録するものの、
その後、昭和61年(1986)2月28日をもって閉山、
50年間の創業で金21t、銀81t、銅302tを生産した。


今回の探索では新・旧選鉱場、坑口に至るまでを徹底探索した。
そこで見つけたのは遠く離れた銀山の痕跡、
そして選鉱場の独自技術、最大の謎は遠く離れた上川の製錬所へ鉱送した理由、
これらも併せて紐解いていきたい。


今回は ミッチー様より多数の情報を提供いただきました。
この場をお借りしてお礼申し上げます。
ありがとうございました。




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