羽幌炭鉱 排気立坑跡 探検: 北の細道 排気立坑

羽幌/築別炭鉱 排気立坑でビルドの夢をみる




北海道羽幌町

   羽幌村に和人が入り始めたのは明治4年(1871)頃で、
当時は追鰊のために来道し、定住せずに漁期が終わると引き揚げたという。
その頃は民家もなく鮭魚場と納屋があるのみ、現在の市街地一帯も原生林であった。
砂浜沿いに旅する人も数名で、羆が頻繁に海辺まで現れたらしい。

築別炭鉱(羽幌炭鉱築別鉱業所) は、築別川上流、山間の狭間にあった。
羽幌炭鉱鉄道の前身、羽幌鉄道株式会社は昭和15年(1940)7月設立。
これと同時に太陽産業(株)羽幌鉱業所が築別本坑を開坑し、
翌年、羽幌鉄道が太陽産業を吸収合併したのが羽幌炭鉱の始まりと言える。

昭和19年(1944)の出炭状況は9万5千t/年とそれまでの最高となり、
昭和25年以降の朝鮮動乱による特需を経て16万5千t/年、
10年後の昭和34年(1959)にはこの5倍の出炭量に達する。
この増産テンポは戦後の炭界でも異例のことで、
同社はいわきの三和炭鉱三松鉱業所、 日満鉱業月形鉱業所などを傘下に収め躍進を続ける。


戦時下の特需は28年に去り、炭鉱業界が慢性的な不況にあえぐ中、
羽幌炭鉱は 築別砿 上羽幌砿 羽幌砿 と三本の柱で着実に出炭を伸ばしていった。

同社の躍進は鰊漁が衰退した羽幌町を30年代に人口3万人を超える市街に発展させる原動力ともなり、
昭和38年(1964)には町議会議員30名中18人が炭鉱議員が占めるという、
町政をも炭鉱が左右する状況となっていた。
(石炭羽幌 第201号によると当選10名、恐らく三山地区を含む18名)


炭鉱の坑道内の温度を冷却したり、メタンガスの換気などのために、
通気の施設は不可欠である。
かつての坑内通気は坑口に炉を設けて火を燃やし、その熱気による上昇気流を用いて、
一定方向に空気を吸い出し、通気を確保する例もあった。
明治20年代には蒸気動扇風機の導入、30年代になって電動化、
40年代にはシロッコ型、キャベル型などの羽根を工夫した大型扇風機が導入された。

今回は羽幌/築別炭鉱における通気を司る排気立坑の探索だ。
出炭坑口と異なり、深い山中に単独で存在する排気立坑を目指す。



サイト更新にあたり まるてん様より資料を提供いただきました。
この場をお借りしてお礼申し上げます。


築炭スキー部・太陽小学校・110万t/年体制・・・


炭住
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