羽幌飛行隊

羽幌炭鉱は三山で構成され、 築別砿 が一般炭として品質が良く有望。
三山では一番早く昭和15年(1940)から出炭した。
羽幌砿 が昭和22年(1947)、 上羽幌砿 は23年(1948)開坑である。 運搬立坑


まずは相沢川右岸、築別排気立坑の探索だ。
昭和36年(1961)からの合理化工事の中、
年々採掘部が深度化し通気系統の整備改善が迫られる。 築別排気立坑


やがて藪の中に巨大な風洞が現れる。
坑内の若返りを図るべく、8月から排気立坑掘削が着工し、
総工費6,250万円、完成は昭和37年(1962)7月予定(実際は38年2月)。 風洞


こちらが扇風機と接続された排気側だ。
将来的には現行北部(左)域に展開予定のため、
新たに排気立坑を設置することとなった。 扇風機


坑口はすぐに埋没している。
排気立坑坑口には百kw扇風機を設置、毎分3,000立方mの排気により、
坑道内部のガス濃度が0.9%から0.7%に減少する。 坑口


羽幌砿の増産のカギを握るのが昭和34年(1949)11月9日からの 「名羽線」 宗谷本線の名寄と羽幌線の羽幌を結ぶ計画の未成線。全長51q、橋梁53か所、隧道21か所、昭和55年(1980)工事凍結 の建設であり、
排気立坑建設の背景には、
合理化計画による飛躍的増産を目指す目的があった。 祠


開坑から20年の築炭砿は生活環境の充実に強化が図られ、
法律で定められた健康保険や雇用保険などの法定福利費とは別の、
会社が独自で定める住宅手当や家族手当などの法定外福利費が充実していた。 排気立坑



アンカーボルトの残る電動扇風機用架台。
法定外福利費は月7,511円と全国の石炭鉱業平均の4,788円よりも遥かに高く、
全産業平均の2,322円と比較すると実にその3倍に相当する。 アンカー


末広付近に移動する。
暖房用石炭は自宅まで配送で20円/t、家賃・入浴料、そして電灯・水道料も
基本料金は無料という生活環境であった。 末広


ここは閉山1年前(昭和44年)に完成した、
4階建て鉄筋改良住宅である。
水洗トイレにグリーンとブルーの外観の屋根、合計96戸分が整備された。 アパート


史上最大の出炭量を記録したのは昭和37年(1962)3月17日。
昭和36年度の年間出炭量が1,002,900tと初の百万t越えを記録した。
その出炭記念として職員・鉱員にはマットレス、女子従業員には敷布団、
臨時職員には座布団が送られ、記念演芸会が3日間執り行われた。 鉄筋改良住宅


しかしながら「折り紙付きのビルド山」「百十万t体制」などの生産性向上の裏側で、
昭和44年(1969)4月からは出炭が低下し、
月間目標に対し築別65.1%、上羽幌85%、羽幌93.8%に留まる。 鉱山跡


かつてこの先にはスキー場があった。
昭和32年(1957)度、築炭で行われた『第一回道北沿岸招待スキー大会』を皮切りに
スキージャンプのインカレ1位選手が羽幌炭鉱に入社。
後に『羽幌飛行隊』として全国にその名を馳せることとなる。 スキー場


羽幌スキー連盟主催による公認の築炭シャンツェ(50m)では、
大会が度々開催され、小樽などから世界ランクの選手も参加した。
やがて、築炭の選手はカナダ・バンクーバーでの世界大会にも招待され
昭和33年(1958)には総合6位の成績を収めた。 築炭スキー


近隣に辛うじて残存する羽幌炭鉱病院跡。
昭和19年(1944)12月開院、昭和35年(1960)には内科・耳鼻科・レントゲン科などのある
14の病室を備えたスチーム暖房の近代的病院であった。
医師4名、レントゲン技師、看護師など総勢38名での運営であった。 病院


平成22年(2010)、まだ屋根の残る頃の羽幌炭鉱病院。
当時の健保組合は重症患者輸送のために大型バス(定員63名)の救急健保車を運行開始した。
それだけの規模があり安全に配慮されていたということだ。 羽幌炭鉱病院


場所を変えて本坑排気立坑へ向かう。
運搬立坑 の開削と並行し、
7,300万円を投じ、昭和35年(1960)新春早々から開削した風洞だ。 羽幌本坑排気立坑


本斜坑方面採炭区域の通気専用坑であり、
採掘面の水平展開と深部開発をより有利にし、
採掘に柔軟性を持たせる狙いだ。 遺構


付近には多数の炭住跡が残る。
築炭職員用174戸、鉱員用670戸、
羽幌職員127戸、鉱員460戸など合わせて1,550戸がかつては犇めいていた。 炭住


炭住には煙突が残存。
羽幌三山は社宅の屋根を七色に塗り分け、
水銀灯の街灯を設備した光景は圧巻だったという。 炭鉱施設


会社直営の生活物資配給所は築炭に2店舗、他4店舗が運営され
米・酒・衣料から雑貨まで扱うヤマの百貨店であった。
他に生協店舗では生鮮品を扱い、商品も豊富であったという。 遺跡


体育施設やクラブ施設も充実で、硬式野球場、バレー・テニスコート、
プールや総合グランドそして、三山に一つずつ映画館や遊園地があった。
本坑排気立坑はルートが厳しく到達には至らなかった。 本坑



続いては上羽幌砿付近から本坑第二斜坑排気ブロワー施設へ向かう。
昭和35年(1960)6月着工、翌年9月完工。
工事途中には断層にぶつかるものの、その掘削深度は60m/月であった。 荒地


碍子や電線が散在している。
これら立坑完成により、不要坑道の淘汰が可能となり、
坑道維持費の低減と通気抵抗の減少による安全が確保されると思われた。 碍子


風洞やブロワー用の架台がある。
適切な通気の確保により重大災害の抑制が図られることとなり、
再び百万t/年時代がやってくると確信された。 遺構


ところがである。
昭和45年(1969)4月には新たなディーゼル機関車を購入、排気立坑完成のさなか、
突如希望退職者の募集が行われる。 ブロワー


少数精鋭主義と称された体制も築炭の終焉で歯止めがかからず、
築別西坑の閉鎖と羽幌砿、
上羽幌砿への配置転換などの合理化案が示された昭和43年(1968)築別砿は閉山する。 遺構


築別にとって代わったの羽幌砿であるが、
当時で80億円、年産能力70万tの運搬立坑も空しく、
時代は石炭が石油に代わる、エネルギー革命と重なる。 鉱山遺構




排気坑口が残る。
折りしも退職手当の国家補償という特別閉山措置が施行され
この制度は昭和46年(1971)3月までと、駆け込み閉山の引き金となる。 坑口


排気坑道は狭く10m程度で埋没している。
昭和45年(1970)11月2日 閉山。
当時閉山した中では出炭量86万5千t/年と奇しくもトップの規模であった。 坑道


下部にもブロワー用の設置用アンカーと架台が残存。
従業員1,574名、家族を含めると11,802名、
多額の投資下でまだまだ掘れる状態の閉山であったのかもしれない。 遺構






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