ブリスカor210



芦別市は炭鉱最盛期の人口7万人から、
現在は1万6千人とその22%に減少している。
市街地の西部から山に入る。 入山


街から近いながらも、
入山してすぐにも廃屋が目立つ。
増田の川に沿って約2qだ。 廃屋


農地跡の脇には廃車体がある。
昭和49年(1974)登場のトヨタカローラサンマル系だ。
カローラの名を世界に広げた世代だ。 カローラ


ここからは辛うじての道で車両では入林できない。
昭和13年(1938)操業、18年に企業整備による休山となった。
昭和22年(1948)5月芦別三宝炭鉱として再開する。 廃道


増田の川が上流域で細くなると、
右岸にまたもや廃車体のトラックがある。
これは相当の年月が経過しているようだ。 草ヒロ


昭和36年(1961)発売の日野ブリスカか、
昭和30年(1955)発売のダットサン210のようだ。
どちらにしても小型トラックの一世代を築いた車だ。 ブリスカ


エゾエンゴサクの咲く廃道を進む。
芦別三宝炭鉱の期間は1年足らず、
昭和23年(1948)2月には北日本芦別炭鉱となる。 エゾエンゴサク



路が右に大きくカーブすると第一の遺構がある。
アンカーのようなコンクリート製のブロックだ。
いよいよ炭鉱跡に到達だ。 遺構


その上部では3台目の廃車体である。
これは旧規格の軽自動車のようで、
非常に小さく、破壊の度合いが激しい。 N360


これは昭和41年(1966)発売のホンダN360だ。
354ccの当時としては高出力エンジンを搭載した、
愛称が『Nコロ』と呼ばれた車だ。 マウスon N360


廃車から登りきると大きな平場がある。
恐らく積出設備や繰込の施設があったようだ。
残念ながら遺構は見られない。 平場


付近には碍子が落ちている。
ここまで電気が来ていたのだ。
閉山は昭和38年(1963)、石炭市況悪化が原因とされる。 碍子


治山された跡が残る炭鉱跡地。
北日本炭鉱の出炭量がピークとなったのは、
昭和23年(1948)の10,606tである。 治山


坑口を目指し、さらに奥へ進む。
各炭鉱がピークを迎えた昭和32年(1957)、
芦別管内各鉱の出炭割合を見てみよう。 炭鉱跡


全体のトップはダントツの 三井芦別鉱業所で53.8%を占める。
次いで三菱芦別鉱業所 が15.8%。
ここからは大きくその割合が開く。 炭鉱


油谷芦別鉱業所が0.08%、 高根鉱業所が0.07%、
明治上芦別鉱業所が0.06%と、
各財閥炭鉱からは大きな格差がある。 炭鉱跡


木々と見間違う電柱の廃祉がある。
上記五山で芦別全体の69.8%を占めているが、
三井・三菱の各財閥でその五山の99.6%を占めていることとなる。 電柱


碍子が散乱している。
芦別全体の生産炭量の中で、
北日本芦別炭鉱が占める割合はわずか0.002%である。 碍子


古地図にある坑口の印付近だが、
それは埋没してしまったようで、
今回は発見に至らなかった。 坑口


更に平場は続く。
小規模炭鉱とは言え、
まだ遺構が存在しているかもしれない。 山中


急激な斜面を登り、
等高線の浅い平場に向かう。
小炭鉱は資料が僅少なことが弱点だ。 斜面


上部にはスレートの部材が散乱している。
何か施設があったようだ。
積込ビンの遺構かもしれない。 スレート


レールが斜面に埋没している。
高さ63o、9s級だ。
大きな遺構はなかったものの、閉山後55年の経過である。 レール








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