国難復興の狼煙


青化製錬所のスペックは、
処理量1,400t/日、関係所員57名、金品位5.7g/tという規模の施設だ。
工程に沿って見ていこう。 青化製錬所


まずは製錬系統図を見ていただこう。
鉱石を@粉砕・A磨鉱した後、B 「アジテーター」撹拌装置 で青化液に浸透、リーチング工程を経て、
Cメリルクロー工程で亜鉛の投入により金を析出させ、
残滓のD滓鉱処理を行う。
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採掘された鉱石は坑内で、 「ブレーキクラッシャ」一次破砕に使われるダブルトグルクラッシャー にて120o以下に破砕された後、坑外に搬出される。
『ブレーキクラッシャ』は固定顎と振動顎の間に原鉱を入れて、
偏芯したフライホイルにより振動顎を前後させて鉱石を砕く装置である。 ブレーキクラッシャ


坑内からベルトコンベヤで搬出された鉱石達は、
ディーゼルロコ(機関車)により運搬され、
ここ、 「チップラー装置」貨車ごと転回させて中の鉱石を搬出する装置 で中継鉱舎に搬入される。 ベルトコンベヤ


チップラー装置付近には貨車の 「操車場」複線化してトロッコの入替を行うヤード つまり『クリッパー』があり、
チップラー待ちの貨車や完了後の貨車、
坑内に戻すものやその連結などを配置する一角があった。 中継鉱舎


中継鉱舎(50t)に一旦貯鉱された鉱石は、
破砕傾斜コンベヤに移され、破砕場へ搬入される。
これはそのコンベヤの土台=橋脚だ。 橋脚


破砕傾斜コンベヤの路盤は緩やかに高度を稼ぐ。
チップラー室から破砕場までは約300m。
荒れた廃道が今も残る。 破砕傾斜コンベヤ


ここからが@粉砕工程となる。
コンベヤを経由した鉱石は、まずこのグリズリフィーダに送鉱される。
ここで塊・粒・粉に荒く分離される。 グリズリ



グリズリは鉱石を供給しながらふるい分けする装置で、
鉱石を隙間のある傾斜に転がせて、
段階的に粒度分けすることができる。 マウスon グリズリ


アンカー(土台)の遺構も残る。
フィーダは振動を利用して鉱石をふるい分けしながら流す装置で、
ここでは秤量も行われていた。 フィーダ


ここは破砕詰所、つまり事務所跡だ。
粒は大きさごとに更に細かく粉砕、
粉になるまで塊は繰り返し破砕される。 破砕詰所


かなりの高さのRC施設がある。
現在は存在しないが、
一基容量200tの鉄製円形鉱舎が存在した。 鉄製円形鉱舎


破砕処理の速度は最大150t/hで、
重力に従い上部から段階的に鉱石を落下させて処理する、
カスケード方式だ。 クラッシャ


ここではブレーキクラッシャ3基にて
鉱石は3インチ(76.2o)以下に砕かれる。
騒音は相当なものだったようだ。 インパネ


ここで発生した6/8インチ(19mm)以下の粉鉱は、
後工程の磨鉱鉱舎に送られる。
大きなものは更に下部へ降ろされる。 マウスon 内部から


フィーダーと呼ばれる振動ふるい機を数度経過した後、
コーンクラッシャ4基により、
1/2インチ(12mm)以下に更に粉砕される。 コーンクラッシャ


コーンクラッシャは破砕機の一つで、
偏芯した円錐傘状の鋼製軸が回転することで圧力と衝撃が発生し、
破砕部に噛みこんだ鉱石を破砕することができる。 マウスon キル


破砕が完了し14o以下となった粉鉱は次工程に送られる。
これがその磨鉱場へ向かう傾斜コンベヤの橋脚だ。
傾斜に沿って約200m続く。 磨鉱場傾斜コンベヤ


磨鉱場傾斜コンベヤの中継地にはベルトコンベヤを潜るような廃祉がある。
ここは秤量、つまり動くコンベヤ上の積載物の重量を連続的に計測する建屋である。
これはメリック秤量器と呼ばれる古い装置だ。 メリック秤量器


屋根のない左手部分、ここをベルトコンベヤが通過する。
粉鉱の重量によりベルトは下部にたわむ。
重ければ大きくたわみ、空荷であれば下にはあまりたわまない。 メリックスケール


内部にはベルトコンベヤの傾斜に沿ったガイドが残る。
スケール(計量器)には31個のローラーを外周に配置したディスク(円盤)がある。
ディスク側面外周に沿ってエンドレスベルトが常時一定速度で回転している。 マウスon メリックスケール


無負荷状態のディスクは直立し(Θ=0)、ローラーが空転するだけでディスク自体は無回転だ。
しかし、重量物を積載して下部にたわんだコンベヤのそのたわみ分、ディスク角度をΘ傾けると、
傾き角度分の応力でディスクは回転開始する。
ベルトたわみが大きくなり、ディスク角度が大きくなるとディスクの回転速度は増加する。
このたわみと比例するディスク回転数を計測すれば運転状態の積載量が計測できる。 メリック


磨鉱場傾斜コンベヤの終端はここ、磨鉱場に到達する。
サンプル元鉱試料を抽出後、ここからがA磨鉱工程となる。
磨鉱とは摩擦・衝撃・圧縮力で粒度の細かい粉体を作ることである。 磨鉱


具体的にはコニカルミルという円錐台形状の装置で、
鉱石を回転させながら更に粉砕する。
これはその後のシアンとの溶解=リーチングのための前準備だ。 磨鉱鉱舎


磨鉱原鉱は6基のコニカルミルで粉砕、
原液に石灰乳を適量加えて、
水分35%程度で磨鉱、つまりドロドロだ。 コニカルミル


これはコニカルミル室上部右手の石灰倉庫だ。
シアン(CN-)は酸性下で水素イオン(H+)と結合し、
猛毒のシアン化水素ガス(HCN)が発生する。 石灰倉庫


石灰倉庫の左手には貯水槽がある。
アルカリ性にしてガスの発生を抑えるため、
消石灰(Cu(OH)2)は不可欠である。 貯水槽


ここは生石灰と水を混合して消石灰を生成する場所だ。
化学式ではCaO+H2O→Ca(OH)2となり、
この時熱が発生する。 源流槽室


下部に広がる5基のチューブミル室。
第一次磨鉱後の排出泥は 「ドル分級機」流体中の固体粒子の沈降速度差を利用する細粒分流器 を使用して、
さらに細粒化される。 チューブミル


磨鉱場の左端には橋形クレーンの巨大な遺構がある。
ここは溶接場で資材の切断や加工、
定尺の鋼材を扱っていたようだ。 橋形クレーン


クレーンは地上のレールの上を走行する屋外型で、
片側が地面を、片側が高所の梁を伝う、
片門形クレーンと呼ばれる形式だ。 マウスon 片脚橋形クレーン


遠心力を利用したサイクロン装置で奔流となった排出泥、
ここからBリーチング工程となる。
トレーシックナー(4基)に流入した泥は濃縮される。 トレーシックナー


シックナーは濃縮槽と言われ、液体中の固体粒子を重力で、
上澄みの清澄液と高濃度のスラッジ(泥漿)に沈殿分類する装置だ。
連続させることで脱水が可能だ。 シックナー


「スピゴット」シックナーの下部沈殿物排出口 から 「コンディショナー」温度湿度調整装置 を経由し、
青化ソーダ[=シアン化ナトリウム(NaCN)]、石灰を加えて 「アジテーター」撹拌装置 に流入させる。
撹拌時間は2昼夜である。 アジテーター室


冒頭で解説した通り、
金がシアン溶液に溶解するためには酸素は不可欠となる。
これは空気機械室、つまり酸素を供給するコンプレッサーの土台だ。 製錬空気機械室


撹拌を終えた泥状物質は 一次「オリバーフィルター」真空回転円筒型ろ過機 10基と二次フィルター10基を通過、
金銀合金を含んだ濾液は、
いよいよ最後の工程Cメリルクロー処理に入る。 選鉱所


メリルクローは投入した亜鉛粉がシアンと結びつくことで、
金銀合金の析出を促す工程だ。
ここにはメリルプレスという装置が9基存在した。 メリルクロー


金銀合金が析出したわけだが、本工場での工程はここまでとなる。
前述の電気精製による純金の精錬は、
新居浜や瀬戸内海の四阪島に鉱送されて施行される。 製錬


青化場から排出される滓鉱は濃度32〜34%の固体に調整されて、
「スライムポンプ」固体粒子懸濁液を流送するための摩耗の少ないポンプ にて山上まで移送される。
山上には打留堤内(ダム)がある。 スライムポンプ室


滓鉱処理図 画像クリックで拡大


送泥管の専用橋脚である。
斜距離は803m、水平距離747m、
内径150o、鋼管肉厚9oのものであった。 送泥管


昭和6年(1931)の満州事変以降、アメリカは金価格を1.5倍に引き上げた。
この時期、日本でも青化製錬所の新設が着手され始めた時期であり、
金鉱業は採算的に有利な立場へと躍進する。 精錬所


昭和12年(1937)の日支事変勃発後、国内産金の急務が叫ばれ、
青化製錬場建設に対する補助交付金が実施、
1gでも多くの金を産出することが国策遂行に沿うものとされた。 選鉱所


昭和17年(1942)までには全国の産金量131tを目標とした、
5か年計画が策定され、空前のゴールドラッシュが現出した。
その時期に稼働した青化製錬所は全国で65か所にのぼる。 コーンクラッシャ室


ところが第二次大戦の勃発は、日本の世界的孤立を導き、
その価値を失った金鉱業は政策により一斉に休山となる。
昭和18年4月のことである。 階段


金山整備法により休止となった金山は国策会社の帝国鉱業開発により
一定の基準のもと買取保証がなされた。
そこで岐路となったのが、保坑鉱山である。 傾斜コンベヤ


その中で銅などの必要鉱物を採掘する鉱山は継続、大規模金山は廃止されず休止となった。
具体的には手稲鉱山音羽鉱山沼の上鉱山は別鉱産としての稼行継続、
鴻之舞鉱山千歳鉱山は採掘を中断した保坑鉱山となった。 金山整備令


全ての金山が休廃止した昭和19年以降、遊休機械の他重要鉱山への転用と、
69鉱山の選鉱機械の一新を試みた政府の緊急策であったが、
資材の緊迫が影響し、終戦前に完成をみたものは数か所に過ぎなかった。 索道


戦後の青化製錬所の稼行は本坑も含め、わずか6か所。
戦前の盛況に比較してもその1割でしかないが、
それでも昭和18年の休山からの復活、これは一つの軌跡である。 破砕










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