留萌炭田の秘境、九州鉱山の儚い夢


沼田町は人口3,000人。
石狩平野の北端部に位置し、北上すると山岳地帯に及ぶ。
平野部は大規模な水田が非常に多い。 丘


平成4年完成のロックフィルダム、沼田ダムにより、
幌新太刀別川が堰き止められてできたホロピリ湖は周囲17q。
水深45mの湖底にはかつての炭鉱町、浅野市街地が沈んでいる。 マウスon 旧地形図


幌新太刀別川沿いの道々867号線脇には、
貨車積込ホッパーが残存している。
付近には太刀別駅があったはずだが痕跡はない。 ホッパー


ホッパー下部には原炭排出口の鋼製ゲートも残る。
ここは昭和35年(1960)に建設され、
炭鉱稼働の7年間で68万tの出炭がなされた。 積込施設


ホッパーの形状は空知の財閥系炭鉱とも釧路方面の炭鉱とも異なる。
全体に高さがあり、幅は狭く、擦り付け部分の傾斜が急だ。
この形状をデジャブのように再び山中で見ることとなる。 ホッパー


照喜橋から幌新太刀別川にそって林道を歩く。
ここからは一気山中深くなり、
獣害対策が必要だ。 照喜橋


留萌鉄道のアバット(橋台)跡が林道脇に残る。
太刀別駅は留萌鉄道の開通(昭和5年(1930))から、
遅れること31年、昭和36年(1961)に新設された駅だ。 マウスon 留萌鉄道 本社屋




この道は 昭和炭鉱ガイドツアー でも歩いた道だ。
途中で路盤が大きく決壊し、
車両は現在通行止めだ。 林道


林道脇にはヒグマの痕跡だ。
大正12年8月、羆による8名の被害者が出た「石狩沼田幌新事件」は史上2番目の大惨事だ。
ニアミスを避けるため、人間の存在をアピールしながら入山する。 羆



ここが 昭和炭鉱との分岐である 。
左が昭和、右が太刀別である。
ここまでが道々から約3.18q、ここから太刀別までが約3.79q。 分岐


分岐を過ぎると一気に道幅は狭く廃道色が濃くなる。
分岐が距離的には半分の道程ではあるが、
ここからのアプローチが厳しいものとなる。 林道


暫く廃道を進むと大きく路盤が損傷している箇所がある。
一本橋のように細い回廊しかない。
十分注意して進む。 回廊


廃道から少し離れた旧東町付近。
RC製の遺構が河原に残存している。
付近には平場もあり、居住区域だったようだ。 砂防ダム


膝まで水没して幌新太刀別川上流域を渡渉する。
太刀別炭鉱の従業員住居は浅野東町に存在し、
ボンネットバスで通勤したという。 渡渉


右岸には人工の構造物がある。
屋根が大きく崩れ落ちた建物だ。
足元、頭上に注意して接近してみる。 浄水場


内部は地下のタンク室といくつかの小部屋に分かれている。
これは恐らく浄水場の廃祉で、
薬品を使用する急速ろ過の施設ではないだろうか。 浄水場


主幹の表示があり、電気的にポンプなどを制御していたようだ。
凝集用の薬品を用いて水中の濁質を集め、
濁りを固めて沈殿除去、逃した細かい濁りは砂を用いてろ過する。
(※地下タンク上に建物があり床は薄く落下の危険、内部侵入しないようにお願いします。) 急速ろ過


幌新太刀別川を水源とした導水施設、着水井(ちゃくすいせい)だ。
足元はモルタルが劣化し非常に危険だ。
かつては昭和地区への浄水の供給を担っていたのだろう。 浄水場




元の廃道ルートに戻り暫く登ると、
ガードレールのが一部残っている。
当時発生した通勤バスの事故も閉山への一端だと言われる。 ガードレール


やがて廃道は激藪と化す。
太刀別炭鉱を所有した九州鉱山(株)の本社は東京にあり、
昭和12年(1937)設立、東美唄炭鉱もその傘下であった。 激藪


かつての道路は中央部が大きくえぐれている。
付近には広大な平場があり、
建物の基礎が一部残存している。 マウスon 集落跡


昭和炭鉱との分岐から2.0q地点。
ここからはひたすら藪漕ぎの連続だ。
この道をボンネットバスが往来していたことが驚きだ。 廃道


暫くの藪漕ぎの後、
幌新太刀別川の最上流部に向けて早めに斜面を下る。
これ以上藪の廃道を進んでしまうと等高線の密な斜面で沢に下ることとなる。 マウスon 羆


地形図上で想像していたよりも浅く、かつ岸の幅はある沢を登る。
ここからは完全廃道、等高線と沢の関係を十分読図した上で歩く。
突然、進めなくなる可能性もあるのでエスケープルートを確認しつつ進む。 渡渉


苔で滑る岩場。
進度が遅くなり、GPSを確認する度合いも増えている。
炭鉱跡まではおよそ900m。 沢登り


暫く登ると川床に配管が埋没している。
他にも鋼材が散らばり、
紛れもなく炭鉱跡の痕跡だ。 配管


そしていよいよ確定的な痕跡、レールの出現だ。
高さは64o程度なので恐らく9s級。
予定の炭鉱跡は更に西側の山中を推論していたが・・。 レール


レールや鋼材、配管類の遺構が一気に増加する。
炭鉱跡にかなり近いかもしれないが、
これらが発見できる最大の遺構となってしまうかもしれない。 レール


本来目的の議定地は西であるが一旦北方の沢沿いに進む。
その奥には黒い斜面が見える。
ここは恐らく炭鉱裏側のズリ山のようだ。 ズリ山


ズリ山の上部に登る。
その奥には滝があり、この上流は坑口かもしれない。
滝の中腹まで登ったが足場が悪く危険と判断、一旦沢を下る。 滝


ズリ山から下り、等高線が淡いであろう別の沢を登る。
足元には80A程度の配管用炭素鋼管にビクトリックジョイントが接続されている。
ここからラスト220m程がハードルートとなる。 ビクトリックジョイント


これがルートである。
斜度もありつつ足元は汚泥で非常に滑る。
スリーオクロックナインオクロックで鋸刃のような線を描いて登る。 マウスon ヒグマ


廃ルート中にも遺構がある。
尖った枝で瞼が切れる。
あと50m程度で目的地だ。 ハードルート


写真では非常にわかりにくいが、
道の跡である。
炭鉱が盛んだった時期の道であろう。 廃道


そしてその廃道を少し進んだ先、
森の奥に何か見える。
廃墟だ。 廃墟


太刀別鉱業所、到達である。
これは索道の起点、
積込用の原炭ポケットだ。 廃墟


ここで採掘した原炭を集約し、
バケットに積込み、山下5qの貨車積込用ホッパーまで、
架空索道(送炭ケーブル)が往来していたのだ。 ホッパー


高さと幅の比率と言い、鋭角な傾斜と言い、
道道沿いの貨車積込用ホッパーと同様の形状だ。
高さは20m程度ある。 原炭ポケット




太刀別炭鉱は昭和35年(1960)開坑なので空知管内では最新の部類に入る炭鉱だ。
昭和35年と言えば 羽幌 では出炭100万t超え、 奔別立坑 の完成の年でもある。
本坑の索道も当時の最新技術で運用された。 原炭ポケット


索道に関わる鋼製の部材も残る。
「産炭地域振興臨時措置法」 産炭地域における鉱工業等の急速かつ計画的な発展と石炭需要の安定的拡大を図る法律 が施行されたのが翌年の昭和36年だ。
石炭産業に陰りが見られたその時期だ。 索道


北の斜面を原炭ポケット同様の高さまで登る。
索道ケーブルの操作は女性鉱員の仕事だったようだ。
バケットを連ねた送炭ケーブルは壮観だったと思う。 原炭ポケット


斜面の中腹には選炭施設らしき遺構がある。
付近はかつて『右大股』と呼ばれた地域だった。
現在はその地名もない。 選炭施設


選炭施設は更に斜面に続く。
出炭開始当時の従業員数は230名。
昭和41年(1966)には439名に膨れ上がった。 選炭施設


斜面の最上部には平場があり、
その奥にも遺構が広がる。
出炭量は年産10万t程度であった。 選炭施設


美唄炭鉱 の昭和19年の出炭量は253万t。
太刀別の規模を想像いただきたい。
周辺を探索したが、坑口らしき部分は発見できなかった。 選炭施設


「切羽」 坑道最奥の石炭掘削最前線 はやがて深部移行となり、湧水が激しかったようだ。
また通勤バスの大事故を契機とした鉱員の大量退職が発生、
昭和44年4月、閉山についての労使交渉が始まる。 選炭施設


閉山決定寸前のヤマでは、採炭のみ継続、原炭ポケットに貯炭、
送炭ケーブルは完全停止という異常状態となった。
その後、昭和44年(1969)4月20日、出炭開始からわずか7年で閉山を迎える。 選炭施設


50年以上の時を経て広がる廃墟群。
冒頭紹介の国会議事録によると、昭和炭鉱の坑道を延長、
太刀別との接続による統合開発という壮大な計画があったようだがそれは儚い夢と化した。 選炭施設



今回は 日本の過疎地様より多数の資料を提供いただきました。
この場をお借りしてお礼申し上げます。





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