太刀別炭鉱跡  探検: 北の細道 太刀別炭鉱

太刀別炭鉱で辺境ヤマの薄暮をみる




北海道沼田町

   昭和43年(1968)9月20日の衆議院国会議事録には以下の一文がある。
石炭対策特別委員会の第5号である。
メインとなった議題は夕張炭鉱災害に関する問題と、石炭振興対策の基本問題だ。

重大事故に至る経緯、状況、そして保安調査団の決議の具体策についての方策が討論され、
その後、産炭地域振興の運用についての経過が各省通じて審議される。

その中で話題に上ったのは、 雨竜炭鉱 の閉山に対して労働者側が新政策確立まで、
閉山には応じないという対立状況だ。
そして留萌鉄道が石炭輸送の専用鉄道として君臨している地域性から、
昭和炭鉱と太刀別炭鉱を含む雨竜三山の統合開発が提案されたのである 。

当時、太刀別炭鉱は会社更生法の適用を受けていたし、
昭和炭鉱においても、空知炭田からの労働者の引き抜きが活発になっていた時期だ。
それでも三山の総合開発により労働者の四散を防止する提唱があったのも驚きだが、
スクラップジャッジの淘汰を受け、三山統合開発は未完に終わっている。


道北の三炭田(天北・留萌・苫前)の中で面積300q2、理論可採埋蔵量5億tと第二位の位置を担う
留萌炭田は、留萌市域内の 大和田地区(18.4q2)と、
小平・沼田両町にまたがる雨竜地区(南北40q、東西20q)とに区分される。
雨竜地区では昭和5年(1930)に恵比島ー昭和間の留萌鉄道開通以降、付近の主力炭鉱であった、
明治昭和炭鉱と浅野雨竜炭鉱が本格的な開発に乗りだし、
エネルギー革命による石炭斜陽化時代である昭和35年(1960)になってから、
東美唄炭鉱などを経営していた九州鉱山(株)により太刀別鉱業所は開坑着手された。

昭和・雨竜・太刀別の三炭鉱が最高出炭量を記録したのは、
昭和42年(1967)の約48.5万tであったが、前述のとおり、
翌年には雨竜炭鉱が閉山、全盛期の昭和29年(1954)には従業員850名を抱えた昭和炭鉱と、
鉱区の離れた太刀別炭鉱も出炭開始からわずか7年後の昭和44年(1969)に企業ぐるみの閉山を迎える。

太刀別炭鉱は、あの昭和炭鉱からも4q近く北方の山中に存在した。
索道による原炭搬出のため、恐らく鉱山道路は廃道の予想。
衛星写真で確認すると、深い山中に唯一の構造物は見える。

ヒグマの足跡が見慣れたころに炭鉱跡地に到達。
往復の歩行距離は14.5qに及ぶ。


汚泥の斜面の登攀、膝まで水没しての沢登り、酷い藪漕ぎ。
前人未到の炭鉱跡地は静かな森の奥だった。





※本坑は山中深く相当の難所です。
登山や読図知識、装備が無いと遭難や獣害の危険があります。
不用意に入山しないようお願いいします。

ホッパー・浄水場・ヒグマ・・・



積込ビン
( ̄u ̄;)ホッパー





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