ドイツ王国
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フランク王国の分裂後、東フランク王国は、カールマンの庶子アルヌルフが治めていました。 アルヌルフの嫡子ルートヴィヒ4世が後を継いだのですが、ルートヴィヒ4世には嫡子がおらず、 ゲルマンの風習により、貴族による選挙で、コンラート1世が国王になりました。 コンラート1世は、フランク人を代表する人物ではありましたが、 あくまで、公の1人に過ぎず、求心力は弱いものでした。 ザクセン公ハインリヒ1世が反乱を起こし、東フランク国王の座を奪いました。 ![]() 学ぶ項目を、ステップを細かく分けて一覧にしました。 「この項目は大丈夫だな。」と思うものは飛ばしてもらって結構です。 自分に必要な項目だけを学べば良いでしょう。 カッコ内は、文部科学省の学習指導要領に従った、目安となる履修学年です。 【10世紀】 (01)ドイツ王国・・・東フランク王国の後称。 ハインリヒ1世はフランク人ではなく、ザクセン人でした。 (02)オットー1世(高2)・・・ハインリヒ1世の子。 ドイツ国王とイタリア国王を兼務。 (03)962年(高2)・・・オットー1世が、第12代神聖ローマ皇帝になりました。 (04)973年・・・オットー1世の死後、その子オットー2世が3役を継ぎました。 (3役)ドイツ国王・イタリア国王・第13代神聖ローマ皇帝 (05)983年・・・オットー2世の死後、その子オットー3世が3役を継ぎました。 (3役)ドイツ国王・イタリア国王・第14代神聖ローマ皇帝 【11世紀】 (06)1002年・・・オットー3世が死去。 結婚直前の死であったため、嫡子がいませんでした。 (07)ハインリヒ2世・・・リウドルフィング朝で唯一の男系子孫であったバイエルン公の子が3役を継承。 (3役)ドイツ国王・イタリア国王・第15代神聖ローマ皇帝 (08)1024年・・・ハインリヒ2世が死去。 嫡子がおらず、リウドルフィング朝は断絶しました。 (09)コンラート2世・・・国王選挙の結果、コンラート1世の曾孫が3役を継ぎました(ザーリアー朝)。 (3役)ドイツ国王・イタリア国王・第16代神聖ローマ皇帝 (10)1039年・・・コンラート2世の死後、その子ハインリヒ3世が2役を継ぎました。 (2役)ローマ国王(ドイツ国王&イタリア国王)・第17代神聖ローマ皇帝 (11)ローマ王国・・・この頃、ドイツ王国とイタリア王国は、合せて「ローマ王国」と呼ばれていました。 (12)1056年・・・ハインリヒ3世の死後、その子ハインリヒ4世が2役を継ぎました。 (2役)ローマ国王・第18代神聖ローマ皇帝 【12世紀】 (13)1106年・・・ハインリヒ4世の死後、その子ハインリヒ5世が2役を継ぎました。 (2役)ローマ国王・第19代神聖ローマ皇帝 (14)1125年・・・ハインリヒ5世が死去。 嫡子がおらず、ザーリアー朝は断絶しました。 (15)ロタール3世・・・国王選挙の結果、ザクセン公のロタール3世が2役を継承(ズップリンブルグ朝)。 (2役)ローマ国王・第20代神聖ローマ皇帝 (16)1139年・・・ロタール3世が死去。 嫡子がおらず、ズップリンブルグ朝は断絶しました。 (17)コンラート3世・・・国王選挙の結果、選出。 神聖ローマ皇帝になれなかった初のローマ国王です。 (18)1152年・・・コンラート3世が死去。 嫡子はいたが、幼かったため、甥が後を継ぎました。 (19)フリードリヒ1世・・・コンラート3世の甥で、ローマ国王&第21代神聖ローマ皇帝です。 (20)1189年・・・フリードリヒ1世の死後、その子ハインリヒ6世が2役を継ぎました。 (2役)ローマ国王・第22代神聖ローマ皇帝 (21)1197年・・・ハインリヒ6世の死後、王位争いが勃発! いったい何があったの? 【13世紀】 (22)1209年・・・オットー4世が王位を奪取し、ローマ国王&第23代神聖ローマ皇帝になりました。 (23)1218年・・・オットー4世が戦死! また揉め事があったの? (24)フリードリヒ2世・・・ローマ教皇が後見し、ローマ国王&第24代神聖ローマ皇帝になりました。 (25)1250年・・・フリードリヒ2世が死去。 ここから1273年まで「大空位時代」です。 (※)1273年に、ハプスブルク家のルドルフ1世が即位します。 → こちら 「時間の単位」に戻る |
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