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長島尉信(やすのぶ)の見聞録を中心に考察

■一間(いっけん)
建物は1間を基本にしますが、1間の大きさは必ずしも決まっていません。太閤検地からは1間6尺3寸ですが、光圀の建てた華蔵院(けぞういん)は6尺2寸なのでこれで考えたいと思います。

■柱間(はしらま)

柱間寸法には真々制(しんしんせい)と内法制(うちのりせい)があります。真々制は柱の真と柱の真を平面図の方眼の交点にする方法です。柱の大きさが一定でないため畳の大きさがまちまちになる欠点があります。
畳が普及するにつれ部屋の寸法が違うという不都合が生じ、畳の寸法を基準にする内法制に移行していきました。内法制は16世紀後半から見られ、17世紀には一般的になりました。時期から見て内法制と考えられますが、平面図から見て真々制で設計されていると見た方が良さそうです。

■2階の位置

2階の位置は平面図からだけでは特定できません。平面図を見ると中央の左上方に梯子段と梯子間がありますが、この階段の昇り方向がどちらかによって2階の位置が変わってきます。長島尉信(やすのぶ)の覚え書き(天保10年(1839) 6/16夕方 訪問の記)を基に考察してみます。
まず、寅賓閣の玄関にはいるところから見ていきます。

玄関の1間に太刀を置き、廊下、詰物間(皆琉球様な畳)を経て閣へ登るハシゴの下をくぐり行くと、20畳の御座間である。ここの柱や障子は常の通りである。

この文章から2階は玄関の近くにあることが分かります。ハシゴの下は空間があり、通り抜けられる形のようです。そして詰物間の畳は琉球様な畳です。御座間は20畳、柱、障子は普通。あまり凝った造りではなさそうです。
この後、尉信は御奥、廊下の左に小間、数寄屋の御茶所、御寝所、湯殿、等を拝見します。そして

戻って寅賓閣に登る。ハシゴ1間ばかり、七段をあがり、また曲がって七段を上がる。

戻ってというからには、建物内をぐるっと回って玄関脇のハシゴに戻る感じです。また、ここでハシゴの形が明らかです。現在でいうと、14段で3m50~70cm(1段25cmとして)。閣の高さは2.7~3mというところでしょうか。なお、どうもこの文章から見るに当時寅賓閣とは2階のみを指しているようです。

■2階及び2階からの様子

続いて尉信は2階を観察します。

上がりつめた左のほうのから戸に、おかめのすだれの間から貌さし出し・・・

おかめの図が戸に描かれているようです。どのようなおかめの図だったのでしょうか。また、誰が描いたのでしょうか。
次に、

御座間の天井には、天体図が描かれている。

とあり、この天体図が西洋のものか中国のものか分かりませんが、大変興味が持たれます。

御座柱は 木、床襖の絵の上はかもめ、下はちどりである。
次の間の押し込みには、御茶道具があり、障子のふちこし、いたきりこくみ(板切小組)、朱檀か唐木の類であろう。柱はふしなし総正目の檜である。この御殿ばかりは念を入れてある。

この文章から見ると、2階すなわち寅賓閣は1階に比べてかなり凝った造りであったようです。

■再び2階の位置について

尉信は2階に上り、欄干に出て風景を眺めて記しています。

欄干に出ると、・・そのもとより海辺となる。左は恵明院の境内、・・鹿島が崎まで・・。
右は、津明神・海防陣屋、赤壁の崖・・。正面東方は、海万里霞みのごとく、
・・月がほのぼのとさし出たり、・・。

欄干の正面には海が見え、左(現地に立って海を見ながら右を見ると願入寺が見えるので、たぶん右の間違いと思われる)には願入寺、鹿島、右(たぶん左)には津神社が見えるということは、2階が平面図に記されている部屋の名前で言うと<御亭>であったと推測できます。
というのも方向からいってもう一つの2階の候補と考えられる表御座間(はしご段の昇り方向が逆になる案)からはこの景色が眺望できません。寅賓閣は何にもまして、眺めが良くなければならないので正面脇の御亭が
2階と考えて間違いなさそうです。また、表御座間が2階であるとしたとき、他の部屋と続いている形となりかなり大きな2階となります。こうなると階段がここにしかなく、不自然な形となります。一方、御亭を2階とすると、御亭の隣室<次の間>の後ろに階段が認められます。(飲食物はここで運ぶのでしょう)。

恵明院:本願寺14世琢如の子瑛兼、延宝元年、願入寺にはいる。

■2階の位置の補足

立原杏所の絵には2階が描かれています。
この場所も玄関脇と考えると他の屋根の位置と平面図の部屋の配置がよく合致しています。

新たな疑問及び検討事項

疑問点やさらに検討すべき項目が出てきます。

■平面図との不一致

見聞録の最初に「ハシゴの下をくぐり行くと、20畳の御座間である。」とありますが、
平面図には20畳の部屋とおぼしきものがありません。
また、建物内をぐるりと回りますが、平面図との不一致が多く見られます。

■天体図

寅賓閣2階の天井には天体図が描かれているときされていますが、
その種類は中国の天球図なのか、それとも西洋から入ってきたものなのか不明です。
手がかりは光圀と暦は深い関係にあり、当時江戸幕府の天文職にあった渋川春海(1639~1715)は
御城碁を通じて会津藩主保科正之や光圀に寵愛されていたそうです。
渋川春海は寅賓閣が建てられたとき(1698)には59歳です。
貞享改暦や天球儀「渾天新図」(金属製)でよく知られています。
この天体図も何らかの関係があったのではと考えられます。

■おかめの絵

2階の戸のおかめの絵を評して「生きているような絵であった」と書いてあります。生きているようなおかめの絵とはどのような絵なのでしょうか?また、襖には絵が描いてあったはずで、それはどのようなもので誰が描いたのでしょう。
当時の水戸藩には狩野派の絵師、狩野興也(~寛文13年)がおり、また晩年の光圀に才能を見いだされた桜井才次郎がおります。桜井才次郎は水戸白銀町に生まれ、元禄8年(1695)18才のときに光圀に召し出されています。吉田、静、稲田神社への奉納の四神の旗を描いたことで知られています。寅賓閣の中に描かれた絵にも関係があったかもしれません。
いずれにしろ、疑問はまだまだ残りますが、復元に向けて解明は今後少しずつなされていくでしょう。

次回は立体図からの類推を記します。

参考文献
(1)特別展「幕末」、農政学者「長島尉信とその時代」解説書、茨城県立歴史館、平成7年2月
(2)全国都市緑化いばらきフェア特別展「水戸黄門光圀とその周辺」解説書、茨城県立歴史館、平成5年3月
(3)三渓園パンフレット、(財)三渓園保勝会 平成元年
(4)日本人はどのように建造物をつくってきたか「桂離宮」、斉藤英俊、穂積和夫、草思社、1993(平成5年)