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ドイツワイン 徳川光圀別邸 自己紹介 メール
 

研究材料

暇建物の形状の検討について経緯を含めて述べていきます。当初手元にあったのは平面図です。そこで、まず最初にその他の資料を集めることから始めました。幸いにも郷土史家の佐藤次男氏が旧那珂湊市の市史編纂室において那珂湊市史料のひとつとして寅賓閣の関連文献資料を編纂されておりました。
この史料は平成4年にまとめられ、第13集として出版されました。しかし、文献内容からは建物の形状に関する具体的記述は見つかりませんでした。わずかに、建てたときにかかった費用、責任者、及び後年になって寅賓閣の廻りを取り囲む芝垣が修理されたときの記録が見られるのみです。そこで復元研究会では、平面図以外の図面を探すことと同時に、建築史家の一色先生のご指導もあり、同時代の建物の調査、それからの類推を行うこととになりました。

■図面を探す。--発見の経緯

図面としては大洗の願入寺所蔵「親鸞上人絵図」に遠景として寅賓閣らしきものが描かれています。
ただ、周りに樹木が多く描かれ建物全体はよくわかりません。そうこうしているうちに光圀の料理を再現するなどでよく知られている水戸の大塚屋さんにお話をうかがう機会があり、その際大塚屋さんからそれなら家にあるよ、といわれて、江戸時代の水戸藩の画家として著名な立原杏所の絵のコピーを持ってこられました。これが「那珂港図」(立原杏所、県立歴史館所蔵)で、そこには寅賓閣とおぼしき建物の屋根の部分が描かれていました。これは貴重な資料となりました。
平成4年に佐藤次男氏から千葉佐倉にある国立歴史民族博物館に「天狗党の絵巻」がでたということを聞き、復元研究会のメンバー数人が見に行きました。そこには天狗党の乱で延焼した寅賓閣の建物が描かれていました。描いた人は従軍記者に相当する人ではないかと推察されます。
(「水戸天狗党絵巻」日和山の全体(国立歴史民族博物館所蔵))
このほかに「湊村天保絵図」が旧那珂湊市の市史編纂室に所蔵されていますが、寅賓閣の部分は空白となっており(たぶん、明確に描くことは許されなかったのではと考えられます)。ただし、表御門のみは正確に描かれています。考察は別に述べるとして、上記4点が図面的な資料です。

■同時代の建物を探す

光圀の建てた茨城県内の建物はかなりあります。
しかし、当時のまま現存するものは少なく、多くは建て替えられています。いくつかその痕跡を示します。

県内

●華蔵院(けぞういん)
柱間が昔のまま残っています。

●長勝寺

引き戸にうっすらと絵が残っています。

県外

●臨春閣(りんしゅんかく)
同時代の建物は全国的にも多く存在しますが、一番建物の意味からいって近いのが徳川御三家の別邸です。調査をすると、紀州徳川家の別邸(巖出御殿)が横浜本牧の三渓園に残っていました。
これは臨春閣と言う建物です。慶安2年(1649)に創建され、8代将軍吉宗も幼時にはこの御殿で過ごされたといいます。平成 年に復元研究会のメンバーは臨春閣を見学にいきました。
臨春閣は瀟洒な中にもわび、さびの取り入れられた秀麗な建物です。建物の配置は雁行という雁が飛んでいく様子に似ており、別荘建築の特長が出ています。また、上段の間の背後には廊下を隔てて便所と浴室があり、次に記す桂離宮にも同様な構想が見られるので、別荘建築の特徴であろうといわれています。
夏の別荘として意識されており、和歌山の地形に合わせ、風の吹く方向もよく考えられているそうです。襖絵は狩野探幽、同安信等の落款が見られます。

●桂離宮
桂離宮は日本美を代表する世界的に有名です。元和(1615~1624)頃、八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王の別荘として建てられ、その後数次にわたって造築されました。予約をするとその瀟洒で繊細を見学できます。ただし、見学は外観のみで、中は写真集でしか見ることができません。文献によりその特徴を述べますと、建物の配置は雁行、屋根は起り(むくり)屋根で、入母屋造り、柿(こけら)葺き(現在は桟瓦葺き)です。大きさは平面図を比較すると、ほぼ寅賓閣と同じぐらいです。数字で見ると、中書院の天井の高さが2.5m、棟高さが7.3m、柱の太さは12cmです。また、柱、桁、鴨居、敷居等には松、杉、籾など多様な部材が使われています。
斉藤英俊氏は草庵風茶室とよんでいます。また、文献の中で、設計図は簡単な平面図のみで、細かい点は親王が現場で指示したと書いてあります。詳しくは文献を是非参照してください。

■井戸跡を探す

寅賓閣が日和山にあったことは確かですが、実際にどの位置にあったかは定かでありません。
平面図は周りの庭園も書き込んであり、おおよその位置は見当がつきます。
そこで、平面図に書き込んである建物の近くの井戸を位置確認のために掘り出そうと言うことになりました。
最初は探査レーダを用いて検討をつけました。しかし、実際に掘り起こしてみないと確認にはならず、平成5年に井上義安氏を中心にして発掘調査が行われ、井戸跡が発見されました。

その経緯は文献に纏められました。

建物の形状は実は上記のことからはよく分かりません。疑問点の第1は寅賓閣という名前の閣から、2階があることをうかがわせるが、平面図からは2階があったのかどうかがよく分かりません。また、あったとしてもどの部分が2階か分からない点です。はしご段はあるが、どの方向が昇りなのかが分かりません。
第2点は平面図では行き止まり、部屋なのか廊下なのかが分からない部分がいくつかあります。風呂の場所も屋外なのか屋内なのかは分かりません。
2階があるかどうかの不明点は思わぬ発見から解決しました。

■長島尉信(やすのぶ)

故佐藤次男氏から県立歴史館の長島尉信展(平成7年2月)の解説に寅賓閣を訪れたときの見聞録が載っているという連絡がありました。この文献から2階の位置がほぼ類推できました。これは検討結果の(2)に示します。しかし、文献と平面図は必ずしもうまく一致していません。さらに疑問点はでてきましたが、とりあえず、この文献や図面から得た結果を「調査結果」の項に示します。