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ドイツワイン 徳川光圀別邸 自己紹介 メール
 

概要

寅賓閣はひたちなか市(旧那珂湊市)の海近くに建っていた建坪300坪の水戸光圀の別邸です。
この概要では寅賓閣がいつ頃建立されていつまで建っていたか、その後其処はどうなっているかについて、
寅賓閣のイメージを掴むために少し歴史的に追ってみます。

■寅賓閣建立以前

那珂湊には佐竹氏(慶長7年(1602)、徳川家康により秋田へ国替えをさせられた)の残していった湊御殿と呼ばれる別館がありました。湊御殿が何処にあったかは正確にはわかりませんが、那珂湊市史料13集(文献1)の佐藤次男氏の解説によれば日和山(御殿山)北側の山下(南水主町、現中央1丁目)にあったようです。

■津波の話

光圀がこの湊御殿へ来館時に津波に襲われた記録が残っています。津波に関する記事は種々の資料に記載されていますが、正確には延宝5年(1677)10月9日に房総半島南東沖においてM=7.4の地震が発生した記録が東大地震研の記録に載っているので、これであろう(文献1の解説)とのことです。このとき津波は「御門のきわまで」押し寄せ、光圀はちょうどこの別館にいたそうです。

■日乗上人(1648~1703)

江戸時代の初めに日乗上人という人がいました。
常陸太田の久昌寺の住職で、水戸光圀と深い親交を結び、よく二人でお酒を飲みながら詩を詠んでいたのが、残された日誌に載っています。この日誌は元禄4年(1691)から元禄16年(1703)にかけて書かれています。常陸太田から那珂湊まで駕篭にゆられて飲みに来て、月を愛でる風流人でした。光圀と日乗上人がお酒を飲んだ場所は、佐竹氏の残した湊御殿と光圀によって建立された寅賓閣の両方です。

■建立とその後

寅賓閣は元禄10年(1697)の10月から土地の買い上げが始まり、地鎮祭は元禄10年12月27日吉田神社田所宮司により行われ(光圀書簡 文献1のP38)、元禄11年(1698)8月に落成しました。翌年の3月17日、日乗上人は新しくなった舟の御番所、時の鐘楼を見た後、寅賓閣で、

春秋のながめもここに有明の 月もそりよう庭の桜木

と詠んでいます。庭には桜があったようです。
この後、寅賓閣は代々の水戸藩主の宴に使われながら、166年間建っていることになります。時々修理もなされ、たとえば、寅賓閣の回りを囲む芝垣が享保3年(1719)に、御殿表門両脇葉がら垣:10間、東方土手上:12間、22間、御船蔵通り裏:40間、七曲がり:42間、惣間:82間を修理した記録が残っています。

■寅賓閣焼失とその後の日和山☆ (文献(2)より引用)

寅賓閣は元治元年の天狗争乱で焼失しました。那珂湊での戦闘は元治元年8月16日に始まり寅賓閣も大半が焼失、日和山を占拠した松平頼徳勢らはここを本陣として9月20日には本陣の普請まで終えたものの、
10月23日の幕府軍総攻撃で再度戦火に見舞われ、寅賓閣を普請したと思われる本陣も完全に炎上しました。

日和山には寅賓閣焼失から9年後の明治6年(1873)水門小学校が開校、以後、現代に至るまでさまざまな公共施設用地として使われてきました。日和山の地形変更に関わるものをいくつか挙げれば、明治24年水産共進会開催、同30年湊公園開園(日和山東部)、同31年湊尋常高等小学校新築落成、昭和25年那珂湊中学校舎完成、同28年同中学校増築校舎完成、同47年勤労青少年ホーム完成、同47年市営相撲場完成などがあげられます。

そして現在は相撲場は撤去され、お花畑となり、市民憩いの公園となっています。また公園内には「寅賓閣址」の碑と光圀が明石須磨から取り寄せたという老松12株が植えられています。

■文献

(1)那珂湊市史料 13集  那珂湊市(現ひたちなか市)発行 平成4年
(2)寅賓閣井戸跡確認調査報告書 那珂湊市寅賓閣復元研究会 発行 平成6年