明治23(1890)年に近代水道の先駆けとして作られた曽屋配水場を、平成2(1990)年の秦野水道100周年を記念して、「曽屋配水場」と呼ばれる公園化したもので、緑の多い敷地内には水道創設の解説板・記念モニュメントなどが立ち並んでいます。上の画像のモニュメントは、秦野水道100周年を記念して水道を支えてきた先人たちの苦労や喜びを現在にまで伝えてくれます。(汲むこと、飲むことは出来ません)
説明板はかなり古くなっていて 上半分の文字は読み取るのが非常に困難でした。判る所だけを記載してみます。
秦野市の水道は 1890(明治23)年に給水を開始した「曽屋水道」に始まる。これは全国的にも非常に早く, 横浜・函館についで3番目と言われる。それ以前に飲用水として用いられていた用水路からコレラが伝染し多数の犠牲者を出したことを契機に 陶管を利用した水道が敷設された。延長5kmと比較的小規模なものだったが, 技術上の援助のほかは 一切を住民が費用負担した「自営水道」だった。簡易陶管水道・自営水道としては日本初である。1923(大正12)年の関東大震災で 水道施設や配水管は破損したため, 陶管は鉄管に 貯水池は地下式配水池に改良して復旧された。1970(昭和45)年から市内13系統に分かれていた水道を統合整備し, 秦野市水道は一本化された。
秦野水道の創設  = 曽屋水道 =
秦野南の水道は明治20年に当時の曽屋村を舞台に誕生しました。それ以前人々は曽屋神社及び乳牛水神社の湧水を用水路に流して飲用や洗い物などに使用していました。しかし, 人口の増加に伴い, 源泉附近では「清麗珠の如き水」も下流??従い混濁し また降雨の際は路上の泥砂塵が用水路に流入して飲用することは非常に困難になり, さらに明治十二年八月にはこの用水路を介してコレラが発生し, 八十一人の患者が出て二十五人もの犠牲者を出しました。これを契機に識者の間で飲料水改良の対策が検討され「簡易陶管ヲ使用シテ水道を敷設シタルハ曽屋水道ヲ以テ????」と決意を示し明治二十年三月に水道工事委員三十七名の連署をもって, 県へ飲料水改良に関する工事を?????し また,明治二十一年三月に「水道布設工事監督願」と「曽屋村水道工事規約及び??規則」の認可???し同年四月に県の事業認可を得ました。その後同年九月に「衛生ノ道ヲ議スルト同時ニ土地繁栄ノ基ヲ為シ全国に??ノ範ヲ示スベシ」という意志を宣明して更に水道工事申合規約を制定して, 明治二十三年三月十五日?れ ???かいて全国三番目に給水を開始しました。
行き方
画像
由来・歴史
秦野市水道局曽屋配水場構内のロ号湧水
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