小説に登場する五郎左衛門       玄関へ戻る
 御救米事件は5年後の天保12年になって高級旗本の間で繰り広げられた権力争いの材料として蒸し返されため、小説などにも取り上げられている。 そのいくつかを紹介する。
仲田正之  実伝 江川太郎左衛門          鳥影社
 2010年5月に発刊された大冊(978ページ)。主人公の江川太郎左衛門を通して描いた天保時代史である。

 この小説でも、鳥居が矢部を南町奉行の座から追い落とすため、お救い米事件を蒸し返し、駕籠訴まで企てて明るみに出し、首尾よく矢部を改易、桑名藩「お預け」に追い込むくだりが描かれている。

第三章 徳丸原   P.559からP.563抜粋

 天保12年4月15日、長崎奉行田口喜行が勘定奉行に昇進した。 前年高島秋帆の天保上書を幕府に取次ぎ、称揚した人物である、先見の明ある、期待された人材であった。鳥居は、アヘン戦争の結果を信じていないから田口の動きが気に入らない。 まして、忠邦が田口を用いる予兆があったため、本庄茂平次を長崎に派遣してあったのである。
 田口、高島潰しの第一弾は田口に発射された。本庄のもたらした情報を上げて、忽ち田口を引きずりおろした。 田口は拝命から1ヵ月に満たずに五月十四日に罷免され、小普請入りを命ぜられた。 理由は長崎在勤中の不正と家事不取締であった。
 鳥居耀蔵は御勝手取締掛兼任目付であるから先任の勘定奉行といえども安閑としてはいられない。田口の次は内藤隼人正矩佳である。勘定奉行としては公正な能吏であったが、一昨年の御備場見分のころより鳥居に脅迫され、病気を理由に辞意を漏らしていた。忠邦は仕事ぶりから慰留していたが、昨年より本当に病気勝ちになり、この年6月9日に歿した。毎日勘定所や勘定奉行の御用部屋に鳥居は現れる。そして子細ありげに挨拶されて、にやりと笑われれば病気にもなろう。
 昨11年頃は長崎奉行に転出の噂のあった鳥居であるが、この十二年忠邦の粛正の進行と改革の機運を見て、一足飛びに町奉行となり、改革の先鋒となる意思を見せ始めた。勘定奉行を引きずりおろして、南北どちらかを後任に出せば、町奉行の空席ができる。そこを狙ったのであるが、北の遠山景元は勘定奉行からの転出であり、南の矢部定謙は4月28日に就任したばかりである。
 鳥居の画策むなしく、田口の後任は土岐丹波守頼旨であり、内藤の後任は松平豊前守政周であった。いくら鳥居であっても、多くの者が昇進を願い、また上から抜擢しようとしているのであるから、そう思うようにはいかない。
 ならば南北どちらかを直接退任に追込む以外にない。しかし、遠山をつつくと、本庄茂平次を追っている者たちを使って反撃される恐れはある。遠山も役についてから芒洋としているが、若い時から本性は知っている。家ぐらい潰す覚悟で向かってくるだろう。やむを得ない。奥の手を使って矢部を落とそう。
 まず南町奉行所を調査すると、同心佐久間伝蔵が同僚の堀口六左衛門の倅を役宅で殺害した。その直後に佐久間は南町奉行所内で斬殺されている。この事件は佐久間の乱心で片付けられていたが、原因は天保7年の凶作に対処する幕府の買付米にあった。町奉行は公事訴訟ばかりでなく、町年寄を通じて江戸の民政も担当する。
 幕府の御用達の手配する廻米船が天候の都合で芝浦に到着するのが遅れた。これは町奉行裁量で放出する米であった。すると、勘定奉行手配の廻米船がほぼ同時に到着した。双方米問屋に入札させ、市中に流通させる目的であった。
 町奉行が手配した御用達は予想放出値段を推定して買付けの契約をしていた。そこへ別の船が同じ米を持ってくれば、当然入札値段は下がり、損失が出る。凶作時に臨時に命じた御用であるから、損失を出させては気の毒である。担当の同心堀口と佐久間はそう判断して、指示を仰いだ。内々許可となり、相場値段ではなく契約値段での支払いが行われ、帳簿上の操作でごまかした。

 これが後日問題となると責任がどういう訳か佐久間だけにかぶせられた。怒った佐久間は堀口を責めるべく役宅に行ったが、当人がおらず、息子を殺害した。
 その足で南町奉行所に行ったところ逆に殺害される羽目になった、という事件である。その後、堀口は与力に昇進している。
 これは前任の筒井が南町奉行時代の事件である。矢部が引継いでから調査させると、与力の仁杉五郎左衛門が米の買付けの指示をしたことが分かり、当時の帳面には扮飾がいくつかあることが発覚した。町方御用達手代の旅費、東国米問屋の失費、難船による買付米損失を売却済みとしたなどである。さらに買付米の資金として問屋、質屋二十名から三万両を立替えさせ、米価相場の下がった時期に米問屋仲買の口銭を下げず、その増加分を取立てて返却すると上中しながら、取立てを怠り、窮民への貸与米を被下切(無償放出)にして、双方そのままにした事も発覚した。 したがって、仁杉、堀口が自己の怠慢を佐久間一人にかぶせ、筒井も失策を頬かぶりし、済ませてしまった事は明らかである。矢部はこの事実を勘定奉行時代に調査してあり、南町奉行に就任すると、仁杉の飢饉救済の功に免じて暇、押込で済ませてしまった。当時の同心五名もそれぞれ叱責程度の軽いものであった。

 特に筒井に関しては北町の大草高好や勘定奉行明楽茂村と協議して進め、幕閣の承認をへたことであり、すでに褒賞も行われた経緯もある。よって、これを咎め立てしなかった。仁杉らの処置も前任者時代の事件であり、累が筒井に及ばぬように配慮したものである。
 鳥居はこの書取を見て、徒士目付の加藤鎌蔵に言った。
「佐久間の遺族はどうなっておる」
「八丁堀を追われて、女房が洗濯、繕い物などをして凌いでおります」
「当然、恨んでおろうの」
「はー。江戸の人々のために働いたことであり、主人が不正をした訳ではない。その責をたかが同心の主人にだけかぶせるのも酷いが、上任の堀口殿が責任を問われず、昇進までしているのは許せない、と斯様に憤っておりました」
「そうであろうの。よし、女房に駕籠訴させろ」
「はっ。 して誰方に。」
「はっはっはっ……。水野越前だ。場所は日比谷門から大手門の間ぐらいにしろ。やむなく受理したように、供廻りに手配しておく」 

駕寵訴などをいちいち認めていたら、秩序は崩れる。まして老中首座から禁を破っては話にならない。佐久間の女房の
「越前守様とお見うけいたします。お願いでございます。お取上げを」
の声が再三響くが、行列の誰も見向きもしない。早足の行列を追ってくる女の裾は泥にまみれ、突き飛ばされる度に髪もざんばらになってくる。 行列が大手に近付くと、他の大名の目もある。女の必死の形相と声は忠邦の対面に拘わる。すると、倒れた女のさしだす訴状を後列の供侍がさっと取って懐に入れた。行列は足並みも崩さずに行ってしまった。見ている者もやむをえない処置と見る。加藤鎌蔵に小笠原貢蔵が
「巧くいきましたな」
と、語りかけた。
「うむ」
と加藤は答えると、倒れたまま放心状態でいる女に近付き、
「黙っていたが我らは御目付鳥居耀蔵様の手の者だ。後の心配は無用だ。亭主の無念は晴れるぞ」
と助け起こした。

 一方で、鳥居は月番目付方を稟議の上で招集し、南町奉行所の不始末処理に異議ありとする上申書を上げた。矢部の弾劾である。その日の夜鳥居は西城下に忠邦を訪問していた。駕寵訴状と上申書の双方を前に忠邦は、
「どの程度で収めるつもりだ。買付米については拙者も認めた口だが」
「御老中方を問題視している訳ではありません。筒井殿の不始末の処理を矢部殿が隠蔽しようとした処が問題かと思います」
「筒井と矢部の処罰か」
「御意。特に矢部殿の処置が不当かと」
「うーむ。しかし、前任者のしかもその下僚の不始末の処置で、先月仰せが下った者を更迭するとは、上様の御不明ともなる。老中方の同意が得られるかな」
「これはしたり、越前守様とも思われませぬ。前例はいくらもございます。過ちを改めるに憚ることはありません」「それは分かるが、矢部は硬骨漢で支持者も多い。拙者も期待する処があったのじゃ」
「しかし、先年大塩平八郎に告発された事もございますれば」
「其方、前にもそんな事を言ったが、大塩が矢部をどう言ったというのだ」
「西町奉行所公金をある御老中の知行所に貸付け、利銀を取込んだ事、その用達を獄中で密殺した事などでござる」
「そこまで知っておるのか。仕方がない、矢部はやむを得ぬか」
 鳥居は内心快哉を叫んだ。西丸留守居の筒井なんかどうでも良い。どんな形であれ、矢部を南町奉行から追えば目的達成である。鳥居は他の老中方に大塩情報を流し、矢部救済は不可能と思わせるよう、十分に工作した。中途半端な処分で息を吹返されても面倒である。できるだけ重い処罰が良い。
 矢部も筒井も休職の上、急度慎みを命ぜられた。罪科決定には時間がかかった。矢部は賄賂をとらない事で有名であり、「自分一生の不覚は、最初の御役に出たいがために賄賂を使ったことでござる。この汚点はいくら綺麗事をしても、言っても消えるものではない」
と、人がその公正潔癖を褒める度にそう答えたと云う。
したがって支持者は筋道論から軽罪を主張し、鳥居の厳罰論と対立した。
 評定所会議が長引く間に予想もしなかった事態になった。謹慎中の矢部が冤罪を訴えて奔走を始めたのである。矢部は自分の罪過に大塩の告発がある事をさる老中筋から聞いた。この時点でなお人塩を信じていた矢部は驚いた。
 ある者が言った。
「大塩が貴方を謹告した理由は、老中大久保加賀守殿が高井山城守殿の起用を諮問した時、貴方がこれを阻んだというところにある」
と。矢部は思わず、
「何と言われる。拙者は推軌の立場になかったから、答を留保したに過ぎない。山城守殿の登用に大塩が期待をかけていた事は知っているが、拙者が恨まれる筋合いではない」
と、叫んでいた。

 最初矢部と睨懇の者たちは同情して老中方は勿論、評定所会議の掛り役人にも運動した。しかし懇意の者を夜中訪ね、大塩の名をあげて冤罪を訴え、書簡で諸方にも訴えるに及んでは救いようがなくなった。謹慎中の身でありながら不届き至極として、あっけなく重罪に傾いた。

 矢部は、天保12年12月21日正式に南町奉行を罷免され、翌年3月は桑名藩預けとなり、その子は改易に処せられた。その申渡しに同役として立会った遠山左衛門尉は、側隠の情禁じがたく、引かれていく矢部に「矢部殿」と膝を寄せた。すると、矢部も座り直し、

「遠山殿。評定所の御審理中に見苦しき様を見せて御恥ずかしゅうござった。南町の処置が悪かったとすれば、それはやむを得ませぬ。しかし、拙者大坂の事にて恥ずべき事はござらぬ。ただ、彼の乱心者を信じておった事だけは無念です。罪科を軽くなどとは思いませぬが、胸中だけは分かって頂きたかった。それが甘えだとは承知しながら無様な振舞いとなりました。お笑い下さい。遠山殿、御健勝で……」

 桑名に到着すると、矢部は正座したまま夜中は壁にもたれて姿勢を崩さなかった。桑名藩士が食事を勧めても摂らず、水も飲まなかった。そして一週間後に死亡した。自殺に餓死を選ぶほど憤った相手は鳥居ではなく、大塩であり、大塩を信じた自分であったろう。
 矢部が罷免された7日後の12月28日鳥居は待望の南町奉行を拝命した。名を忠耀と改め、任官して甲斐守を称した。人呼んで妖怪(耀甲斐)と云う。民衆は「越前の甲斐(貝)も喉へは通るまじ、かつえ死駿河矢部の思い出」という落首で、忠邦と鳥居を批判し、矢部に同情した。  

牧 英彦 「隠居与力吟味帖 男の背中」    学研M文庫   09.06.11
「隠居与力吟味帖」シリーズの第3弾

 南町奉行所の吟味与力・宇野幸内(隠居与力)が奉行所からの要請を受けて様々な事件を解決していく物語であるが、この第三弾「男の背中」は、筒井伊賀守を南町奉行の座から引きずり落とそうとする鳥居耀蔵の一派と、これを阻止しようとする隠居与力達との争いを主題としている。
 
 野幸内が主人公の小説であるが、この「男の背中」では仁杉五郎左衛門がもう一人の主役で、「温厚そうで品の良い五十男」、「歴代の奉行たちがその人物と能力を認め、頼みにした」など、人格高潔で、有能な老練与力として描かれている。

 小説であるから、設定は自由であるが、筒井伊賀守を南町奉行の座から引きずり落すために、まず五郎左衛を失脚させる画策を矢部定謙と鳥居耀蔵が手を結んで入る事が、これまでにない解釈である。
 また、五郎左衛門の獄死が実は鳥居が送った刺客・三村右近による刺殺だったとしている。 これまで「病死」または「毒殺」という設定が多かったが、「自殺を装った他殺説」は新鮮だった。

 なお主人公の幸内が、裏切った部下(堀口)をなお庇おうとする五郎左衛門を見て、「二の句を継げぬまま、朋友の背中を見やるばかりだった。」とある。 この小説の表題の「男の背中」は「五郎左衛門の背中」の事と解釈できる。

佐藤雅美 「青雲遥かに」大内俊助の生涯    講談社文庫

 この小説は仙台藩から青雲の志を持って江戸に登り、晴れて幕府学問所の寄宿生となった大内俊助を通して描く、天保から明治までの時代史である。
 俊助の廻りに起きる数々の事件や出来事が取り上げられているが、それらの中に、天保12年の出来事として、鳥居耀蔵が、南町奉行の矢部駿河守を罷免に追い込む事件が描かれている。  

                           (前略)

「遠山殿のほかにも越前守殿をお諌めするお人がおられるはず。いかに老中首座とはいえ、独りよがりの突っ走りなどできない」
「それがおられた」
文吾はうなずいて聞く。
「矢部駿河守殿の名は?」
「もちろん知っています。南町奉行で、昨年の十二月に御役御免になれれたということもです。」
.「御役御免にされたのが越前守殿ということは?」
「聞いております」
朝昼晩の会食所での書生の会話は、断片ながら耳に人っている。
「越前守殿は御改革をはじめるに当たり、小普請組支配だった矢部殿を抜擢して南町奉行に登用された。その矢部殿も遠山殿と同様、越前守殿の指示に従わず、むしろ苦言を呈された。越前守殿は耳を貸すどころか、逆恨みするように矢部殿を御役御免差扣とされた。矢部殿を登用されて一年も経たないというのにだ。 あまつさえこのほど伊勢桑名松平家に「預け」とし、跡を継いだ矢部殿のお子に改易を仰せつけられた」
 俊助は目を丸くして聞いた。
「改易のうえ他家へお預けというと大罪人に対する処罰だと聞いております。矢部殿はほかに何かよほどの悪事を働かれていて、それが暴かれたのではないですか?」
「そう思いたいところだが理由はとるにたりない。むしろふざけている」
「とおっしゃいますと?」
「6年前の天保7年(1836)というと飢饉に揺れていた年だが、南町奉行所の市中御救米取扱掛だった仁杉五郎左衛門という与力が、一手に扱っていた米の買上げについて不正を働いた。不正といっても、叩けば挨がでるといった程度の不正で、目をつむればつむれる。目くじらを立てるような不正ではなかった。いや、だからいままで見逃されていた。越前守殿はこれを蒸し返した」
審理は三手掛といって、大目付、町奉行、御目付が各一人集まってすすめられることになった。
大目付は初鹿野美濃守。大目付というとたいそうな御役のように聞こえるが、この時代の大目付は飾り物のような存在で、初鹿野美濃守はいわば雁首を並べただけ。御目付は榊原主計頭。御目付は立会ともいい、立ち会って不義不正があれば口を挟むが、審理にはくわわらない。実質、審理に当たったのは北町奉行の遠山左衛門尉ただ一人。いま一人の南の御奉行矢部駿河守が審理の対象だから、遠山は不承不承ながらも審理に当たらせられることになった。
 与力仁杉五郎左衛門の「不正」は表沙汰にすると問題にせざるをえず、吟味中に獄死していた仁杉を、遠山は「存命ならば死罪」とした。
「敵は本能寺。越前守殿の狙いは矢部殿を追い落とすことにあった」
文吾はまたぷかりと吹かす。
「矢部殿は与力仁杉五郎左衛門の買米不正一件にはまったくかかわっていない。 ただ不正が行なわれていた当時、勘定奉行の要職にあって、一件について若干の調査をした。その後、西丸留守居という閑職に追われていたときもまた若干の調査をした。
矢部殿のこの筋違いの調査が明るみにでて、遠山殿は「後ろ暗い致し方」と問題にした。逆にいうと、筋違いの調査を「後ろ暗い致し方」と問題にするため、越前守殿は仁杉五郎左衛門の買米不正一件をほじくり返した」
俊助は聞いた。
「矢部殿はなにか魂胆があって筋違いの調査をされたのではないのですか。だったら改易のうえ他家へ預けという処罰が妥当かどうかはともかく、たしかに「後ろ暗い致し方」ということになります」
「どういうことだろうと興味を持たれて調べられたのではないのだろうか。魂胆はなかったと思う」
矢部駿河守は癖のある出過ぎたところのある男で、なにかのときに役立たせよう、不正を握っておこうという魂胆があって筋違いの調査をおこなったのだが、巷間にそれは洩れ伝わらず、文吾のように矢部に好意的な見方をする者が少なくなかった。
「どっちにしろ、越前守殿は矢部殿が苦言を呈されるのに耳を籍さず、なにかというと逆らう、不屈き者である、罰せずにおくものかと古傷をほじくりかえし、改易のうえ他家へ預けとされた。ことほどさように、越前守殿は独りよがりで突っ走られ、世間をかつて例を見ない不景気に陥れられている。それが御改革の実体だ。ご丁寧にも矢部殿の後任が例の鳥居耀蔵。人を貶めることにかけては法外に悪知恵が働くといわれている述斎先生のご子息。さっきのちょぼくれではこうもいっている。「三年置いたらすてきにたまげた騒動が起ころぶ」。収拾のつかない騒動が起きるに違いない」
さっきからずっと、俊助の頭には疑問が渦巻いていた。                                後略

牧 英彦 「隠居与力吟味帖 月下の相棒」
                      学研M文庫   08.06.24発刊

前作「錆びた十手」の続編、「隠居与力吟味帖」シリーズの第2弾

前作より五郎左衛門の登場回数が多い。

主人公は、元町奉行所与力の隠居・幸内と、現役若手同心俊平で、二人が様々な事件を解決していくが、事ある毎にその相談役として南町奉行所の年番方与力・仁杉五郎左衛門が登場する。

この小説の中で五郎左衛門は
「見るからに温厚そうな五十男」
奉行所内の諸役を歴任し、今は経験豊富な者のみが就く年番方を務めている。」
「刑事と民政に等しく秀でていたのみならず、砲術にも詳しかった

「細身ながら能く鍛えられた四肢である。内勤の年番方とは思えぬ壮健さは、若年の頃からの鍛錬の成果と言えよう。

「小野派一刀流を修めた幸内に負けず劣らず、剣客として鍛えられていると見受けられた。」

刑吏として優秀なだけではない。その肉体も年季を重ねた、筋金入りの男ぶりであった。

名与力の仁杉」などと表現されている。

 また、御救い米の調達についても、上司の南町奉行・筒井伊賀守は全幅の信頼を五郎左衛門に与えており、北町奉行所の遠山左衛門尉も矢部、鳥居が
不正と言っている御救い米調達について、
「奉行の筒井も与力の仁杉も、私欲を満たすだけのために事に及んだわけではない。」と理解を示している。」としている。 

丹野 顯「江戸の名奉行」    新人物往来社
  町奉行を中心に、勘定奉行、寺社奉行などの職にあったうち「名奉行」とされる23名をとりあげ、その人物・事績・仕置きを紹介している。
このHPでも度々登場する
 遠山左衛門尉、矢部駿河守、鳥居甲斐守、筒井伊賀守 根岸肥前守、大岡越前守
なども勿論取り上げられている。

 矢部駿河守の項で、矢部が罷免された経緯が次のように紹介され、五郎左衛門が登場している。

◆無理が通った永追放

 矢部定謙が町奉行を追われたのは、目付の鳥居耀蔵がっちあげた罪状に水野忠邦が乗ったせいである。

 天保7年の大飢饉のとき、江戸市中の救い米の買い付けは南町奉行・筒井政憲に命じられた。 筒井は年番方与力仁杉五郎左衛門に指揮をとらせた。全国に米がないとき、仁杉は緊急.臨機に米を集め、江戸市中の御救小屋で施粥して飢民を救った。

 このとき余分な出費があつたのを帳簿上でつくろって処理した。 また与力・同心で米商から賄賂をとる者があった。 矢部定謙はこのとき勘定奉行の勝手方(財政担当)だったので、この裏事実を知っていた。

 しかし南町奉行に就任したとき、五年前の筒井のときの不正を理由に与力・同心を処罰するのを避けた。鳥居耀蔵はこれをかぎつけると、矢部が南町奉行所ぐるみで不正隠しをしていると水野忠邦に訴えた。水野は矢部排斥の絶好の機会とした。

 水野は直前の7月に庄内・長岡・川越三藩の「三方領知替え」を矢部につぶされたばかりだった。矢部は12月21日、南町奉行を罷免され、後任に鳥居耀蔵が就いた。

 矢部の詮議は評定所で、北町奉行遠山景元が担当した。監察役の鳥居がその横にいる。天保13年3月21日、6年前の与力の不正を見逃したかどで、筒井と矢部の二人の南町奉行が処罰された。当の筒井は「御役御免・差控」と軽かったが、当事者でない後任の矢部が「御家断絶・桑名藩主松平和之進に永預け」という重罰であった。水野の怨念と鳥居の邪心の合作である。

 遠山はこんな評定所の決定に荷担してしまった。のちに旗本大谷木醇堂は、天保期の町奉行というと遠山景元が一枚看板になっているが、矢部には遠く及ばないといい、その理由は「景元には追従軽薄の言無しといへども、承意迎合の色あり、定謙決してこの言色無し」(『燈前一睡夢』)と評している。遠山が性根をすえ、天保改革の諸策で水野と烏居に対決するのは、この後である。

早見 俊「妖怪南町奉行」    大和書房
 
 これは公儀御庭番を主人公とした小説であるが、この中に、天保改革を進めようとする老中首座水野越前守が、抵抗する南町奉行・矢部駿河守に業を煮やし、腹心の鳥居耀蔵に矢部罷免のための口実となる矢部のスキャンダルを探すよう命じるくだりがある。
 こうして五年前の御救い米事件が蒸し返され、仁杉五郎左衛門の名が登場する。
 以下、一部を抜粋して紹介する。

 

(前略)

翌朝、登城した矢部は水野に面談を求めた。

「世直し番、捕縛したそうじゃな」

水野は無表情に聞いた。

「捕縛した賊徒は世直し番ではございません」

矢部も無表情に返した。

「おお、そうであったな。世直し番を騙る盗賊一味であったのじゃな」

「仰せのとおりにございます」

矢部は慇懃に頭を下げた。

「ともかく、江戸市中を騒がせた殺しの一件は落着したのじゃ、庶民も安心して眠ることができよう。いや、庶民というよりは、町方の役人ども、と申したほうがよいか」

水野は口元を皮肉にゆがめた。

「同心どもの不正は、このとおり、お詫び申し上げます」

矢部は深々と頭を下げると、ゆっくりと面を上げ、

「同心どもの不正は弁解の余地はございません。しかしながら、同心どもが商人どもからたかりをおこなう背景を考えねばなりません」

静かに言い添えた。

「なにが言いたい」

水野は眉をひそめた。

「奢侈禁止令でございます」

矢部は水野の顔を見た。

「奢侈禁止令がどうした」

「少々行きすぎ、と。あれでは、庶民をいたずらに苦しめるだけにございます。結果、加納や亀吉のごとき、十手にものを言わせ、悪行三昧の者どもがはびこるのでございます」

「そのほう、町奉行の重職にありながら、ご政道を批判するか」

「批判ではございません。拙者は民を慈しむことの大事さを申し上げておるのでございます」

矢部は頼を紅潮させた。反対に、水野の顔色からは血の気がなくなっていく。
黙れ!」

水野は真っ青な顔で肩をふるわせた。

矢部は口をつぐんだ。

「もうよい。退がれ」

水野は目を血走らせ、気を落ち着かせようと低い声を出した。

「失礼いたします」

矢部はていねいな物腰で退出した。

水野は、

「鳥居を呼べ」

廊下で控える御用坊主に命じた。御用坊主は水野の不機嫌口調に、急ぎ足で去っていった。

やがて、鳥居が入ってきた。

「お呼びでございますか」

烏居はざんぎり頭を下げた。

「近う」

水野は自分の前を扇子で指し示した。鳥居は、緊張の面持ちで膝行する。

「矢部を罷免する」

水野は鳥居の目を覗き込んだ。鳥居の目に緊張が走った。

「ついては、おまえ、矢部を迫い込むことができるよう処置いたせ」

「はは」

鳥居はしばらく蜘蛛のように這いつくばったまま、動かなかった。

「あやつめ、せっかく、目をかけてやったというに、改革を逸脱する考えを改めん。いまいましいやつじや」

水野は吐き捨てた。

鳥居はゆっくりと頭を上げた。目が輝きを放っている。

烏居にとって政敵をおとしいれることほど、心浮き立つことはない。ましてや、今回は矢部である。

矢部をおとしいれれば・・・。

「矢部の後任はわかっておろうな」

水野は頼をゆるめた。

鳥居は対照的に口元を引き締めて、水野を仰ぎ見た。

「手柄を立てよ。矢部を追い込むのじゃ」

水野が言うと、

「かしこまりました」

鳥居は腹の底から言葉をしぼり出した。

(中略)

そのころ、下谷練塀小路にある鳥居の屋敷では用人藤岡伝十郎が書斎に呼ばれていた。

藤岡は、鳥居が文政3年(1820)、25歳で鳥居家に養子入りした際、実家である林家から供侍として派遣された。以来、20年以上にわたって鳥居のそば近く仕えている。気難しい主人への仕え方は熟知していた。

「矢部のこと、調べは進んだか」

鳥居のおでこに燭台の蝋燭の明かりが揺れた。髪が伸び、ようやく貧相ながら髷が結われていた。

「はい、これに」

藤岡は緊張の面持ちで、報告書を差し出した。

鳥居は無表惰で報告書に目を通していった。 藤岡はうつむき加減でひかえている。

やがて、鳥居は報告書を文机に静かに置き、藤岡に視線を向けた。

「うむ、よく調べたな」

「はは。ありがとうございます」

藤岡はめったにない鳥居のほめ言葉に、身をふるわせた。

「だが、これだけでは、弱い」

鳥居は自分に言い聞かせるようにうなずいた。

報告は、矢部が不正を犯した与力の処罰を軽んじたり、すじ違いの調査をしたことを述べ立てていた。

不正を犯した与力とは、南町奉行所与力仁杉五郎左衛門のことである。天保7年(1836)に、「天保の飢饅」による米価高騰により、江戸市中でお救い米が庶民にほどこされた。そのお救い米を取り扱ったのが仁杉である。

仁杉は、米商人と結託し、賄賂を受け取った。藤岡は、矢部が仁杉の処罰に手心を加えたと断罪した。

.すじ違いとは、お救い米に関する調査を、天保七年当時管轄外であった勘定奉、西の丸御留守居役の身でおこなった、と訴えている。

いずれも五年前に起きた事件をほじくり返して、矢部の非を断罪しているのだ。

仁杉の罪は当時奉行であった筒井政憲の責任を問うべきであり、すじ違いの調査といっても、お救い米に関することであれば、幕府の要職にある者として矢部が調査するのは当然といえた。

藤岡としても、矢部を失脚に追い込めば主人が町奉行へ昇進することになることは、十分承知している。それだけに、調査は入念かつ慎重におこなっている。

だが、これだけで弾劾するのは困難と思わずにはいられない。藤岡はふたたび緊張の色を浮かべた。

「町奉行の重責にある者を弾劾するのじゃ。それ相応の落ち度がないことにはな」

「かしこまりました」

藤岡は額に順汁をにじませた。

「ただでさえ、矢部の評判は高まっておる。先月に起きた同心殺しと、米問屋に押し込もうとした賊徒の捕縛に成功したのじゃからな」

鳥居は言った。

「それが、巷では妙な噂がたっております」

藤岡は額を懐紙でぬぐうと、鬼吉一味が引き回しをされている最中、自分たちは世直し番を騙った覚えはないと叫んだことを話した。

「ふん、盗賊どもがなにを申そうがどうでもよいことであるが、ほじくれば面白いことが出てくるかもしれんな」

鬼吉一味の一件は、鳥居の嗅覚を刺激したようだ。

「そう思いまして、少々調べました」

藤岡は心持ち、身を乗り出した。鳥居は目に暗い光を宿らせた。

「殺された同心の一人、神山銀一郎ですが、ほかの同心や手先とは大違いの評判のよい同心だったそうです」

「それで神山だけは、お家断絶にならなかったのであろう」

「それだけでは、どうということはないのですが、神山、陽明学の学徒であったとか」

鳥居の目が光った。

「まさか、大塩平八郎とつながりがあるのではないだろうな」

.「それはわかりませんが」

「調べよ。いや是が非でも大塩とのつながりを明らかにするのじゃ。明らかにできる証拠がなくば・・」

鳥居は薄ら笑いを浮かべた。藤岡は両手をついた。

「でっち上げよ」

(中略)

水野は、矢部を江戸城中奥老中御用部屋に呼び出した。天保12年も暮れようとする12月21日である。居並ぶ老中の前で、
矢部駿河守、町奉行の要職にありながら、不行き届きの数々、なかんずく、天下の大罪人大塩平八郎を信奉する部下を見過ごし、その者が江戸市中を騒がせるとは許しがたい」

矢部を睨みつけた。

矢部は表情を消して水野の断罪を待った。

「よって、そのほう、町奉行の職を罷免し、家名断絶のうえ、伊勢桑名藩へお預けとする」

水野は勝ち誇ったように申しつけた。

矢部は薄ら笑いを浮かべ、両手をついた。


牧 英彦 「隠居与力吟味帖 錆びた十手」

   学研M文庫   08.06.24発刊

 南町奉行所の与力を引退して、深川・新大橋近くに隠居している宇野幸内という架空の人が南北奉行所に協力して事件を解決していくストーリーである。

 背景には現職の北町奉行・遠山左衛門尉、南町奉行・筒井伊賀守と、町奉行の座を狙う矢部駿河守、鳥居耀蔵との権力争いがあり、当然ながら天保7年の大飢饉の時の御救い米買付問題も取り上げられており、仁杉五郎左衛門も多くの場面に登場している。

 この小説の特長は、五郎左衛門を有能で面倒見の良い老練与力として描いている事で、他の多くの小説が罪人・五郎左衛門として描いているのと対照的である。

 主な表現をあげると
「見るからに温厚な、この品のよい五十男」
「年番方を務める南町最古参与力で、現場経験が豊富のみならず砲術と軍学にも長じていると評判の人物」
「御救米取扱掛を任された仁杉は市中の米問屋たちを能く指導し、限られた予算内での米の買い付けに成功し、南町奉行の名を大いに高めた。」
「海千山千の商人連中が飢誰に乗じて荒稼ぎせぬように監視の目を光らせ、もちろん使い込みや鰍脇も許さず、緊急の買米を一両の狂いも出さずに実現させた仁杉の功績は並々ならぬこととして、公儀から高く評価されていた。」
「南町にその人ありと知られた人物で、与力の中でも古参の者しか就けない年番方の要職を務めている。」
「南北の町奉行所で随一の切れ者」
「南町の年番方与力に、仁杉五郎左衛門なる者がおりまする」「聞いておる。なかなかの切れ者だそうだの」「左様。先の飢饅の折には御救米の買い付けを任され、伊賀守めの信任も厚いと聞き及んでおります」
「鳥居が言っているのは四年前、天保七年(1836)の飢誰の折のことである。飢えた江戸の民に放出する御救米の調達を命じられた南町奉行所は、首尾よく大任を果たしている。そのときの現場責任者が、仁杉だったのだ。」
                        などなど。
佐藤雅美「十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯」

 11代将軍家斉の生涯を通して文化文政天保時代の出来事を描いた小説。
 五郎左衛門関連の部分については、他の多くの小説と同様に三田村鳶魚の資料を引用している。
 このため、奉行所刃傷事件の日付を6月29日としているが、信頼できる史料によれば、事件があったのは6月2日である。
 
 この中で、五郎左衛門の御救い米買付の不正問題は
「不正といっても叩けば挨がでるといった程度の不正で、目をつむろうと思えばつむれる。いや、だから、このときまで見過ごされていた。」 あるいは
「これは仁杉の買上米不正の一件までいきつく。ただし、目くじらを立てて暴くような不正ではない。」
とし、これが当時の慣習から大した不正事件ではないとしており、これが摘発されたのは、
「矢部を罷免したあと、憤激がおさまらない水野は評定所一座に仁杉五郎左衛門の一件を再審せよと命じたため」
としている。
 他の小説が総じて鳥居の執念、権力欲で矢部を陥れたと表現しているのと対照的である。

  
十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯
  参照   

新 中村彰彦の「天保の暴れ奉行」
 この小説は07年5月に発刊されたもので、珍しく矢部定謙を主人公にした小説、472ページの大作である。

 他の小説に較べて矢部と五郎左衛門との関わりは詳しく表現されている。

 おおむね、事実にそって描かれていると思われるが、次の4点は完全に事実と違う。

1)天保12年現在で五郎左衛門の妻が登場していることが、妻は天保11年3月12日に死亡している。
    (仁杉家過去帳)
2)刃傷事件の時、堀口六左衛門は既に死んでいるので佐久間は倅貞五郎を殺害して恨みを晴らしたとあるが、六左衛門は五郎左衛門と同じく獄死である。 奉行所に記録も残っている。(南撰要類集)
3)刃傷事件は矢部が奉行に就任(4月28日)して旬日をおかず、とあるが実際は6月2日。(藤岡屋日記)
4)矢部と五郎左衛門の会話の中で鹿之助は悪い病気にかかり、そのまま身罷ったとあるが、鹿之助は明治まで生きている。(旧幕引継書他)
  などなどであるが、小説だからめ目くじらをたてても仕方ない。
        天保暴れ奉行 抜粋
 
佐藤雅美の「立身出世」官僚川路聖謨の生涯
 川路聖謨は日田代官所の下級役人の子として生まれながら、小普請組川路家の養子となり、持ち前の能力と努力で勘定方勤務で手腕を発揮、佐渡奉行、小普請奉行、奈良奉行、大阪町奉行を経て勘定奉行まで上り詰めた。この小説は川路の出世を通して化政、天保から幕末までの世の動きを描いており、その中で交友のあった矢部駿河守の失脚を描く章があり、仁杉五郎左衛門が登場する。
「不正といっても、叩けば挨がでるといった程度の不正で、目をつむればつむれる。目くじらを立てるような不正ではなかった。いや、だから天保13年のこの時点まで見逃されてきた。」とお救い米買付事件を描いている。


    
「立身出世」官僚川路聖謨の生涯 抜粋



松本清張の「天保図録」  (上)(中)(下)
 天保時代、将軍や大奥を巻き込んで幕閣、旗本、奉行、町方役人が繰り広げた派閥・権力闘争を描いたもの。
 南町奉行の座を得んがために、矢部駿河守が筒井和泉守を、鳥居甲斐守忠耀が矢部をお救い米問題で告発、そのあおりを受けて五郎左衛門が「気の毒にも」投獄され、牢死するエピソードが数ページにわたって挿入されている。

「買上米は南町奉行所与力仁杉五郎左衛門の一手扱いで、しかもその手限りのことになっていましたから、町奉行の筒井殿も詳しいことは知っておりませぬ。矢部殿は当時勘定奉行でしたが、買上米をするたびに不正があると睨み、その資金を出している御用達の者から勘定書控を内々に出させて、その書類を吟味しておったそうですから、早くからそのへんに気をつけていたものとみえます」

 天保にはいってから飢饅が頻発し、そのたび江戸市民が飢餓に瀕した。幕府ではその救助策として遠国から米を江戸に運ばせていたが、これを「御救米」といった。
天保七年には幕府は御救米一万石を出して筋違橋外、和泉橋外に救小屋を設けて粥をほどこしている。小屋入りする者はやなぎわら五干人以上に及んだ。それでも柳原通りから浅草にかけて三十余人の餓死体をならべたほどである。

「深川佐賀町の米問屋に又兵衛という者がおりまして、これに越後米を買わせにやったところ、番頭の手違いで廻船が遅れたため、大坂、仙台の買付米と入り船が重複いたしました。すると、そのままでは相場が安くなってたいへんな損がいくのを、その損金を又兵衛には出させないで、買上米の資金を出した御用達の仙波太郎兵衛という者に出させ、帳面を押しつけてしまったそうです」

「そこにもってきて、また越後に買米に行つた又兵衛の手代どもが向こうの女郎にうつつをぬかして三百両ほどの金の使い込みをやりました。仁杉は、その金も材木町の地廻米問屋孫兵衛という者に云いつけて地廻米を買い上げさせ、その値開きの金で帳面を合わせてしまったそうです」

「そうすると、又兵衛という奴は、廻船の遅れた科を免れただけでなく、手代どもの使い込んだ金の弁償までせずに済んだわけだな?」
「けっきょく、一文も損をせずに終わりました。この仁杉の取り計らいを町奉行の筒井伊賀殿は黙認し、知って知らぬ顔をしていたといいます。」

「この買上米不正のことは、表沙汰にはされないで内々に済まされましたが、とにかくその責任を負って筒井伊賀は辞めざるを得ないところまで追い込まれたわけです。ただここに気の毒なのは仁杉五郎左衛門で、彼はこの不正一件の処分の犠牲になって入牢しましたが、ほどなく牢死を遂げたそうです。」

「佐久間伝蔵が腹に据えかねたというのはこの片手落ちの処分で、仁杉が深州佐賀町の米問屋又兵衛に損をかけさせなかったのは、これまで又兵衛がたびたび江戸に御救米を運んできた功労を考えていたからです。いわば、特別の気持ちで取り計らってやつたものを、誰かのために不正行為とキメつけられてしまった。そのために、自分をかわいがってくれていた仁杉が牢死をする始末になった。仁杉に私心があったわけでもないのにこういう非道に遭わねばならなかった、それもこれも堀口六左衛門が矢部殿の口車に乗せられてべらべらとしゃべったからだ、しかも堀口はほどなく定廻筆頭と出世して、密告の口を拭って知らぬ顔をしている、とてものことに秘密の多い奉行所でこのような人問を生かしておくわけにはいかない、これが佐久間伝蔵が堀口に刃傷に及ぼうとした考え方だったようでございます」


平岩弓枝の「妖怪」
 鳥居甲斐守忠耀の生涯を描いたもので、この中に五郎左衛門が登場する。
念願の町奉行になるために、ライバル矢野駿河守を蹴落とす材料として数年前の、お救い米買い付けに関わる不正事件を明るみに出し、矢野は改易他家お預け、五郎左衛門は死罪となった顛末が描かれている。
 鳥居は首尾よく町奉行に就任したが、その後天保の改革に失敗により、失脚、明治にいたるまでの幽閉された生涯を、ほぼ史実に基づいて描いている。


抜粋
 それは天保六年から七年にかけての大飢鐘の折の事件であった。
 江戸は米問屋が米を独占し、人々の思うようには放出しなかったこともあり、米の値が上って庶民は困窮した。
 とにかく、米が足りないというので、まず米問屋の独占を廃止し、町方御用達の仙波太郎兵衛ら三名に命じて、手代達を諸国へ派遣し、米の買入れを行ったのだが、その窓口となった町奉行所は、米を買う資金として、江戸の問屋、質屋の大店十名に対して、各々2千両、また別の問屋、質屋にそれぞれ千両を立て替えるように命じ、それらの金は米価が安定した後に、幕府が買米を売りさばいて米問屋や仲買人から売米口銭を取りたてて返却することに決めた。
 にもかかわらず、時の町奉行、筒井伊賀守は、それを実行せず、放置してしまった。
 その失態を調査していたのが、当時、勘定奉行であった矢部駿河守であったという。
 また、この買米の際に、町奉行所与力の仁杉五郎左衛門、同心、堀口六左衡門など五名が不正を働いたことも明らかになった。
 もともと仙波太郎兵衝らに米の買付の役目を申しつけたのは仁杉であり、その折に仙波などから反物などの礼を受け取っている。
 その上、仙波らの買付が進まないという理由で、勝手に深川佐賀町の又兵衡という者を太郎兵衝の手代という名目にして越後へやり、五百俵余りの米を買いつけさせたが、この米の売り上げと、以前からの米相場との差額で浮いた金、二百両を仁杉は自分の懐に入れていた。しかも、又兵衛達が使った酒食費や遊興費を相場違いによる不足金として帳簿を作ってやったり、買いつけ米を江戸で価格操作に協力した本材木町の孫兵衛という者などを新しく米問屋に加えてやり、その礼金として六十五両を受けた他、盆暮に二両二分ずつ、また、大坂へ出張した際には饒別として五十両をもらっていた。

高橋義夫「天保世直し廻状」
 矢野駿河守の用人、狩野晋助の目を通して、主人の矢野の出世、鳥居忠耀とのかかわり、天保年間の事件、世相などを描く。

 この中でお救い米買付にかかわる不正事件も描かれているが、これも鳥居が矢野を町奉行の座から引きづり下ろすためのネタとして針小棒大に取り上げ、矢野を失脚させるのみならず、牢獄にいる五郎左衛門を「死人に口なし」とするため、毒殺させたのではないかとしていつ。
ハードカバー、460ページの大作である。

         「天保世直し廻状」

佐藤雅美 「身から出た錆」  短編集「槍持ち佐五平の首」より

天保七年、飢饅のあった年だ。江戸も米不足で、南町奉行所の与力で「市中御救米取扱掛」の与力仁杉五郎左衛門は対応に追われた。
 江戸の有力商人というと「町方御用達」で、十人近くいたが、その一人に芝田町に住む仙波太郎兵衛というのがいた。仙波太郎兵衛の先祖は京からやってきた牛車引き。五代目が身を起こして、江戸でも有数の両替商(実体は金融業者)となったのだが、仁杉五郎左衛門は当代の仙波太郎兵衛を呼んでいった。
「そのほうに米買付方を申しつける」
 町方の与力は不浄役人とされており、江戸城に登城することなど皆無で、役人としてははなはだ貶(おとし)められていたのだが、それでも町政においては大層な権力を持っていた。仙波は両替商だ。
 米の買付けなど無縁だったが断ることなどできない。迷惑だと思いながらも、
「有り難き仕合わせに存じます」
と手をついて謝辞を述べた。

仙波の米の買い付けは案の定はかどらない。それは仁杉も十分承知のうえのことで、仙波を呼び、深川佐賀町の米問屋又兵衛を引き合わせていった。
「この者をそのほうの手代として越後表に米の買い付けに差し遣わす。迫って又兵衛より、米代を為替で送ってもらいたいといってくるだろうから、その節は立て替えてやるように」
「いかほどになりましょうか」
仙波は恐る恐る聞いた。
「一万両にもなろう」
「げえー」
仙波は仰天していった。
「そんな大金、とても用立てかねます」
「一時の立て替えだ。米は値上りする一方なのだから、江戸へ運んできて売れば儲かる。何をためらっておる」
「一万両は大金です」
四、五十年前の寛政の改革時に、仙波の先代は八万両という御用金を幕府に上納した。一万両くらいわけもないと仙波の懐を見透かしてのことで、仁杉はいう。
「その方は方々に家屋敷を持っているそうな。沽券状(権利書)を質に入れるだけでも、一万両くらい容易に都合がつこう。それでも用立てられぬと申すか」
「とはおっしゃいますが」
「お膝元でなんの大過もなく商売をしておられるのは誰のお陰だ。お上のお陰ではないのか。こんなときに、日頃の御恩顧、冥加に報いないでどうする」

仁杉からさんざんに脅されて、仙波は一万両の大金を用立てると約束させられた。そしてもし買い付けた米を回漕して、損が生じたら、わたしが負担しますという、請書も提出させられた。
 米問屋又兵衛は越後に米の買い付けに出向いた。又兵衛は仙波に一万両近くを送ってくるようにと申し送った。仙波はいわれたとおりの額を為替で送った。
 買い付けた米の江戸への回漕は遅れ、売却価格は仕入価格を下まわった。金額ははっきりしないが損がでた。仁杉は約束させたとおり、損を仙波に被らせた。ついでに又兵衛が越後で使った酒食遊興費も仙波に持たせた。まず,こういうことがあった。

 つぎに仁杉は木材木町の地廻り米問屋孫兵衛らにも、ひそかに米を買うように命じた。こちらは損をだしていないようなのだが、仁杉としては、損をだすようなら、仙波に負担させる腹積もりだったようだ
.
これらの一件を通じて、仁杉は以下のように私腹を肥やした。
一、地廻り米問屋孫兵衛らから、多分儲けの中からだろう金子二百両を受け取った。
一、孫兵衛らは、ついては「東国米問屋」という名目の問屋を認めてもらいたいと願った。仁杉は認め、謝礼として鰹節一箱と具足代金六十五両を貰い受けた。
一、仁杉と妾は以後、孫兵衛らから、年々盆暮に金二晒二分ずつ受け取ることになった。
一、仁杉が公用で大坂へ出向くとき、孫兵衛らから餞別として五十両を受け取った。
一、仁杉には鹿之助という与力見習い中の伜がおり、家出をしたり、放埓に振る舞っていた。若者には往々にしてあることだが、そのためそのつど、親の五郎左衛門が尻拭いをし、その金をまた地廻り米問屋孫兵衛に用立ててもらっていた。


宮城賢秀の「北の桜、南の剃刀」
鳥居が町奉行になるために町奉行矢野駿河守の瑕疵探しを部下をやらせ、首尾よく町奉行に就任する様子を描いている。
鳥居の人物描写、五郎左衛門の罪状など平岩弓枝の「妖怪」に近い。
この小説では五郎左衛門はすでに投獄されており、妾の娘が仇を打とうと芸者に身をやつす挿話も入っている。

この小説は最近学研M文庫から「羅殺剣」と改名されて再発刊されている。

内容抜粋は
奉行所刃傷事件参照。

童門冬ニ「小説 遠山金四郎」
遠山金四郎が町奉行に任命されてから罷免されるまでの間の老中水野越前守、同役の矢部駿河守、目付から同役の町奉行となる鳥居甲斐守との葛藤を描いている。良く見る「名奉行の名さばき」の遠山ものとは一味もニ味も違う。
 五郎左衛門の買米事件も何回も出て来る。この事件が原因のひとつになり、同役矢部が罷免されるところで、遠山が心ならずも水野、鳥居の「矢部追い落とし」に加担せざるを得ない過程が詳しく説明されている。
 注目するのは五郎左衛門の弟「六郎右衛門」が北町奉行所の筆頭与力を勤めており、遠山の人間性に触れて五郎左衛門ゆずりの性格からだんだん変わっていく描写が印象的である。
 この小説でも五郎左衛門の獄死は「毒殺されたという噂だ」としている。

白石一郎「江戸人物伝」
 昭和54年ごろ、歴史読本に連載された「歴史と旅」を一冊にまとめたもので江戸時代の人物を紹介している。
 矢部定謙と鳥居忠耀については「天保のライバル奉行」という題名で両者の比較やからみあいを描いている。
 鳥居が矢部を陥れるネタとして買米事件と奉行所内刃傷事件の処理の仕方を当然の事ながらあげているが、買い米事件が主題ではないので五郎左衛門の名前は現れてはいない。
 



三田村鳶魚「江戸ばなし」
三田村鳶魚は明治3年(1870)八王子に生まれ、本名を玄龍という。青年時代は三多摩壮士のひとりとして、政治活動に携わり、日清戦争には従軍記者として活躍し、後山梨日日新聞記者として、甲府に在住したこともある。
明治・大正・昭和の三代にわたって、江戸時代の文学、風俗の研究家として名高く、著書には「未刊随筆百種」「鳶魚江戸ばなし集成」「西鶴輪講」「元禄別快挙録」「江戸風俗」など550冊にものぼる。時代考証に生涯を投じた作家で、その功績は非常に大きい。
時代作家の野沢淳、海音寺潮五郎、山岡荘八・藤森成吉らの名作家も、しばしば鳶魚を訪れ教えを請うている。

この数多い著作を集成した「三田村鳶魚全集」に仁杉五郎左衛門がかかわった「お救い米買付事件」と「南町奉行所刃傷事件」の項があったので抜粋して掲載する。

買米不正一件

買上米の不正というのはどういうことかといいますと天保七年の買上米は、南町奉行所の与力仁杉(ひとすぎ)五郎左衛門の一手扱いで、その手限りのことでありますから、町奉行の筒井よりほかに、詳細のことを知っている者はない。

当時矢部は勘定奉行在職中でありましたが、幕府が買上米をする度に、いつでも不正があるものですから、それに気をつけておりました。
そこで買上米の資金を出した御用達の仙波太郎兵衛から、御救米勘定書控を内々で提出させまして、その書類を吟味しましたけれども、その中からは何も不思議なことは見つからなかった。そうしているうちに、自分が西丸御留守屠に転役させられたので、一層買上米事件というものを探る気になった。なぜ探る気になったかといいますと、胸に一物があるからで、ここへ追い込められてはかなわない、這い出すのにはどうしたらいいか、ということを考えていたのです。

筒井が町奉行として買上米に鞍掌(おうしょう)することは、勘窟奉行には関係がない.西丸御留守屠になれぱなおさらのこと、小普請支配に至っては最も縁が遠くなる。しかるに矢部は、町奉行の手下の犯罪、町奉行の不都合たことを摘発しようとした。これはそのあぱき立てたことを、水野が自分の都合のために採用する、ということがあるものですから、どうしてもこの時代にはスバィが盛んになるわけであります。

そこで矢部がどうして買上米の不正を捜し出したかというと、西丸御留守屠であった時分に、南の定廻りの筆頭である堀口六左衛門の娘を見染めたというわけで、ひどく懇望して、金にあかして妾にした。どうして堀口の娘をそんなに懇望したかというと、買米事件は五年前の話で、その古いことを洗うには、主任であった仁杉が口を開くはずはない、仁杉の下に使われたのは、堀口と佐久間伝蔵との二人ですが、佐久間の方はたかなか硬骨漢で、矢部の自由にはならない、堀口の方なら何とかなりそうだというので、娘を見染めたということで手繰りっけた。そうしてだんだんに都合のいいことを堀口から聞き出したのですが、その買米の内情というのは、こういう語なのです。

深川佐賀町の米間屋又兵衛という者に、越後米を買わせたところが、その回船が遅れたために、大坂・仙台の買付米と入船が鉢合せした。そこで相場が安くなって、大変損がいったのを、その損金を又兵衛に出させないで、仙波恒出させて帳面づらを押し付けた。また越後へ買米に行った又兵衛の手代どもが、三百両ほどの金を遺い込んだ。その金も本材木町の地回り米間屋孫兵衛という者に命じて、地回米を買上げさせた、その値開きの金で償わせて帳面を押し付げた。それがために米問屋の又兵衛という者は、回船の遅れた責任を免れたのみならず、手代の費消した金の弁償も免れまして、結局一文も損をせずに済んだ。

そういう取りはからいを仁杉がしたのに、それを黙認したのが、町奉行の筒井伊賀守なのです。この計算の仕方が不正であって、上司を偽ったものだとになった。それをその時に覿面(てきめん)に暴露はしなかったげれども、この理由で筒井を追い込んでしまった。勿論、仁杉などを処分するのが目的ではたい。後目この不正一件の処分の時に、仁杉は牢死しましたから処分は受けておりませんが、その取りはからいを論じるのではなく、筒井を追い払う方が目的であった。当時この一件を暴露しなかったが、その目的は首尾よく達して、矢部は天保十二年四月二十八日に南の町奉行になっております。.

南町奉行所の刃傷

水野や矢都からいえぱ、これで注文通り行ったのですからいいわけですが、そんなことをされては合点のゆかぬ佐久聞伝蔵という者がある。
仁杉の取りはからいというものは、買米事件については相当骨を折っている又兵衛に犬損をさせたくない、それがために罪人などを出したくもたい、という考えから、帳面を押し付げさしたので、別に悪意はたかった、それだから筒井も何も書わなかったのだ、と佐久間は思いきっている。
そういうわけであるのに、自分と一緒に仁杉の下にいて、万事一緒にやった堀口が、利欲のためとはいいな淡ら、仁杉を出し抜いて筒井をへこめる材料を、矢部に与えるというのは、いかにも不人情なやつである、ああいう人でなしと同役であっては、白分も油断が在らぬ、いつどんな目に遭うかわからない、これでは秘密の多い町奉行所の用事は、誰とも一繕にすることが出来なくたってしまう、後来の見せしめのために、一つひどい目に遭わせてやらたげれぼならぬ、と決心しました。

そのうちに仁杉その他は牢に入りましたが、仁杉は牢の中で病気をしまして、宿預けになって、申渡しもない聞に死んでしまった。

佐久間伝蔵は、年来部下であった清誼もあり、仁杉の最期の気の毒なことを、今更のように感じましたから、堀口を憎む心がますます強くなった。

いよいよ後来の貝懲しのために、目に物見せてくれよう、という心持がだんだん忙しくなってきました。佐久間はそれから病気というわけで出勤しない。堀口も佐久闇も年番方下役というので、同じ役を勤めていた。この年番方というのは奉行所の会計事務を取り扱うので、その主任は佐久間彦太郎という与力でありましたが、ある日伝蔵が彦太郎の台所から入って来まして、堀口の出勤する日を聞き合わせて帰って行った。それが刃傷のある三四日前の話でありました。

天保十二年六月二十九日、丁度矢部が町奉行になってから三月目です。伝蔵は年番所へやって来て、堀口の来るのを待っておりました。ところがどうしたのか、堀口成出勤しない。昼過ぎになって、吟味方下役に出ている堀口の伜の貞五郎が、何の用があったのか出て来た。それを見ると、佐久間は一刀の下に首を打ってしまいました。続いて出て来た高木平次兵衛、これも斬った。この高木という者は、堀口のために矢部に渡す資料を蒐集する手伝いをしたものです。変を聞いて伝蔵の弟の相場莱が駆げ付げて、取り押えようとする問に、伝蔵は年番所の柱に寄りかかったまま、咽喉を突いて落命致しました。

そのあとへ目ざす堀口が出勤したので、遅刻したために刃傷を免れることが出来たのです。この町奉行所の変事を聞いて、御徒目付が検視に来ましたが、矢部が筒井を追い込む資料が刃傷の基になったということを隠して、伝蔵は多分発狂したものであろう、と申し切りました。

その時に御目付の鳥居耀蔵は、かねて仁杉の不正を知りながら、一件物である堀口や佐久聞を捨てておくのを見て、矢部の取扱いを変だと思う。こう睨んだのは、鳥居が町奉行になりたいから、矢部を蹴るつもりなのです。

そこで鳥居は御徒目付を使って、いろいろな調べを致しました。御徒目付というものは、総数六七十人もありまして、全体を三四人の与頭が統轄している。これは御目見以下第一の励み場と申Lまして、なかなか働き場所です。役向きは探債ぱかりではありませんが、いろいろ在ことをほじくり出してくる役目なので、出世したい人間はよく御徒目付に出たがる。その下に御小人目付というのが百人ほどありまして、これが御成先の警衛とか、風聞ただしとか、その他いろいろな役目がある。両方とも任務はいろいろありますが、要するに探債向きの用事を持っているのであります。

鳥居という人はなかなか聡明な人でもありましたし、また聡明であるから、何でも知らぬということかない、白分が力を入れて調べれぱ知れぬことはたい、という意気込みを持った人でもありましたから、どうしても探偵向きに出来上っている。探償好きでなけれぱならぬ、といってもいいくらいの人でありました。それが手柄になって、ずんずん出世したのですから、ますます出世がしたくなり、ますます聡明なところを発鐸したくなる。そういう鳥居が矢部の処置に対して、どうもおかしいと睨めたのです。

稲垣史生「武家編年事典」の記述
 稲垣史生の「武家編年事典」に奉行所内の刃傷事件について比較的詳細に掲載されている。
 三田村鳶魚の文献「捕り物のはなし」がベースになっている。
 特長としては、一般に評判の良い矢部駿河守を策謀家としてとらえていることである。刃傷事件のあった6月に既に五郎左衛門が獄死しているなどという前後関係の間違いもあり、100%信用できる内容ではないが、よく読んで見ると多くの小説、文献のもとになっていることがわかる。
  奉行所内刃傷事件